*****(3)
私はミラが再び天に召されたことと、その事で律樹が深く悲しんでいることに大きく傷ついた。律樹は私のことを献身的に看病してくれた。何度も病院に行こうと言われたが、適当な理由でそれを拒んだ。病院に行っても、この苦しみから逃れられることは不可能だという確信があったからだ。
その時、私は思いも寄らない不安に襲われた。
――もしも、目の前から律樹がいなくなったらどうする。私は耐えることができるだろうか。
律樹が大学に連れて行ってくれた時、彼は私の願いを聞いてくれた。講義を聞いたり、学食を食べたり、キャンパスを散策したり――。
大学に行きたかった訳ではない。彼と一緒に人間らしいことをしてみたかっただけなのだ。もしも律樹がいなくなったら、そんな日常的なことも、今までの彼との思い出もすべて悲しいものに変化する。
神は永遠に存在し続ける。終わりのない世界の中で、私は悲しみに耐えることができるのだろうか。体が快復した後も不安はつきまとい、同時に私が律樹に対して持ってはいけない感情を抱き始めていることにも気付いていた。
その後も私は一度だけ、私情を挟んで神の刑罰を受けた。
七夕の日のことである。短冊に私的な願いを書いて、それを強く願ってしまったからだ。ミラの時と同じように高熱に苦しんだ私は、再び律樹に迷惑を掛けてしまった。再三、心配を掛けたお詫びに、快復してから彼と買い物に出かけることにした。
その日はこの町の湖で毎年恒例の花火大会が開催される予定だった。律樹の提案で花火大会にも行くことになり、私は胸を躍らせていた。
当日、大型ファッションビルにある雑貨店に向かった。その店には広松と共に商品の納入で何度か訪れたことがあり、気になる商品があったのだ。
それはガラス製の置物で、片足で立った天使がラッパを吹いている人形だった。もともとうちの雑貨店の商品で、いつも木製の商品が置かれている棚に展示されていたものだ。ちょうど律樹と出会う数日前に、オーナーがこの店に出荷したのだ。
その日も人形は、店の奥の誰にも目にとまらないような場所に置かれてあった。おそらく、入荷はしたものの中々売れる気配が無かったので、奥に追いやられたのだろう。
私は現在、広松からアルバイト代をもらっている。人間の世界で生きるのだから、この世界で流通している貨幣で生活していく必要があるのだ。うちの店にある時は見るだけで満足していたが、律樹と出会ってから、この人形を彼にプレゼントしたいと思うようになった。ちなみに人形は高額で三万円もした。時給八百五十円の私にとっては大打撃である。
友人にプレゼントを渡す行為は人間界ではごく自然的な事なので、これは神々の禁忌には含まれない――はずだ。そんなことより、仲良くなったばかりの友人にこんな高価な物を渡して受け取ってくれるだろうかという不安の方が大きかった。
昼食で入った喫茶店で私は律樹に人形をプレゼントした。律樹が紙袋から慎重に商品を取り出している間、何故かドキドキした。
だが、タイミングが悪くそこで私達の料理が運ばれてきた。運んできたのは律樹の大学の友人で、胸には「安室」と書かれたネームプレートがつけられている。彼を紹介したいという律樹の提案でこの店に来たのだ。
律樹と違い社交性の高そうな人物で、彼が唯一心を許している友人である。安室はまさか友人が異文化交流をするグローバルな人間だということに驚いている様子だったが、結局あまり話すことができなかった。
「そうだ。イアラ、プレゼント……」
店を出て交差点で信号待ちをしている時、律樹が思い出したように言った。気のせいか、彼の頬が少しだけ紅潮しているように見える。
彼が何かを言いかけた時、私達の横を赤い服を着た少女が横切った。信号は赤なのに少女は横断歩道へと飛び出すと、空に吸い込まれるように登っていくカラフルな風船に手を伸ばしていた。その子を見て思い出す。先ほどの買い物中、エレベーターの中で出会った女の子だ。
「危ない!」
私が叫んだ直後、律樹が車道に出ていた少女の襟首を掴んだ。そして渾身の力で歩道側へと引き寄せると、私がしっかりと少女を抱きとめた。良かった。どこにも怪我はない。
だが、律樹は少女を助けた時に体制を崩し、その場に片膝をついていた。彼の前方には運送会社のトラックが迫っている。
「律樹!」
私の声をかき消すような激しい衝撃音だった。律樹はトラックにはね飛ばされた後、体を二転三転させながら上空を飛び、鈍い音を立ててアスファルトに落下した。大きな幹線道路には、急ハンドルをしたことでトラックが横転し、大パニックになっていた。
律樹は数十メートル離れた場所にぐったりと倒れていた。
「り、律樹! 律樹!」
すぐに駆け寄って彼の名前を呼ぶが、体はぴくりとも動かない。頭から大量の血が流れており、辺りに血だまりを作っている。右腕はあらぬ方向に曲がっており、折れた骨が今にも皮膚を突き破ろうとしていた。
「しっかりして! 律樹!」
泣きながら律樹に声を掛けた。すると彼は、閉じていた瞳を半分だけ開き、微かな動きで私の事を確認した。
「イ……アラ」
口からも血を吐いており、かなり危険な状態だ。私はパニックになり、ただ泣くことしかできなかった。私の涙が律樹の顔中にかかるが、律樹は薄目を開けたままじっとしている。
「成沢!」
喫茶店の窓から一部始終を見ていたのか、安室が掛けよってきた。
「しっかりしろ! 絶対死ぬなよ!」
安室は強い口調で律樹へ声を掛けていた。するとその時、彼は立ち上がると後ろの群衆に向かって叫んだ。
「何だよおまえら! 撮るんじゃねえよ!」
信号待ちをしていた数人が、携帯電話で律樹を撮影していた。安室が彼らを威嚇すると、カメラを構えていた人達は気まずそうに携帯電話をポケットに入れ、その場から去っていた。