真冬のステーキ
雪がぼたぼた、ぼたぼた降っている。
村を示す看板も、村に入る小道も、村人の家さえも雪に埋まっているのだから、「ここに村があるんですよ」と言われても誰も信じないだろう。
「あー、寒い。あー、腹減った。隣村の奴らは薄情だよな。雪かきのひとつもしてさ、食べ物を届けてくれりゃあいいのに」
家中から集めた粗末な毛布にくるまりながら粉挽きの男が言う。
男の足元には同じく腹を空かせた老犬が悲しい目をしている。
去年も一昨年もその前も、大雪で村の生活が立ちいかなくなると、隣村の優しい人々が助けてくれたのだ。
「あいつらの持ってきた具のないシチューでも、硬いパンでもいいから口にしたいぜ」
どうやら今年の雪は隣村にも大きな被害をもたらしたらしい。
いくら優しい人々と言えど他の村の手助けをする余裕はなかったのだ。
「あーぁ、ステーキが喰いてぇなぁ。おい、知ってるか、ステーキ? 知らねぇだろうな」
粉挽きは生唾を飲みながら、犬にステーキの説明を始めた。
「あれは小さい頃、街の祭りに行った時だったな。でっかい鉄板で分厚い肉がじゅーって焼かれてんだよ。焼けたら、すぐに食べちゃならないんだ。ちょっと休ませてから喰うといいんだとーーん?」
不思議なことに粉挽きの吐く息がもくもくと集まって白いキャンバスとなり、その中央にはぼんやりとした肉の塊が描かれている。
「おぉっ!?」
微かに肉の焼ける匂いがするソレへ手を伸ばすも、生暖かい感触だけを残して素通りしてしまう。
確かに焼けた肉らしきものがそこにあるはずなのに、何度掴もうとしても空振りしてしまうのだ。
「畜生、どうしたらそいつを喰えるんだ? 俺のステーキめ……」
そこで粉挽きはハッと気付く。
こいつはまだステーキといえるなりじゃない。
もっとちゃんとしっかりとステーキに近づけないといけないんじゃないのか?
そうはいっても、粉挽きのステーキに対する記憶はあまりに曖昧で、細かな焼き目やかかっていたソースなどまったく覚えていなかった。
「クソッ、行くぞ!」
自力ではどうにもならないと判断し、粉挽きは犬を連れ、ふわふわしたステーキの空気へ息を吹いて飛ばしながら、隣のものぐさなルイーズばあさんを訪ねた。
「おや、まあ、他人の顔を見るのは何日ぶりだろうね。……だけど、怠け者の粉挽きじゃ嬉しくともなんともない。せめて、村外れの働きアリならよかったのに」
ばあさんの言う働きアリとは両親を早くに亡くし、ひとりで生きている青年のことだ。
隣村の支援がない今、青年が各戸に配る僅かな備蓄だけが頼りだった。
「まぁ、そう言うなよ。せっかく雪を掻き分けてきたんだ。あんたもステーキが喰いたいだろ?」
「ステーキ!? どこにあるんだい、そんなもん」
粉挽きはふわふわしたステーキの空気を指差す。
「見てみろよ。こりゃあ神様のお恵みなんだが、このままじゃ触ることもできないんだ。もっとちゃんとステーキを思い出して本物そっくりにしたら、きっと手が届くと思うぜ」
その不思議な様子にばあさんは数回、目をパチクリさせたが、やがて、うんうんと頷いた。
「そうだね、確かにこれは神様の思し召しだ。ここに最高のステーキを描いたら、きっと何度も取り出して好きなだけステーキが喰えるようになるだろうさ。あぁ、そしたらもう腹と背中がくっつくことなんてないよ。なんて素敵なんだろう。よし、じゃあ、あたしのステーキの記憶を足してみようか」
ステーキの表面がジュッと焼け、おぼろだった輪郭が本物たらしく整っていく。
「うーん、いい匂いがしてきたぞ。さすが、ばあさん。でもまだ触れん。あと、もうちょっとだ」
粉挽きが指で何度も空気の肉を突く。
突いた手答えはあるのだが、けれど持ち上げて口に運ぶことはできなかった。
「あと……あとは、どんなだったかねぇ?」
ばあさんがステーキを食べたのははるか昔の結婚式の時だ。
粉挽きと同じくとても美味しかった記憶はあるが、それ以上のイメージを付け加えるのは難しい。
粉挽きとルイーズばあさんは仕方なく、隣のぐうたら夫婦の家の前の雪を搔く。
