6月24日(3) SIDE-A
胸の中にモヤモヤを抱えたまま電車を降りると、そのまま自宅には行かず警察署に向かった。三日前に出した捜索願のことを確認したかったのだ。
だが、ここでも不思議なことが起こっていた。
「受理されてない?」
窓口で我が耳を疑った。そんなはずはないと何度も言っても、対応してくれた職員は首を横に振るばかりだった。
僕は以前説明したことと同じことを職員に話し、再度行方不明届けを出すことにした。
ただ、この時また予想外のことが起こった。藍の特徴を説明するため、携帯電話で撮影した彼女の写真を見ようとした時、突然電源が落ちたのだ。結局、何度再起動を試みても復旧しなかったので、一旦家に帰りプリントした写真を持ってくることにした。
それにしても、藍の母親も警察署の職員も、何故もっと真剣に取り合ってくれないのだ。事件があってからだと遅いというのに。
職員の怠慢と肝心なところで電源が落ちてしまった携帯電話に苛立ちながらマンションの廊下を歩いている時、部屋の前に誰かがが立っているのが見えた。五十代くらいの男で、運送会社の制服を着ているが、荷物は持っておらず、心なしかそわそわしているように見える。
もしかしたら、藍の事で何かを知っている人かもしれない。急いでドアの前に行くと、声を掛ける前に相手が気付き、直後その男が僕の前で土下座をした。
「このたびは、大変申し訳ございませんでした!」
「ちょ、ちょっと!」
慌てて周りを確認しながら、男を抱き起こそうとした。しかし男は、土下座の体制から頑なに動こうとせず、ずっと頭を下げ続けている。
「何なんですか、あなた!」
その時、頭の中で良からぬ想像をしてしまった。もしかしたら、この男が藍を――。
「まさか、あなたが藍をどこかに連れて行ったんですか!?」
詰め寄ると、ようやく男が顔を上げた。男は白髪交じりの眉を潜め、首を傾げた。
「あい? 連れて行く?」
何のことを聞かれているのか分からない、といった表情だった。どうやら勘違いだったらしい。
ほっと胸をなで下ろしたが、結局何も解決していないことに気付く。
「じゃあ何で?」
すると男は、その場に正座をしたまま、ぐすっと鼻をすすった。
「あなたに、謝罪をしにきたんです」
「謝罪?」
そして男は、しょぼくれた瞳から涙を一筋流し、話し始めた。
「まずは、こんなに遅くなってしまって申し訳ありません」
そう言って、男は改めて頭を下げた。僕は「やめてください」と言いながら、あれ? と思った。このやりとりは、確か前にも――。
「自分でも、何でこんなに遅くなってしまったのか、言い訳のしようがありません。本来なら、きちんと正装して謝罪にこないといけないのに……」
男の発言から、衝動的にここに来たことが分かった。先日来た親子といい、この男といい、みんな何を言っているんだ。
「あの、全く意味が分からないんですが」
正直に言うと、男は泣きはらした顔で僕を見た。
「成沢さんですよね?」
「はい」
「以前……」
そこまで男が言った時、もうほとんど恒例になった例の頭痛に襲われた。
藍が失踪してから何度も経験しているせいか、徐々に身体が慣れてきていた。だが、会話ができるほどではなく、僕は瞳を閉じて冷静になりながら痛みが通り過ぎるのを待った。痛みは藍の母親の家で経験したように、あるタイミングでパッと溶け消えた。
「あれぇ?」
目を開けた時、男は口をぽかんと開けて、きょろきょろと周りを見ていた。
「俺、何でこんなところに?」
「あの」
すると男は僕の顔を見て、首を傾げた。
「あれっ、集荷の依頼でしたっけ?」
否定すると、男は納得がいっていないように頷いた後、自分が泣いていたことに初めて気付いたのか、目元の水滴を拭っていた。
「あなたは今、何を言いかけたんですか?」
「俺? ええと……」
本当に何も覚えていないようで、思い出そうとしている時に携帯電話が鳴り、彼は僕に愛想笑いをして逃げるようにエレベーターに向かって走っていった。
連日の不思議な体験と、藍に関する手がかりが一切見つからないことに憤りを感じ、八つ当たりするようにドアを閉めた。念のため部屋の中も見て回ったが案の定藍はおらず、部屋は出て行った時のままで、僕が留守の間に帰ってきた形跡もない。
コップ一杯の水を飲み、気持ちを落ち着かせる。イライラしていても仕方がない。これから藍の写真を持って警察署に行く。携帯電話もこのまま電源が付かないのなら修理をしなければならない。せっかく有給を取ったのに、何も進展するどころか、逆に分からないことが増えすぎてストレスが増加した休日だった。
少しだけ冷静さを取り戻した僕は、写真立てのある部屋に向かった。タンスの上。そこに一緒に伊豆旅行に行った時の写真がある――はずだった。
写真立てが何故かなくなっていた。部屋中を引っかき回し探したが、一向に見つからない。どこかに置き忘れた可能も考え、家中の部屋を探すが、どこにも見当たらない。
家を出る前は確実にあった。伊豆の海。両親の新婚旅行先。黒髪のショートボブ。僕の肩もたれかかる小さな頭。二十三歳の誕生日にプレゼントしたネックレス――。
「……あれ?」
髪型は黒髪のボブだったか? ネックレスなんてプレゼントしたか? そもそも、行ったのは伊豆だったか?
