しにがみの涙
私はしにがみだ。
生者から魂を吸い取る、簡単な仕事。
きっかけや理由は、分からない。
命を落とすであろう人の前に現れ、彼らの最後の物言いを聞いた後、安らかに眠らせてやる。
死を前にした生者は、なんとも慈悲深く、安らかな物言いをする。
「どうか、安らかに眠らせてくれ」
私は病室に立っていた。そばのベッドには、虫の息となった中年の男が寝ている。
難病に苦しめられた数年だったらしい。そばにはこれから未亡人になるであろう女が泣いている。
カーテンから差し込む仄かな陽光が、心を焦がしゆく。
「叶うといいな」
私はそう言って、男の心臓に手を当てる。彼は笑っていた。やがて、穏やかな死顔になった。
しにがみの時間が終わると、止まっていた時間が動き出す。
「ご臨終です」
医師の声が聞こえる頃には、私は消えていた。
今まで沢山の人の魂をこの手で吸い取ってきた。
夜、忙しく光るビルの上で、黒いロングマントのフードを深く被って物思いに耽っていた。
「おっと…」
死の予感を感知すると、私は立ち上がった。
私はゆっくりと目を瞑ると、なんとも不思議な感覚に襲われる。
次の瞬間には、繁華街を疾走するセダンの助手席に乗っていた。
しにがみの時間が始まる。
辺りはたちまち闇に包まれ、対象者以外の人や物の動きが止まる。
「うわっ、なんだあんた!」
運転席に乗っていた若い男は私を見て驚愕した。無理もない。
毎度卒爾ながらそばに現れるのは、私としてもどうかと思う。
「しにがみだ…宜しく」
「いやいや、意味わかんないだろ…」
無理もないが、単刀直入に言ってやる。
「お前はその先の交差点で事故で死ぬ」
「は!?ふざけんなよあんた!」
「決まったことだ。もう変えられない」
そう。私がこうして生者の元に現れた時、既にその人間の死は確定している。その事実はどうやったって動かない。
男はアクセルを踏もうとするが、車は石のように動かない。
「はぁ!?」
「さて…最後の物言いを聞こうか」
「…ッ!!」
男は私の胸ぐらを掴んだ。滾っており、息も荒い。死を信じたくないのだ。
「いきなり現れて死ぬとか抜かしやがって…」
「お前は私を殺せないし…私はお前が死ぬまでここを離れられない。なんなら今すぐ死ん」
男は私を突き放す。
「クソ…」
しばらくして男は自分の運命を悟り、大人しくなった。
「あのさ…ちょっと聞いていいか」
「なんだ?」
「オレは…何で死ぬんだ」
「…相手の過失だ」
「そっか…はは…しょーもない人生だな全く…」
男は訥々と語り、涙を流し始める。このような光景はよく見てきた。
男はハンドルに突っ伏し、小刻みに震えた。
「来世で…その相手…ズタズタに…してぇ…」
「…叶うといいな」
しにがみの時間が終わる。
まもなく、街には救急車のサイレンが響き渡った。
このように、私達しにがみには彼らを助ける術もない。ただ魂を頂いていくだけだ。
魂がこの世に残ってしまうと、それらは亡霊となって悪事を働く。
そうならないよう均衡を保つのが私達の存在意義らしい。
ただ粛々と仕事をこなす。そこに感情はなかった。
数日後。
「孫達が元気に過ごせたらそれで結構え」
その言葉を聞いた後、私は老婆の胸に手を当てた。
「…叶うといいな」
しにがみの時間を終わらせ、私はまた姿を消す。
しにがみに感情は無い。絶望に暮れる人を見る時も、安らかな死顔を見ても、無表情でいる。
それが変だと思ったこともない。元々そうだからだ。
次の生者の元に降り立つ。
「…よう」
白昼、病院の屋上だった。弱冠の歳の男が縁に立っていた。
秋風が心地よい、死の似合わない景色だった。
「止めても無駄だ…もう…いいんだ」
「止めない」
男は俯いていた。私はそれを静かに見つめていた。
脚は震えているようだった。当たり前である。
この世の生者で、死を経験したことのある者など一人もいないのだから。
「…物言いを聞こうか」
「イヤ…そんなたいそーなモンは無いんだけどさ…もう駄目かなって思ってさ」
自殺は今まで何度か見てきた。
それぞれが明確な理由を持っていた。負債を抱えただの、いじめを受けただの。
それら全て、静かに見届けてきた。
「妹がいてよ。半年前に死んじまったんだ。交通事故で俺を庇って」
「…」
男は続ける。
「頑張って生きようと思ったんだけどさ…もうやめたんだ。理由がなくなった」
ゆっくりと顔を上げて天を仰ぐ。つうっと、一筋の涙が滴る。
「…莉愛に宜しくな」
男は飛び込んだ。その刹那。
「…止めないんじゃなかったのか」
「ッ…!!」
私は男の手を掴んでいた。男は躊躇なく飛び込んだ為、ぶら下がって全体重が私の腕にかかった。
「くっ…!!」
「…離してくれよ」
思い出したのだ。
私が、
しにがみになった理由を。
「兄ちゃん私だ…莉愛だ…!」
「!?」
初めて私達は互いの顔を見た。
間違いなかった。
その瞬間、突拍子もない力が腕に漲った。
兄を一気に屋上へと引き戻した私の体は、それと引き換えに宙に投げ出された。
「あっ—————!!」
走馬灯と一緒に、全ての記憶が蘇ってきた。
私には病気を患った兄がいたこと。
外出した時、私が兄を庇って事故で死んだこと。
その時しにがみから、「しにがみになって生者の魂を100個捧げると望みが叶う」ことを知らされたこと。
私は兄の病を治すべく、しにがみになったことを。
「ねぇ、聞いて、兄ちゃん」
「私が兄ちゃんを助けるから…」
「また、どこかで逢おうね」
「莉ッ—————」
そこからはよく覚えていない。
ただ、しにがみと化した時に手に入れた偽物の心臓が、かすかに脈打っていた。
どれだけの時間が経っただろう。
私はまたいつかのビルの縁に座って、街を眺めた。
変わらない風景だ。黒く淀んだ空を、綺羅びやかな鉄の塔達が隠す。至るところから発せられた人工的な光が、窓に乱反射して目を眩ませる。
すると、隣に顔見知りのしにがみが座った。
「ヨ」
軽く会釈をする。
そのしにがみは私に問うてきた。
「アンタ、望みを叶えたのにまだしにがみやってるんだ、物好きだね」
「…ああ」
「しにがみになる奴なんて大抵、自分が生き返る為にやってんのによ。ウチもそのクチ」
それが正常な人間の思考である。
この世に未練を残したものが、死後しにがみになることを選ぶのだ。
途方も無い労力を代償にして。
もう少しここにいたかったが、また死の予感を感知して立ち上がる。
「最後に教えてよアンタ、何を望んだの?」
私は振り返って、微笑んだ。
「兄ちゃんが、私を忘れますように」
私は泣いた。
しにがみになって、初めて流した涙だった。