「おー、よく雪を除けてくれたなー。でも、そんなことしてくれるなら食べ物も持ってきてくれればよかったのに」
「働きアリの持ってきた麦粥がもうなくて、お乳も出ないんだよ。これじゃあ、あたしも赤ちゃんも痩せ細って死んじまう」
空腹の不満を訴える夫婦へ、粉挽きがステーキの空気の説明をする。
妻はステーキを食べたことがなかったが、遊び歩いていた若い時分、遠目で見た金持ちのパーティを思い出し、あの豪華なカトラリーや真っ白な丸皿がステーキの響きに似合うなと思った。
夫はギャンブルで勝ち、奢らせた高級料理を次々に思い浮かべたが、ステーキに関しての記憶は付け合わされたポテトとニンジンの甘煮だけだった。
夫婦のイメージを吸い取るように空気の中のステーキが行儀のよい都会風な料理に変身する。
きちんと丸皿の上に載せられた肉、付け合わせのポテトのソテーは湯気を上げ、ニンジンは色鮮やかで、曇りのないナイフとフォークが並べられている。
だが、それでもまだ熱々の肉塊を食べることはできなかった。
「ソース……ソースが必要なんじゃないか?」
大人四人はそう結論付け、犬を連れ、赤ちゃんを抱き、村中を訪問する。
「悪いけどステーキは嫌いだったんでね、味のいいスープばかりおかわりしてたよ。俺はあれがいいなぁ」
そう言って、空気の中に上等なコンソメスープを追加したのは悪徳商売に手を染め街を追い出され、挙句の果てにこんな辺鄙な村へ無一文で流れついた男だ。
「ステーキなんか知らん! 肉なんて硬いもの、もう噛みきれんわ! 質のいい小麦粉でできた柔らかい白パンをよこせ」
怠惰に年を重ね、ずっと人から借り物をして生きてきた老人によって、ふっくらした白パンの入った籠がステーキ皿のそばに並ぶ。
無精な村長一家の娘がようやくガーリック入りステーキソースのレシピを本から探し出すが、味わったことのないソースを想像するのは難しく、ステーキの上にガーリックチップを載せることしかできなかった。
それなら、トマトのソースはどう? とずぼらな機織り娘が提案するも、トマトのソースはパスタじゃなきゃ、と横着な洗濯女が応え、トマトの赤が美しい、ちょっと辛そうなパスタが登場する。
ドライフルーツの入った焼き菓子も、数種類のチーズも、飲み尽くせないほどのワイン樽も、乾杯するための陶器のゴブレットも、次から次へ着々と揃っていくのに、どうしても肝心のステーキにソースがかからない。
こんな近くに素晴らしいご馳走があるのに、美味しそうな匂いが漂っているのに、氷点下の空の下、熱々の湯気が上がっているのに、それを手にすることができないのは拷問に等しかった。
「おーい! 働きアリが最近、ステーキを食べたんだってさ!」
村外れに通じる道で面倒くさがりの木こりのジョゼッフが大きく腕を振り、皆へビッグニュースを告げる。
「まさか。きっと別なものと勘違いしてるんだよ。親が死んでから、ずーっと貧乏暮らしのあいつがステーキなんて知るわけないさ。なぁ、そう思うだろ?」
怠慢な研ぎ師は信じない。
彼のぼんくら息子達も父に同意した。
「そうだよ。あいつが手に入れられるものなんて小さな畑で育てた豆や麦、森で集めた木の実やキノコばっかりさ」
「しかも、なにが楽しいのか知らないがそいつをせっせと干したり、塩に漬けたり、瓶詰めにしたりして貯め込むんだ。だから、あいつはいつでも働いている。街に出てステーキを食べる暇なんてありゃしないよ」
働きアリの情けを受けておきながら、村人達の彼に対する評価は殊更低かった。
うららかな春には野遊びと居眠りを、弾ける夏には空が白むまで川辺で踊り明かし、実りの秋には豊富な山と川の幸で飽きるまで宴会をするのが、この怠惰な村の常識だ。
その常識から外れる働きアリが奇異の目で見られるのは当然だった。
「いや案外、本当かもしれないよ。ちょっとこっちへおいで、モニカ」
ルイーズばあさんがひとりの女の子を近くに呼び寄せる。
「あんた、ちょっと前にお姫様が食べるみたいな砂糖菓子を働きアリから貰ったって言ってなかったかい?」
「えぇ、言ったわ。おばあさん」
「それを働きアリがどこから持ってきたのか知ってるかい?」
