7月7日(3) SIDE-A
「藍……」
ソファの前に、藍が僕を待ち構えるように立っていた。
「やっぱり、気付いちゃったか」
藍は微笑みを浮かべながら、わずかに顔を傾けた。その時に、首元まで伸びた短い黒髪がさらさらと揺れた。切れ長の瞳。黒髪に囲まれるような小さな顔。華奢な体躯。首元に光る、二つのリングが重なり合ったネックレス――。
「どうして、藍がここに?」
胸を押さえながら訊ねる。不思議な事に、こんなにも久しぶりに会えたのに、他人と話しているようだ。
「もう全部、分かっているんでしょう?」
藍が一歩近づいて来た。僕は藍から一瞬も目を離さず、深く頷き返した。
「ゆっくり、目を閉じて」
目の前で、藍が言った。最近は確認する媒体を紛失してしまっていたのでぼやけていたが、その声も容姿も、記憶の中に刻まれたものと一致している。
やはり藍はいた。でも彼女は――。
僕は、一縷の光さえも通さないように強くまぶたを閉じた。それなのに、まぶたの裏側で何かが一瞬光ったのを確認できた。
「開けて良いよ」
――この声。僕の中で信じられないと思っていた思惑は、やがて確信となる。僕は再びゆっくりとまぶたを開いた。
部屋を照らす仄かな照明の中で、まず一番に見えたのは薄い水色のワンピースだった。やがてぼやけた視界が鮮明になり、クリーム色の金髪を視認する。その後、まっすぐに僕の事を見つめるヘーゼル色の瞳と目が合った瞬間、涙が溢れてきた。
「久しぶり、律樹」
ずっと心の中で追い求めていた声が、耳元に吸い込まれた。
「イアラ……」
彼女の名前はイアラ・メリージュリック。この雑貨店の従業員であり、当時僕がもっとも大切に想っていた人だ。
「外に出ましょうか」
彼女がそう言ったので、僕らは店を出た。
雑貨店の庭にあるベンチに、僕らは並んで腰掛けた。未だに混乱していたが、何故か隣にいるイアラを見ると、先ほどこの店に来て藍を見た時よりも、「しっくりした感じ」があった。
「藍……じゃなくて、イアラ」
「混乱してるよね」
イアラが前を見ながら呟いた。
「何が何だか分からない。君は一体誰なんだ? それに、藍はどこに……」
するとイアラは、少し沈黙した後「今からすべてを話すわ」と言った。同時に、晴れているのに空の向こうから雷が鳴った。空には満点の星空が見えているのに、おかしい。
「彼にだけは全部説明させて。お願い」
イアラが何かに祈るように言うと、呼応するようにもう一度大きな雷が鳴ったが、やがて雨雲の侵攻を諦めるように、音が徐々に遠のいていった。
「一体、何が起こっているの?」
イアラが覚悟を決めたようにこちらを向いた。僕らの場所を照らすのは月明かりだけだったが、何故か彼女の姿だけが発光しているようにくっきり見えた。そしてイアラは、ヘーゼル色の瞳で僕のことをまっすぐに見て言った。
「私、精霊なの」
「せいれい?」
最初は、言葉の意味が分からなかった。その後頭の中で、「せいれい→精霊」という変換が行われたが、謎は深まるばかりだ。
「精霊って、天使とか、木に宿るみたいな?」
「似ているけれど少し違うわ。あなたの言う精霊は、死者の霊魂や自然に宿る妖精のような存在だけど、私はそれら全ての魂を司る存在よ。この世界だと、聖なる霊と書いて【聖霊】と呼ぶような宗教もあるみたいだけど、それに近い感じかな。もっと簡単に言うと、私は神様の末裔で――」
「ちょ、ちょっと待って」
僕は一気に説明するイアラを制した。精霊? 聖霊? 神様の末裔? 彼女は何を言っているのだ?
