水曜日 入稿二日前
印刷会社に持ち込む印刷原稿はパソコンで制作する。
第一工程は商品写真の加工。デジタルカメラで撮影した写真から商品だけを切り抜く。画像を切り抜く方法はいくつかあるが、広は画像編集ソフトとマウスを使い、切り抜きたい物の輪郭をトレースして背景と分離させている。この間、地味で単調な作業が延々と続く。
商品を切り抜いたら色の変換、明るさやコントラストの調整などを行う。広の手掛けるチラシは一色刷りだが、この作業を怠ると、殻付きの牡蠣がおはぎに見えたりする。
入稿先の印刷機の場合、色を飛ばしすぎたかな、と思うくらい大胆に調整してちょうどいい塩梅に仕上がるようだ。
第二工程は商品データの入力。産地やメーカー・商品名・数量・通常価格や販売価格を打ち込む。これまた地味で単調な作業が延々と続く。
だがここで気を抜いてはいけない。誤字脱字などしようものなら大事だ。店内中に【訂正とお詫び】の文書を張られ、従業員に白い目で見られ、それから……どうなるのだろう? 賠償金を請求されたりするのだろうか。
過去に印刷会社が価格表示ミスを出した時には、田中がこの世の終わりみたいな顔で張り紙をしていた。その後ろ姿に漂う悲愴感といったら尋常ではなく、声をかけるのもはばかられたので、結局、事の顛末はわからずじまいだ。まあ、世の中には知らないほうが幸せなこともある。
第三工程は紙面の組み立て。先の工程で出来上がった商品写真とデータをレイアウトソフト上の紙面に配置していく。その他、メインタイトルを目立たせたり、購買意欲をそそるような調理イメージの写真や催事のイラストを入れたりする。
それから忘れてはならないのが『※写真はイメージです。』の断り書き。自分で撮影した商品写真以外には、すべてこの一文を添えなければならない。
なんでも「写真と実物が違う」とのクレームが多いらしい。中には「チラシのサンマは七輪で焼かれているのに店頭のサンマはパックに入っている」とクレームをつけた客もいたとか。
──常識で考えろ!
その論理でいくと、一パック二尾のサンマを十パック販売するだけでも、鮮魚売場の平台に七輪を十個並べなければならない。特売品が十個しか用意されていないとなれば、それはそれで客から苦情が出るので、結果、鮮魚売場は大量の七輪に占領されることになる。
当然、匂いと煙も凄いだろう。脂がのったサンマならばそこここで火柱が立ち、ちょっとしたボヤ騒ぎではすまない。
仮にスーパーの営業努力で前述の問題をクリアしたとしよう。ではその客はそれを買って帰れるのか? 単純計算で、夫婦二人ならば七輪一個、四人家族ならば七輪二個持ち帰らなければならない。奇数家族や家人に大食漢がいると大変だ。
炭火入りの七輪は熱くて重い。レジ袋などてんで役に立たない。その状態で公共の交通機関は利用できないだろうから、自力で帰宅しなくてはならない。
百歩譲って、無事、自宅まで持ち帰れたとしよう。店頭で食べ頃に焼けたサンマは、食卓に上るころには炭になっているに違いない。
想像力が欠如しているのか、あるいは、有り余る想像力が常人には計り知れない方向へ暴走しているのか。いずれにせよ、そのせいで余計な手間が増え、広にとっては迷惑この上ない話だ。
「よし、できた」
とりあえず、前日原稿を入手した三部門分は完成。各主任に商品写真やデータに誤りがないか確認してもらうため、紙面をプリントアウトする。プリンタから排紙されたA四用紙は、圧倒的に空白部分が多かった。溜息を吐きつつ午前一時、就寝。
午後、大学の講義を終えた広は、スーパーへと向かった。
昨日同様、チラシ原稿未提出の部門には原稿の催促をし、印刷原稿が完成した部門には内容の確認を依頼して回る。
青果の加工場を覗くと、主任の野末が玉ネギをネットに詰めているところだった。
「お疲れさまです。来週のチラシの原稿を貰いに来ました」
「まだできてない」
間髪を入れず、野末がぶっきらぼうに返した。彼は、休み明けはいつも決まって不機嫌だ。
「そうですか。締め切りは火曜日だったんですけど」
「そんなこと言ったって、うちは他の部門と違ってその日の朝に仕入れに行くから無理。一週間も前からなんて決めらんねえよ」
「確かに、それはそうですね」
「なあ、青果はチラシから外してくんねえかな」
正直、チラシに掲載する部門が一つ減ることは、広としてもありがたい。だが所詮、外注で雇われている身。なんの権限も持たない部外者にはどうすることもできない。
もっとも野末自身、広が部外者の若僧だからこそ不平不満を漏らしているだけで、広に本気でどうこうしてほしいと思っているわけではないだろう。
広は「確かに」「そうですね」「大変ですね」の三つをランダムに繰り出し、野末の愚痴を右から左へ受け流した。
「今、玉ネギの仕入れ値は高いんですか?」
野末の愚痴も尽きてきたころ、広は彼の手元の玉ネギに視線を落とした。
「ん? べつに高くも安くもない。普通」
「じゃあ、来週の特売に玉ネギなんてどうですか?」
「玉ネギの特売はもうやってる」
言って野末は、壁に貼られた今週の特売チラシを顎で指し示した。広はチラシを一瞥し、
「でも買う側からすれば、玉ネギは何度特売になっても嬉しいものじゃないですかね。いっそ玉ネギ・ニンジン・ジャガイモの三つは毎日特売でもいいくらいですよ」
「毎日カレーでも作んのかよ」
「まあ、カレーとかシチューとか肉じゃがとかポトフとか……」
「それ、具がほとんどいっしょじゃねえか」
広の主張に、野末が軽く笑う。広は神妙な面持ちで頷いた。
「そのくらいよく使う食材だということです」
「んー、まあ、考えとく。でもそれ以外にも何品か考えないといけねえから、原稿は明日でもいいか」
広は一瞬躊躇い、今すぐこの場でください、という台詞をぐっと呑み込んだ。
「わかりました。ではまた明日の夕方、貰いに来ます」
本日、原稿を入手できたのは二部門。残り四部門。完成までの道程はまだまだ遠い。