「えぇ、知ってるわ。おばあさん。山道で難儀していたお貴族様の馬車を助けたお礼に素敵なものを沢山ご馳走されて、そのお土産でいただいたって言ってたわ。小さい子、皆で分けてお食べって、お土産の袋ごとくれたのよ」
大人達は顔を見合わせる。
「ほぉら、俺の言った通り、あいつはステーキを知っている。さぁ、早くステーキを完成させようぜ!」
歩き出すジョゼッフの後ろからフーフーとステーキの空気を吹きつつ、ぞろぞろと村人がついていく。
「やぁ、また来たねジョゼッフ。それに皆さん揃ってどうしたの? 掃除が終わったら食材を届けに回ろうと思ってたんだけど」
ブラシでゴシゴシ、煙突の煤取りをしていた働きアリことポールは手を休め、眼下の人々に優しく微笑みかけた。
「おまえ、ステーキの味は覚えているか?」
粉挽きの問いにポールはうんと答える。
「かかっていたソースの種類までか?」
ポールがもちろんと頷くと、ドッと歓声が沸き起こった。
「今から空気をそっちに吹くからな! よーくステーキのことを思い出してくれよ!」
粉挽きの合図で老人も娘も子供も顔を真っ赤にしながら、屋根まで空気を吹き上げる。
「うわぁ、こいつはすごいご馳走だな。ステーキが完成したら中から取り出せるようになるのかい?」
「あぁ、ステーキだけじゃない。パンもスープもワインも甘いものもなんだって取り出せるさ」
「ふうん、なら僕はステーキじゃないやつがいいなぁ」
言うなり、ポールは大麦の束を仔細に思い浮かべる。
それも一束ではなく、とても沢山。
どうやら素朴な願いは通じやすいらしい。
ポールが空気に両手を突っ込むと、立派な大麦の束を難なく手にすることができた。
「神様に感謝します! さぁ、皆、大麦を投げるからちゃんと受け取ってくれよ!」
村人の頭上に次から次へと麦の束が落とされる。
「な、なにをやってるんだ、おまえ! 誰がこんなもんを取り出せと言った!?」
「アッハッハ! 粉挽きさん、出番がきたね! もう家に閉じこもってる暇はないよ!」
ステーキ! ステーキ! と喚く声を無視して、ポールは様々なものを想像した。
火を起こさなければ食べられない生肉や魚や貝、ビーツやインゲン豆、コロコロの小芋、薪を投げるのは危険なので、薪割り斧用の砥石をそっと積もった雪に滑らせる。
「ほらほら、早く! まだまだ、出すぞ! 春はずっと先だから、それまで満足に食べられる分を備えよう! さぁ、足の早いもんは村中のソリを持ってくるんだ! そして、力のあるもんはソリに荷物を積んで、村の中央に引っ張っていくんだ! おっかさん達は食材を分ける係と料理を作る係に分かれてくれ! 女の子達は今から極上のミルクが入った壺を下ろすから、僕の家のかまどで温めて、赤ちゃんと小さい子から順番に皆に配るんだ!」
もちろんポールは悲しい目をした老犬へのプレゼントも忘れない。
程よく肉のこびりついた美味しそうな骨を何本も用意してやる。
大量の食物とその食物への対処に、混乱しながらも村人達が活発に動き出すと、ポールはさて、と空気の中の香ばしく焼ける肉に目を向けた。
これをようやく働き始めた彼等に食べさせるつもりはない。
肉は出したのだ。
自分達で調理し食べてもらえれば、作る楽しみも芽生え、食材に関する感謝も生まれ、一際美味しく感じるだろう。
それに、とポールは目を細める。
都会風な料理はお礼で食べるのが一番旨い。
お貴族様の馬車を助けた際にたらふくご馳走になった品々を思い出す。
丸ごと海老のハーブ焼き、ベーコンの味がするムース、深い味のジュレがかかった新鮮な野菜、クリームみたいなリゾット。
そして、すり下ろした玉ねぎたっぷりのソースがかかったぶ厚いステーキ。
空気の中にポールの味わった海老やムースが追加され、ステーキの仕上げにジューッとソースがかけられる。
手を伸ばせば確実に触れられる豪華な食卓へ、ポールは角度を定めフッと息を吹きかけた。
今日の風は隣村の方角へ流れている。
空気は上手い具合に風に乗り、ゆっくりと移動していった。
隣村の優しい人々はこのお礼をきっと喜んでくれるだろう。