火曜日 入稿三日前
折口広は、スーパーの食品事務所に設置した【チラシ原稿提出箱】を覗き込み、がっくりと肩を落とした。
右から見ても左から見ても、はては逆さに振ってみてもゴミの一つも落ちてこない。ただ箱の前面に張り付けたA四用紙がカサカサと乾いた音をたて、紙一面に赤いマジックで明記した『原稿締め切り ○月△日(火) 午後五時 厳守!』の文字が虚しさを増長させる。
広はそれを箱から剥がすと、忌々しい思いで握り潰し、溜息とともにゴミ箱に捨てた。
大学生の広はアルバイトで新聞折込チラシを制作している。担当は地元スーパーの特売チラシ。特売は毎週月・火・水の三日間開催され、チラシは月曜日の朝刊で各家庭へと配布される。
チラシを月曜日の新聞に折り込むためには、印刷原稿を前週の金曜日までに印刷会社に入稿しなければならない。そこで広に与えられた制作期間は、火曜日・午後五時から金曜日・午前十時までの四日──。
「はぁ」
広は本日二度目の嘆息をもらした。
当スーパーの食品売場は、食品・日配・青果・精肉・鮮魚・菓子・酒・惣菜・日用雑貨の九部門で構成されている。チラシに掲載する商品は各部門の主任が決定し、それぞれ原稿にまとめて期限までに所定の場所に提出することになっていた。
だが今、広の眼前には空の提出箱が鎮座するのみ。部門が九つもありながら期限どおりに原稿を提出した部門が一つもないとは……。もはや、呆れるのを通りこして笑いが込み上げてくる。
「……さて、やるか。待ってたって原稿が歩いて来るわけじゃなし」
広は独りごちた。このアルバイトを始めてからというもの独り言が増えた気がする。
食品事務所や売場裏のバックヤード近辺に主任達の姿は見当たらない。青果・精肉・鮮魚・惣菜の主任は各自加工場で作業をしているとして、他は売場で品出しをしているか、別棟の倉庫にでもいるのだろう。
広は従業員通路を通って食品売場へ出た。夕飯の買物客で賑わう店内を人の流れに沿って進む。
「お疲れさまです。山口さん、今日はお休みだそうですよ」
日配の主任を捜して乳製品売場を見回していると、一眼レフカメラを首から提げた青白い顔の男に声をかけられた。印刷会社の田中だ。
田中はB三・両面・多色刷りの週末特売チラシを制作している。広のB四・両面・一色刷りの特売チラシが食品売場の商品に限定されているのに対し、週末特売チラシは食品・衣料品・生活雑貨・書籍・玩具、とスーパー全売場の商品を対象にしている。
「そうなんですか。じゃあ今日は原稿貰えませんね」
「ええ、今日は無理そうですね。僕もまだ来週分貰ってないんですよ」
週末特売チラシは掲載する商品が多岐にわたるため、特売チラシに比べて納期が長い。とはいっても結局、原稿の集まりが悪いのでお互い時間的な制約がきついことに変わりはない。広は思わず同情する。
「それは大変ですね」
「は……は……は……」
田中が、断続的に空気の漏れるような音を発した。何度聞いても不思議な笑い声だ。疲労困憊で声を張る元気も出ないのかもしれない。
印刷会社の内部事情など知る由もないが、相当な激務らしく、いつ見ても田中は目の下に濃い隈を作っていた。彼が虚ろな目をして、亡霊のようにスーパー内を徘徊する姿を見かけるたびに、広は印刷会社にだけは就職するまいと心に誓うのであった。
田中と別れ、精肉の加工場へ入ると、ちょうど、主任の西田が豚ロースのブロックを丸ごと一本スライスしているところだった。電動スライサーのけたたましい音とともに、大きな肉の塊が均一の厚さに切り分けられていく。
不用意に声をかけ、誤って指でも切り落とされては大変なので、広は作業が一段落つくまで入口の脇で待機することにした。
