近づいて、ぶつかって 1
「うわあ……きもちわる……」
自身の部屋で魔物図鑑を眺めながら、わたしは思わずそんな声を漏らしていた。うにょうにょとした触手が7本もあったり、目玉がいくつもあったり。気持ちが悪すぎる。
勉強は好きだ。けれど何が悲しくて、こんな気持ち悪い生き物の生態を覚え込まなければならないのだろうか。
しかし真面目な生徒であるわたしは、そう言いながらも来週の小テストに向けて「も、猛毒巨大蛸の足は八本、うち二本の動きが早い」と声に出し、必死に暗記を続けている。
「ジゼル、喉渇いた。いつものやつ」
そんなわたしに向かってソファに寝転がっていたエルは、ひどく偉そうにそう言ってのけた。
彼は本当にずるい。わたしが名前を呼ばれるとつい、ホイホイ言うことを聞いてしまうのをわかった上で言っている。
そうとはわかっていながらも、即座にお茶の準備をし始めてしまう自分が悲しい。なんてちょろいんだろう。
「いつものやつ」というエルのお気に入りの紅茶を煎れながら、わたしはふと気になったことを尋ねてみた。
「ねえ、エルって魔物を見たことある?」
「当たり前だろ」
「えっ、あるの!」
魔物というのは、基本的には都市部には存在しない。森や山奥にいるらしい。そして魔物は、必ず人間を襲うという。だからこそ日々、騎士団が討伐してくれているのだ。
ちなみにいずれ、実際に魔物が出る場所に出向いて魔法を使い、倒す授業だってあるんだとか。今から気が重い。
「やっぱり生で見ると怖い?」
「は? お前はほんと誰に向かって口聞いてんだ」
「いや、エルだけど」
「俺は───して、───だぞ」
「うんうん」
エルの言葉に、謎のもやがかかるのにも大分慣れてきた。彼はその度にかなり苛ついているようだったけれど。
エルの前にことりとティーカップを置くと、わたしは再び図鑑を開いた。長い耳がついた兎のようなものもいれば、ふわふわもこもこの、可愛らしいものもいる。
「でも、可愛い見た目の魔物もいるんだね。なんか倒すのが少し可哀想になっちゃう」
「そんな考えさっさと捨てろ」
「えっ?」
「そういうバカが、真っ先に死ぬんだ」
突然のそんな物騒な言葉と、ひどく真剣な表情をしたエルにどきりとしてしまう。まるで本当に、そのせいで死んだ人を見たことがあるかのような口ぶりだった。
「……ま、お前みたいな能天気なやつに戦闘は向いてない。大人しく家にでも引きこもっとけ」
小馬鹿にしたようにそう言うと、エルはティーカップの中に、ぽとぽとと何個も角砂糖を落とした。
エルは時々、やけに大人びた表情や物言いをすることがある。普段はクソガキなんて言いながらも、誰よりも子供っぽい言動をしているくせに。
わたしはそんなエルのことを、やっぱり何も知らない。そう思うのと同時に、最近はそれが少し寂しく、そしてもどかしく感じるようになっていた。
◇◇◇
魔法学園の授業はSクラスだけでなく、ABCといった他クラスと合同のものもある。大きな教室に集まり、学年全体で受けることもあった。
そんな合同授業が終わり、昼休みが始まった頃。そのまま食堂へと向かおうとしていると、不意に声を掛けられた。
振り返った先にいたのは、上位貴族というオーラが滲み出ている、話したこともない他クラスの令嬢だった。その後ろには取り巻きらしき令嬢達がいる。
「ハートフィールド様、少しいいかしら」
「あ、はい」
そしてその雰囲気から、これはよくロマンス小説に出てくるアレだと即座に理解する。
心配そうな表情を浮かべるリネ達に「大丈夫だから先に食堂へ行ってて。あっ、後でお金を払うからBセットの大盛りも頼んでおいて欲しい」と言うと、わたしは大人しく彼女達の後をついて行ったのだった。
そして辿り着いたのは小説でもよくある校舎裏、ではなく人気のない階段で。わたしはてっきり、エルのことについて何か言われると思っていたのだけれど。
「あなた、クライド様とはどういう関係なの」
なんとびっくり、クライド様についてだった。わざわざ呼び出されるほど、彼と仲良くした覚えはない。
「普通にクラスメイトとして、仲良くして頂いています」
「二人で歩いている姿を見たっていう子もいるのよ」
「たまたまお会いして、一緒に散歩をしただけです」
そう答えると、彼女は鼻で笑った。エルに鼻で笑われても何も思わないけれど、なんだかムッとしてしまう。
「貴女には、バーネット様がいるでしょう。それだけでは飽き足らずクライド様に手を出すなんて、噂通りね」
「は?」
「それに貴女のような、醜聞が流れている女性といるのはクライド様の為にもなりません。クライド様には間違いなく、もっとふさわしい相手がいるのですから」
そんな言葉に、わたしは珍しく少し腹が立っていた。
もちろん、自身を悪く言われたからではない。そんなことにはとっくに慣れている。それよりも、クライド様のことを大して知りもしない様子の彼女が勝手に決めつけ、それを他人に押し付けていることが許せなかった。
そしていつの間にか移っていたらしい、エルの口癖が思わず口から漏れてしまっていて、内心焦っていた。女の子としてこんな言葉使いは良くない。気をつけようと思う。
「……別に、誰と仲良くしたっていいじゃないですか」
「何ですって?」
「自身が付き合う相手としてふさわしいかどうかの判断くらい、あのクライド様が出来ないはずはないですし。それに、わたし達が思っている以上にきっと、クライド様は色々なことに気を遣っていると思うんです。彼のことをよく知りもしない、他人のわたし達が口を出すことじゃありません」
そう答えると、彼女は真っ黒に縁取られた目を見開き、その顔を真っ赤にした。物凄く怒っている。サマンサならすでに、わたしの頬目掛けて右手が飛んできていただろう。
つい言い返してしまったとは言え、ここから面倒なことになってしまいそうだなと、呑気に考えていた時だった。
「彼女の言う通りです。僕も友人くらい、自分で選べます」
そんな声に振り向けば、なんとそこにはクライド様その人と、今日はメガネくんも居たのだった。