7月7日(1) SIDE-A
藍の実家から帰って、間もなく二週間が経過しようとしている。相変わらず、彼女の足取りについてはなんの手掛かりもない。
この二週間の間にも不思議なことは続いた。
藍の実家から帰宅した後も、僕は可能な限り写真を探し続けた。だが、家の中のどこにも見当たらないどころか、携帯電話に保存されていたはずの彼女の写真も、すべて消去されていて復旧不可能だった。藍の顔を確認する媒体がないことで、僕の中の藍の輪郭が徐々に崩れてきているような気がして恐怖もした。
不思議な現象は、僕の心理面にも影響していた。最初の頃は、行方不明届を出したいのにそれができないのが悔しくてたまらず、何故こうも捜索がうまくいかないのか憤りを感じていたが、徐々にそのことが気にならなくなってきたのだ。
仕事中や安室と話している時など、ふと意識を緩めると藍のことを完全に忘れる瞬間があり、その度に恐怖した。未だに藍の実家や警察からの連絡はなく、仕事中突然藍のことを思い出して彼女が務めている支店に問い合わせたが、もはや取り合ってもくれなくなっていた。そんなおかしな状況なのに、僕は時間が経つほどに順応していき、本当に藍は存在していたのだろうかとさえ考えるようになった。
周りの人間は確実に藍のことを忘れている。本当にそうだろうか。おかしいのは僕の方ではないのか。僕の周りには、何一つ彼女がいたという証拠はない。だとすると、僕が幻覚を見ていたということの方が正しいような気もする。そんな風に後ろめたく考えることもあったが、相変わらず毎日のように不思議な夢を見て、何故かそれがトリガーとなって藍が存在していたということを思い出すのだ。
そして今日も僕は、夢を見る。
水の中に入っているような視界が広がっていた。
――また、あの夢だ。
もうすでに何度も見た光景を確認して、冷静にこれが夢だということを認識できた。いつものように誰かの声が耳元で聞こえ、いつもならその瞬間に覚醒して目覚めるのだが、今日は違った。
――ら――とるなっ――だろう!
今まで女性の声だけだったのに、何故か今回は男性の声も混じっている。女性の声は相変わらず分からないが、何故かこの男性の声には聞き覚えがあった。だが肝心な顔も見えないどころか、台詞も断片的なものなので誰かは分からない。
その後一連の流れがあり、いつものシーンが流れ終えたかと思うと、今度は、
――大丈夫。――は、――から。
という声が聞こえて、その瞬間に世界が暗転した。
周りには誰もおらず、起き上がろうとしたが体に力が入らない。夢の中で僕は金縛りにあっていた。
もがくように両手を動かそうとした時、指先に何かが触れた。視線を手元に向けると、それはガラスの人形で、消える瞬間の電灯のようにチカチカと弱々しく点滅している。
指先から神経が回復していくように、徐々に感覚を取り戻した僕はその人形を掴む。僕の家にある、片足立ちの天使がラッパを吹いているガラス製の人形。何故、ピンポイントでこの人形だけが夢に出てくるのだろうか。
すると次の瞬間、暗闇が一気に晴れ、湖の光景に移り変わった。
そこはこの町の湖で、花火大会がある場所だ。僕は片手にガラスの人形を持って、広大な緑地の真ん中に立っていた。すると前方から見覚えのある人が手招きしているのが見えた。それが広松恭二だと思った時、僕は覚醒した。
金曜日の朝。起きてすぐに広松のホームページを確認すると、今日の夕方、湖で撮影があるということが分かった。
二週間前、彼がニュースに出ていた時芽生えた不思議な感覚。明らかに接点はないのに、偶然とは思えないほどの親近感。藍のことばかり考えていたが、連日頭の片隅で広松のことは気になっていた。どうしても、彼に会わないといけないような気がしていたのだ。
