*****(2)
なみなみと水を入れたじょうろで、熱気をため込んだアスファルトに水を撒いていた時、坂の下の方でどさっ、という音がした。ゆらゆらと立ちこめる陽炎の先に、誰かが倒れていた。
すぐに駆け寄り、その人間に声を掛けた。他の人間でもこのくらいの事はするので、これは神々の禁忌には触れられない。
「あの、大丈夫ですか?」
おろおろしながら、私は混乱していた。目の前に倒れていた男性はぐったりとしており、全身にたくさんの汗をかいている。これは連日ニュースで報道されている、熱中症というやつかもしれない。急いで店に戻り広松を連れてきた。二人で彼を店まで運び、倉庫のソファに寝かせた。
「君、大丈夫か!?」
オーナーの問いかけに、彼は「うう……」と唸り声を上げた。意識を完全に失っている訳ではないが、脈が速く、全身で汗をかいているが手足が少し冷たくなっている。
「イアラ、手伝ってくれ」
「分かった!」
私は広松の指示に従い、必要な物を準備した。冷凍庫の中の氷を全て引っ張り出して氷水を作り、それを裏庭に持って行く。タオルをありったけ用意し、冷やして一通りの準備が終わった後、広松に報告した。
「おそらく、熱中症の初期症状だ」
「救急車は呼ぶ?」
「これくらいなら大丈夫だ。それに、ここは街から離れているからいつ来るか分からない。私達で治療しよう」
広松の先導の元、彼の治療を始めた。広松が彼の服を脱がせ、氷水に浸した水で体を丁寧に冷やす。扇風機を弱風に設定し、彼の様子を見る。
「ねえ、大丈夫? しっかりして!」
「……うう。気持ち悪い」
彼はうわごとのように言っていたが、最初の頃より症状がだいぶ改善していることが分かった。治療を続けた結果、彼はすやすやと吐息を立てて気持ちよさそうに眠った。
「だいぶ落ち着いたようだ。もう大丈夫だろう」
「オーナー、お疲れ様でした」
私が麦茶の入ったグラスを渡すと、広松はそれを一気に飲み干した。
「それにしても……」
広松はソファで横になる彼の事を見ながら、釈然としないように表情を曇らせていた。
「何故私には、熱中症の処置の知識があったのだろう」
きっとそれは、彼が生まれ変わる前、医者だったからだ。当然その記憶は書き換えられているのだが、医師として数十年間活躍した技術や知識は、体に深く染みついていたのだろう。
人間界においては、前世の記憶は消去されているが、習っていないはずの外国語を話すことができたり、初めて行く場所なのに、そこに何があるのかを具体的に覚えていたりすることがあるらしい。それらの奇跡に近い事象は、前世の体験や努力した事が残っているのかもしれない。
念のため、私と広松は彼が持っているものを調べた。彼の両親に連絡をした方がいいと判断したからだ。
だが彼は携帯電話しか持っておらず、中身もロックされていた。神の力を使えば、こんなものすぐに解読できるが、そこまでする必要はないように思えた。携帯電話には「RITSUKI」と印字されたストラップが掛けられており、その時に初めて私は彼の名前を知った。
回復してから、律樹はこの店に手伝いにくるようになった。広松は日中外に出ることが度々あったので、話し相手が欲しかった私が提案したのだ。彼はその受け入れを忠実に守り、最初の決められた期間を過ぎても、店に来てくれた。
律樹は人見知りなところがあったが、いつも一方的に話す私の話をちゃんと相づちを打ちながら聞いてくれた。前髪が少し長くて野暮ったかったが、とても綺麗な瞳をしていて、笑うと柴犬のようにかわいい。彼は自分から積極的に何かを話したりするような人間ではなかったが、何となく私に対して悪い印象を持っていないということだけは分かった。
年齢が同じということもあり、私達は次第に打ち解けていった。律樹と一緒にいる時間は尊く、いつしか私は任務を忘れて雑貨店での毎日を楽しく過ごしていた。彼は私やオーナーに対して底なし優しくて、一度も他人の悪口を言うことがなかった。
ある時、店の前で子猫が車にひかれるということがあった。私達神の一族は、生物の死に敏感だ。生き物の命の炎が消える瞬間は、秒単位で本能的に分かる。子猫の場合は、神でなくとも死期が近いことは一目瞭然だった。
かわいそうだと思った。何故、自分の手の届く範囲で救える命があるのに助けてはいけないのか。私が力を発揮すれば、子猫はこの場でスキップできる程に回復することができる。
でもそれは、絶対に犯してはいけない神々の禁忌。命の終着点は、特例を除いて私情で変えてはいけないのだ。今まで何人もの神の卵が私情でその禁忌を破り刑に処されてきた。肝心な時に尊いものを守れないなんて、私は何て無力なのだろうか。
だが、私が悲観している時でさえ律樹は一瞬も諦めていなかった。
彼は自転車に子猫を乗せ、市街地にあるという動物病院へと走った。何故、そこまでできるのか。もうすでに、命が消えかけているというのに。
人間の強い気持ちや想いが、神々の力を上回ることはありえない。神のみが全知全能であり、この世界の法なのだ。なのに何故かその時、私は律樹の強い思いに揺り動かされ、気付いたら彼の後を追っていた。
彼からだいぶ遅れて動物病院に着いて子猫の治療を待っていると、漠然と一つの命が消えた感覚があった。子猫が息絶えたのだ。それでも彼は、ずっと椅子に座って祈り続けている。私は彼を連れ出し、外へ出た。散歩中見つけた道祖神に、彼は必死に祈りを捧げていた。
「……子猫が助かりますように。どうかお願いします。お願いします……」
願いが声に出ていたことを、彼は気付いていただろうか。私が最初の禁忌を犯したのがその瞬間だった。私は道祖神に手を合わせているふりをして、神の力を使った。
――子猫の命を救って。
心の中で唱えた時、聞こえないはずの鼓動が耳元で鳴った。成功したらしい。すぐにでもそのことを律樹に話したかったが、黙っていた。
病院に戻ると、子猫は息を吹き返し快復に向かっていた。あまり感情をださない律樹も、この時ばかりはほっとしたのか膝を落として喜んでいた。
「良かったね、律樹」
律樹は柴犬のような笑みを浮かべて頷いた。子猫の名前はミラに決まり、私達は翌日ミラを飼育するために必要な物を買いに行く約束をした。
だが、事態はそんなに簡単にいかなかった。私は人間界での生活の中で、自分の神としての任務を忘れかけていた。律樹と出会ってからそれは加速し、気を抜いていると自分が本当にアメリカ人のイアラ・メリージュリックであると思い込んでしまうほどに。
次の日、私は体調を崩した。雑貨店で軽作業をしている時、突然全身に熱を持ち、体の内側から内臓に無数の針が連続で刺されるような激痛にみまわれたのだ。
しばらく悶え苦しんでいると、やがて天候が急変した。私が法を犯したことを、神が怒っている。これはその罪に対する罰だ。神の声が聞こえる訳ではない。だが、神が私に対して「いいかげんにしろ!」と言っているのが感覚で分かるのだ。
上級の神は、ミラの命を本来の命の終着点に戻した。神はすべての魂に対して平等でなければならない。そんなことは分かっているのに、私は理不尽さを感じていた。
人間界を知るために、自分たちの都合で終末期患者を救うことは、本来の命の終着点を変更する行為ではないのか。そんな不満を持っていても、私ごときの意見など神は聞いてくれないのだ。