7月7日(2) SIDE-A
「実は私も不思議な事が起こっているんだ。君と同じように、先月の中頃からね」
折りたたみ式のテーブルにガラスの人形を置き、広松は静かに語り始めた。
「最近ね、とても不思議な夢を見るんだよ――」
広松の話によると、彼も僕と同様、毎日のように不思議な夢を見るらしい。夢を見始めた時期も同じだが内容は僕とは全く異なり、彼自身も夢の内容にはまったく心当たりがないそうだ。
「いつも病院のベッドにいて、ずっと一人なんだ。家族もいなくて、ただ病室で迫り来る死を待ち続けるような、そんな恐ろしい夢だ」
ちなみに広松には持病などもなく、現在も独り身であるが交際している人はいるという情報をネットニュースで見たことがある。
「その夢を見ている時、圧倒的な孤独感の真ん中に放り出されたような、悲しい気持ちになるんだ。自分でも、何でそんな夢を見るのか分からなくてね。でも夢の中の私は、ベッドに横たわりながら、いつか俳優になりたかったって思っているんだよ。毎日、こんなに忙しくて楽しくさせてもらっているのね」
「あなたの事を、テレビで見ない日の事が珍しいです」
お世辞でも何でもなく、本心だった。彼には底知れぬ魅力があるのか、俳優業だけに止まらず、多くのバラエティ番組やCMに起用されていた。
「だから私は、今の生活が決して当たり前でないと痛感しているんだ。ここ最近はその思いが特に強くて、本当に神様に感謝しているんだよ」
広松が慈しむような目で人形を見ながら言った。
「でも、何でだろうね。この人形を見た時、何かとんでもないことを忘れているような気がしたんだ」
「とんでもないこと、ですか?」
広松は頷いた。彼の話を聞きながら、神様に感謝しているからこの天使の人形がたまたま目に付いただけなのかもしれないと思っていたが、どうやら違うらしい。
「とても大事な何か。きっと、私の夢とも関係あるような。そもそも、私はこの人形をどこかで見た事があるような気がするんだ。それに……」
そして広松は僕の事を見て「君のことも」と言った。
そこで僕は、広松に今日この撮影現場に来た理由を一から話した。
先月の中頃から不思議な夢を見ること。最愛の恋人がいなくなったこと。突然襲いかかってくる頭痛と耳鳴り。どこを探しても見つからない写真。藍を忘れていくことに順応していく恐怖――。そんな僕の独白を、広松は時折相づちをうちながら聞いてくれた。
きっと、誰かの腕時計のアラームだと思う。機械的な電子音が八時を告げた時、突然あの頭痛が襲ってきた。だが、今回の頭痛は今までのものとは比べものにならないくらい弱く、楽に耐えられそうだった。
「目を閉じて」
突然、広松がそう言った。見ると彼も頭を抑えており、力一杯瞳を閉じている。
「早く!」
言われるがまま、瞳を閉じた。頭全体が点滅するようにジンジンと痛みが広がっている。だがその痛みは徐々に治まっていき、次の瞬間――。
――――――。
――――。
――。
――何だ、今の光景は?
ゆっくりと瞳を開けると、広松が強い眼差しでこちらを見ていた。
「君も見えたか?」
「……はい」
周りでは、たくさんの雑踏が聞こえる。世界は平常運行している。それなのに、テントの中で僕と広松が見た非現実的でシンクロした光景。
広松はすぐにスタッフの一人を呼んだ。会話から車の手配をしている事が分かったが、僕は徐々に高鳴ってくる鼓動と、足を踏み入れてしまった真実の確信の足音に、体が震えていた。
「大丈夫か? しっかりしろ!」
肩を揺すられ、我に返った。
「ひ、広松さん。僕は……」
僕が言いかけた時、広松はそれを制するように首を横に振った。
「おそらく、私と君は同じ考えに辿り着いたはずだ。なら、これからやることは分かるな?」
僕は口を開けたまま、小刻みに頷くことしかできなかった。
広松とスタッフに介抱されながら、手配された車に移動した。俳優陣やスタッフ、見物人は何事かとその光景を見ていたが、今の僕にそんな些末なことを気にしている余裕などなかった。
「ここに行ってくれ」
広松は、運転手に携帯電話を見せて行き先を告げた。運転手が呟いた場所の名前を聞いて、さらに鼓動が高鳴る。
「一人で行けるか?」
すぐに答えることができず、ずっと震え続けていた。すると広松が再び僕の肩を掴み「しっかりしろ!」と声を荒げた。
「本当は私も行きたい。でも、やっぱり君が一人で行くべきだ。彼女は、君を求めている」
「……分かりました」
返事をするのでやっとだったが、広松も僕が混乱していることを十分理解してくれているのか、落ち着くまで背中をさすってくれた。その後、深呼吸をして幾分か落ち着いた僕は、後部座席に乗り込んだ。
「あ、待って!」
広松は一度テントに戻り、ガラスの人形を持って走ってきた。
「ちゃんと持って行って」
「ありがとうございます。広松さん。じゃなくて……」
「明日まではいるから、続きはその時に」
言い終わる前に、広松は僕の鞄に一枚の紙切れを入れるとドアを閉めた。
車は市街地を通り、僕の家の近辺を通り過ぎて、大きな山のトンネルをくぐった。すると景色が一変し、仄暗い地区に差し掛かる。途中で運転手が心配そうな言葉を掛けてくれたが、なんと答えたかは覚えていない。
やがて住宅が密集された地区に入り、車は奥に向かってぐんぐん走った。街灯の間隔が徐々に離れていき、ついには民家の灯りさえもあまり届かない場所に僕は運ばれた。
「本当にここでいいんですか?」
目的地に着いた時、運転手は周りを見て不安そうに聞いてきた。確かに、一般の人からしたらここは何もないように見えるかもしれない。
僕はお礼を言って車を降りた。運転手は終始納得のいっていないような顔をしていたが、やがて引き返して行った。
降り立った場所で、一度深呼吸をした。何故今まで忘れていたのか。こんなに大事な場所を。僕の命が救われた場所を。
坂の上に立ち、眼下の街を見る。以前仕事が終わった後、何度も見た街の夜景。僕は振り返り、ある場所に向かって進んだ。
建物の敷地内にはベンチが置いてあり、それを見てひどく懐かしい感情になる。辺りは真っ暗だが、煌々と光る月明かりだけでその建物の全容が分かる。建物のドアにはCLOSEの札が掛けられているが、何故か鍵が掛かっていないことと、確実な人の気配を感じ取った。
ドアノブに手をかけ、慎重に扉を開く。そっと足を踏み入れると板張りの床が足音できしんだ。電気は全て消えているのに漂う、懐かしいお香の匂い。
一歩一歩を噛みしめるように歩いていると、ある場所で立ち止まった。そこは倉庫の前で、中から仄かに光が漏れている。鼓動が再度大きく高鳴り、僕は生唾を飲み込んでドアを開けた。
すると、そこには――。