昼過ぎに仕事を片付け、会社を早退し撮影現場に行ってみることにした。藍がいなくなった今、本当はこんな事をしている場合ではないのだが、何故かいても立ってもいられなくなったのだ。
大きな幹線道路沿いにあるバス停を降りると、前方にある橋の下に巨大な水の流れがある。そこが撮影現場であり、花火大会の場所でもある。橋の上から湖の敷地を見渡すと、緑に囲まれた湖畔一面に蓮が浮かんでおり、降り注いでいる夏の日差しが湖面をきらきらと輝かせていた。敷地はとても巨大で、湖の面積ほどではないが、奥の方に緑地がありそこに人だかりが見えた。昨夜の夢の中で僕が立っていた場所だ。
緑地には日本を代表する大物俳優の姿を一目見ようと、大勢の見物人がいた。人の波を制するように、多くのスタッフがバリケードを作っており、とても前に行けそうにない現場にはたくさんの撮影クルーや撮影機具が置かれてあり、いくつかのテント立っている。撮影の準備は着々と進められており、スタッフに混じってテレビで見た事のある俳優が数人いた。今回、何の映画を撮るのかまでは調べていないが、この町にこんなに有名人が来るのはほとんど初めてのことかもしれない。
すると突然、人混みの中で歓声が起こった。見物人が指差す方向を見ると、スタッフに囲まれてテントの中から一人の男性が出てきた。それが広松だった。
広松は歓声に気付くと、笑みを浮かべてこちらに手を振った。遠めでも白い髭がよく似合い、とても温和で性格の良さがにじみ出ているような笑みだ。
その後、見物人に対しスタッフからいくつか注意事項が伝えられた後、撮影がスタートした。撮影は淡々と行われていたが、意外と長時間行われた。明日は花火大会があるため撮影の繰り越しはできず、今日すべてを終わらせるのだろう。撮影場所から少し離れた場所では、花火師や運営スタッフが翌日の準備を進めている光景も見える。
時間が経つほどに見物人は少しずつ帰っていき、その度に僕は前に移動し撮影を見ていた。撮影の間広松は一度もミスをする事なく、一時間半ほどで撮影は終了した。時計を見ると時刻はすでに七時を過ぎており、空が群青色に染め上げられていた。
広松を遠目に見ながら、言いようのない親近感と既視感を持て余していると、誰かにぶつかられて持っていたカバンを落とした。口から飛び出した荷物を拾っていると、突然声を掛けられた。顔を上げると、そこに広松が立っていた。
「君、その人形……」
広松が指差す場所を見ると、そこには例のガラスの人形が転がっていた。今朝家を出る時、何故か分からないがこの人形を持って行こうと思ってカバンに入れていたのだ。
突然近づいてきた大物俳優に、見物人は大歓声をあげ、それを制すようにスタッフが大きな声を出していた。
「ちょっとこっちで話さないか?」
広松に提案され混乱したが、人混みを整理するスタッフもからも「早くこっちへ!」と急き立てられたので、急いで荷物を回収して現場の中に入った。
「悪いね。何か予定でもあった?」
テントの中に移動し、広松が申し訳なさそうに言った。僕は「いえ」と言って首を横に振った。
周りには、帰り支度をしている若手俳優がいた。遠目でその光景を見ながら、初めてこんなに近くで有名人を見たと興奮している自分がいたが、至近距離にいる広松の姿を見ても不思議とそうは思わなかった。
互いに簡易的な自己紹介をした後、早速広松が本題に入った。
「成沢君。もしよかったら、それをじっくり見せてくれないか」
僕は言われるがまま、ガラスの人形を広松に手渡した。彼は藍がいなくなった日の僕と同ように、人形の四方八方を丁寧に観察するように見ていた。
「とても良い置物だね。これはどこで?」
僕は首を傾げ、「分かりません」と答えた。
「ずっと家にあったはずなのに、先月の中頃までこの人形の存在に気がつかなかったんです」
「……先月の中頃?」
人形を観察する広松の動きが止まった。そして、自分の中の疑問に答えを見いだしたように何度か頷いた。