「つまり整理すると、君は神様で、人間ではないということ?」
「端的にいうとそうね」
彼女の言葉に嘘を言っている雰囲気はない。でも、さすがにそんなこと――。
僕が半ば呆れ気味に思っていた瞬間だった。
最初に世界から音が消えた。ここはとても静かな場所であったが、坂の下を通る車の音や、町中から聞こえる救急車のサイレンなどは聞こえる。そんな雑音が一切遮断されたのだ。
完全な無音状態。空を見上げると星の瞬きも止まっており、慌てて腕時計を見ると、時計の秒針がぴたりと制止している。完全に時が止まっているのだ。
「どう、して……」
現実を受け入れられないでいると、その時になって自分の体を動かすことも、声も発することも可能であることが分かった。
突然、手を握られる感触があった。イアラの手だ。彼女を見ると、あのヘーゼル色の瞳が僕を射貫くように見ていた。
「「一体、何が起こっているの?」」
僕の発する一言一句が、全く同じタイミングでイアラの声と重なった。
そしてイアラは、もう片方の手の人差し指を天に突き立て、魔法を掛けるようにくるっと円を描くような動作をした。その瞬間、無数の流れ星が空を滑るように落ちていった。流れ星はまるで全ての星々が動き始めたように、落ちることをやめず、延々と落ち続けている。
「これでもまだ信じない?」
時間が止まった空間で、無数の星が落ちる光景を目の当たりにした僕は、あっけにとられたまま首を横に振った。
イアラが握っていた手を離し、魔法を掛けた方の手で指を鳴らすと星は動きを止め、時間が正常に動き出した。遮断されていた雑音が聞こえ始め、腕時計を見るとちゃんと秒針も正常に動いている。
ふーっとため息を吐くと同時に、イアラがわずかに体をふらつかせた。僕は慌てて彼女の体を支える。イアラは僕の体に全身を預けるように脱力しており、元の体制に戻ろうとした時、途中で僕の肩に頭を預けた。
「ちょっと疲れちゃった」
未だに夢を見ているような感覚が拭えなかったが、こんな体験をしたのだ。現実を受け入れるしかない。イアラは人間じゃなく、神様の類いだということを。
「つまり君は神様で、超常現象を操る力を持っているってことだね」
単純な質問に、イアラはか細い声で「そうね」と言った。
「いろいろ聞きたいことがあると思う。でも、少しだけ待って」
イアラはひどく疲れているようだった。呼吸も早く、とても苦しそうである。ゲームや漫画の魔法使いと同じなのか、神様でも特殊能力を使う際は体力を消耗するらしい。
少しの間休んだイアラは、よろよろと起き上がり一度大きく深呼吸をした。
「この状況を理解するには、まず、あなたに起こったことを全て知ってもらう必要があるわ」
イアラは僕の方に向き直り、ゆっくりと顔を近づけてきた。目の前にある恐ろしく整った顔が接近してくることに別の意味で鼓動を高鳴らせていると、イアラが子供の熱を測るように、自分の額を僕の額にひっつけた。
「今からあなたに、これまでの記憶と真実を流すから。そのままじっとしていて」
吐息の混じった声が目の前で聞こえた。彼女の体に染みついた、仄かに香る清涼なお香の匂いに懐かしさを感じながら、僕は「わかった」と言った。そのまま僕らは額を重ね合わせていたが、徐々に額が人為的ではない熱を持ってくるのが分かった。
その熱が伝道してきたタイミングで、イアラが「目を閉じて」と言った。僕は言われるがまま、瞳を閉じた。
直後、ピリッという電気が頭に走り、まぶたを閉じているというのに、じわりと靄が晴れるように視界がクリアになった。VRゴーグルを着けているような感覚で、視界には映画のダイジェスト版を見るような映像が断片的に映し出され始めた。
熱中症になり、雑貨店の前で倒れたこと。イアラやオーナーに助けられたことがきっかけで、雑貨店で働き始めたこと。一緒に大学に行って講義を受けたり学食を食べたり、校内の木々を数えたこと。ミラとの出会いと、別れ。度々イアラが体調を崩していたこと。一緒に作った七夕飾り。短冊に掛けた願い。
そして――。
「――大事なのは、ここからよ」
脳内の映像は次のシーンへと移り変わる。
夏の本格的な到来を告げるような直射日光を受けながら、僕と彼女は街のファッションビルの入り口に立っていた。映像の中で彼女が着ている服は、現在と同じ薄い水色のワンピース。僕らは目的の雑貨店に向かうために、エレベーターに乗っていた。
やがて映像は、喫茶店を出た所へと切り替わる。大量の人が信号待ちをしている交差点。目の前を横切る赤い服を着た少女。空高く飛んでいく、カラフルな風船――。
これから起こることがすでに思い出され、恐怖に震えた。右腕はその痛々しい記憶と同期するように鈍くうずき始めており、この時ようやく、右腕が目線の高さから上がらない理由に思い当たった。
怯えや恐怖を包み込むように、現実のイアラが僕の手を強く握りしめた。目を瞑っているのに、彼女がひどく悲しそうな顔をしているのが分かる。映像を通して、彼女の悲しみも同時に伝わってきているようだった。
「この日は……」
「――ええ、そうよ」
そして彼女は、とても言いづらそうに決定的なことを言った。
「この日あなたは、トラックにはねられて死んでしまったの」