成人男性の腕ほどの長さの肉塊は、無駄のない流れ作業で生姜焼き用の肉へと姿を変え、瞬く間に売場へと運ばれて行った。
「お疲れさまです。来週のチラシの原稿を貰いに来ました」
西田がスライサーのスイッチを切ると、広はすかさず声をかけた。西田が黒目がちの円い目をさらに円くする。
「えー、もう? ついこの間、原稿渡さなかったっけ?」
「それは今週分です。今日のは来週分です」
「そうなの? 一週間経つの早いなあ」
ポリエチレンの手袋を外しながら西田がぶつぶつと呟く。そうですね、と広は当たり障りのない返事をした。
白いコックコートに身を包んだ西田は、巨体を揺すりながら加工場奥の冷蔵室に消えると、すぐにまた段ボール箱を抱えて戻って来た。
「A社のウインナーは割引率が高い、B社は低い。折口君ならどっちをチラシに載せる?」
グローブのような両手には、それぞれ、A社とB社のウインナーが握られている。広は小首を傾げた。
「A社ですかね」
「どうして?」
「安いほうがお客さんも嬉しいかな、と。特売ですし」
「でもこのウインナー、安売りしても大して数出ないんだよね。折口君食べたことある? 正直、あんまり美味しくないでしょ」
「確かにB社のほうが皮がパリッとしてて美味しいですね。じゃあ、B社のウインナーにしますか?」
広の提案に西田が渋い顔をする。
「それもねぇ、B社は美味しいけど高いでしょ。そんなに割引もできないし。特売のチラシに載せるにはパンチが足りないと思わない?」
「まあ、通常価格と大差ないんじゃ、お得感はありませんね。それじゃあやっぱりA社にしますか?」
「うーん、そうだねぇ。C社のハンバーグにしようか」
──ウインナー二択じゃなかったのかよ!
広は心の中で突っ込みを入れた。それを察したのか西田は、
「残りの原稿作っておくから、これ補充してきて」
と、広に段ボール箱を押し付けた。箱の中身はB社のウインナー。
西田はだいたいいつもこの調子だ。チラシ制作を始めたばかりの頃は、催促してもなかなか原稿を貰えないことにやきもきしたが、コツさえ掴めば比較的やりやすい相手だ。
広がウインナーの補充をすませて加工場に戻ると、果たして原稿は完成していた。
その後、店内、倉庫、休憩所を回り、原稿を入手できたのは九部門中三部門だった。まあ、初日はこんなものだろう。過去には〇の時もあったから、上々といえば上々かもしれない。
スーパーのチラシ制作は時間との勝負だ。全部門の原稿が集まるのを待っている余裕はない。原稿を入手できた部門からどんどん次の工程へと進めていく。
次にやるべきことは商品写真の撮影だ。チラシ制作も一年近く続けるとそれなりに手持ちの商品写真が増える。広は受け取った原稿に目を通し、撮影が必要な商品をピックアップしてから、ショッピングカートを押して売場へ向かった。
原稿と商品とを照らし合わせながら、商品をショッピングカートに集めて回る。その際、すでに手元に写真がある商品もパッケージが変更されていないか確認しておく。特に菓子は、味のバリエーション展開や限定商品などが多く、撮り直しの頻度が高い。
今回も冬季限定のチョコレート菓子が一品入っていた。広が原稿片手に陳列棚から目当ての商品を探していると、
「そこに限定商品ないでしょう。木曜にならないと入荷しないのよ。ごめんなさいね」
側でスナック菓子を並べていた主任が申し訳なさそうな顔をした。
冷凍食品や生物は売場から動かせないため、買物客の邪魔にならないよう、隅のほうで手早く撮影をすませる。その後、集めた商品をバックヤードで撮影し、ひとまず初日、スーパーでの作業は終了。残りの作業を自宅で行うべく、広は帰路についた。