僕は自分の思考に身震いした。何度も見た写真。そこには確かに、藍の姿が写っていた。だが、いくら思い出そうとしても鮮明に思い出すことができないのだ。
藍がいなくなる前、そもそも彼女はどんな髪型だった? どんな声だった? 僕は最後に彼女とどんな会話を交わした?
恐怖を断ち切るように、リビングへと移動した。その時、本来写真立てがあった部屋から何かが落ちる音がした。入ってみると、雑然とした空間にガラスの人形が転がっていた。
藍がいなくなってから不思議なことが起こっていたが、この人形に対する違和感が芽生えたのも同じ頃からだ。
そっと人形を手に取り、もう一度細部を確認する。精巧に作られた天使の羽と、しなやかなで丸み帯びた流線型のラッパ。土台に立つ天使がそのラッパを口元にあて、頬を膨らませている構図――。
なんとなくこれをなくしてはいけないと思い、人形を持ってリビングに戻った。連日襲ってきた頭痛と、さまざまなことが起こったせいでひどく疲れていた。明日から仕事が始まるというのに。
ソファにどかっと座り、テレビの電源を入れる。もうすでに夕方のニュースが始まっており、いつものようにチャンネルをザッピングした。いくつかチャンネルを流し見していると、県内ニュースのチャンネルに行きついた。
そのチャンネルでは、来月行われる花火大会の特集をやっていた。この花火大会は、観光スポットであるこの町の大きな湖で開催される一大イベントだ。毎年七月の第二週の土曜日に行われ、近隣の県よりも比較的に早い時期に開催されることから、毎年多くの客が訪れることで有名だった。
湖はとても敷地が広く、たびたび県内の番組のロケでも利用されている。藍と付き合ったばかりの頃、僕らは白鳥ボートに乗った。湖は自然にあふれていたが、周りにはレジャー施設や飲食店もあったことから、僕ら以外にもたくさんのカップルがいたことを覚えている。
番組では、レポーターがゲストにインタビューするというコーナーになった。これ以上見ていたら余計に悲しくなってきそうだったので、チャンネルを変えようとリモコンを手に取った。すると、
『今日は特別ゲストからのメッセージがありまーす』
合図とともに中継先からの画面が切り替わり、白い背景の部屋が映し出された。そこに映っていたのは、最近巷で有名な俳優「広松恭二」だった。
広松は最近注目されるようになった、六十代前半の遅咲きの俳優だ。広松が出ている映画やドラマは見たことがあるが、彼はいわゆる憑依型の俳優で、演技する役ごとにその作品に適した人格に憑依しているのではないかと言われるほど、高く評価されていた。
去年の秋ごろ、日韓共同で作成した映画に主演で出演し、日本人では初の主演男優賞を受賞したことでも話題になった。医療を題材にした作品だったが、本物の医師のような臨場感と迫力で、見る者を圧倒させたのだ。口元に蓄えた白い髭が様になっており、去年の髭が似合う芸能人ランキングでも一位になっていたほどである。
インタビューによると、彼はこの湖で映画の撮影があるため五日後の七月一日に現地入りし、しばらくの間この町に滞在するらしい。画面ではレポーターがいくつかの質問を投げかけており、僕はなんとなくその映像を見ていた。
『すばらしい自然と、郷土に溢れたこの町で行われる今回の撮影は、私の俳優人生において大きなターニングポイントに……』
ドクン、と心臓が大きくなったのはこの時だった。
――なんだ? 今の感じは。
食い入るようにテレビ画面を見た。最初はなんとなく見ていただけなのに、いつの間にか画面から目を離すことができなくなっていた。
広松は、貫禄のある立ち居振る舞いで、レポーターとのやりとりを丁寧に行っている。そこで僕は初めてこの感覚に気づいた。
「この人、どこかで会ったような……」