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歴史探偵アケチ  作者: 橘晴紀
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信濃路②

 長野県東部は東京への玄関口で県境を越えると、避暑地で有名な軽井沢があり、浅間山も近い。新幹線であれば二時間もかからず東京へ出られる割には、山々に囲まれ長閑である。自然豊かな日本有数の教育県で教鞭を執る中原朋絵は、二カ月後に迎える教え子たちの卒業を目の前に忙しい日々を送っていた。

 しかし、心に空いた穴は兄の死からまだ間もないということよりも、自らが招いて最愛の者を巻き込むという最悪な結果を、後悔しても埋めることはできなかった。

 朋絵は自責の念に苛まれて、身動きがとれなくなったが、己の責任感の強さだけが唯一の原動力になり、なんとか子供たちを送り出す準備だけはしている。

 昼間の喧騒を離れ、家に帰りひとり部屋に籠ると、孤独感以上の耐えがたい苦しみで毎日を送っていた。

 自身が最も後悔していることは、何故あの日京都で兄と会って先に店を出たのかということ。もう少し一緒にいれば、兄は殺されるようなことはなかったのではないか。さらに、ケンカをしなければ、自分が刀を持って家を出なければ、兄の言う事を聞いていれば、もっといえば、自分が我がままを言わなければこのような事は起きなかった。それでも先祖から受け継いだ物と父から託された期待に応えるために、どうしても兄と違わなければならなかったなら、せめて兄が命を落とすような事にならないようにすべきだった。

 今さら考えても後の祭りである。それならせめて、兄と別れてホテルに戻り、携帯電話の充電が切れるということだけでも避けていれば、翌日早い時間に冷たくなった兄と再会できた。何も知らないまま、母と入れ違いで家に帰り京都からの連絡で兄の訃報を知った。

 悔やんでも悔やみきれない朋絵はようやく、少しずつ眠れるようになった。しかし、もうひとつの悩みが朋絵の行動を邪魔していた。それは京都から戻ってから、

それまで頻繁にしていた電話やメールを全くしなくなったからだ。自分が殻に閉じこもってそうなっているのではない。特定の相手にだけそうなるのだ。

 その相手は親友の城田紗佳であった。高校卒業後、地元長野の大学に進んだ朋絵と東京の大学に進学した紗佳は長野では年に二回ほどしか会わなくなった。

 それでもふたりは歴史好きということもあり、一緒に全国の歴史巡りによく出かけた。ふたりとも大学を卒業して、朋絵は教師に、紗佳は東京でインテリアデザイナーとして、お互い順調に仕事をこなしていた。

 しかし二年前のある日突然、紗佳が長野に帰ってきた。それは帰省ではなかった。

 戻ってきた紗佳はそれまでとは別人のようになっていた。あえて紗佳に聞かず、見守っていた朋絵の下に風の噂が流れてきた。東京で結婚間近までいった相手と別れて、それで会社も辞め、実家に戻ったという。

 朋絵は徐々に回復していた紗佳の傷が癒えるのを待った。その甲斐あって、ようやくふたりで旅行に行けるところまでになった。それから一年が過ぎ、兄の兼男が帰省した時、一緒に紗佳を誘ってスキーに出かけた。

 そこで朋絵はある疑念を抱いた。兄と紗佳は自分を介してよく知っていて、何度もふたりを見てきた朋絵は微妙な空気を感じ取っていた。それはお互いが久しぶりに会ったからという程度ではなく、明らかにふたりが何かを隠しているというものであった。

 二十数年見てきた兄と、二十年来の親友だから当然である。特に紗佳が嘘をつく時の仕草がそれを物語っていた。何とか取り繕う兄の姿も嫌で仕方なかった。

 しかし、確かめることもできず、その日を終えた。何でも語り合ってきた親友の紗佳は何も言わない。だから、これまで自分の勘違いだと言い聞かせてきた。

 そして兄の事件後、自分が連絡をしない事を棚に上げた朋絵は、同じく連絡を寄こさない紗佳への疑念が再燃した。そして、ここのところ毎日携帯電話のアドレスを眺めるだけの日々であった。

 同じ頃、長野県内のとあるホテルの一室。

「また痩せたんじゃないか?紗佳」

「うん。京都から戻って、あんまり食べられないの」

「仕方ないよな。あんな事があったあとだから…それにしても残念だ!俺が兼男さんを見失わずにいれば、こんな思いをすることもなかったのに…。でも食欲はないけど性欲は十分あるよな!紗佳」

「やめてよ!直也が無理やり連れてきたんじゃない!」

「その割には感じてたじゃないか!」

 紗佳は包まっていたシーツのままベッドから出て浴室に向った。熱いシャワーの湯で先程の情事を洗い流そうと思っているのではない。一度は愛して、添い遂げようとした相手に裏切られて、ようやく忘れられると思った時に再会して、相手は悪気もなく過去を忘れて自分を頼ってきた。紗佳の傷を癒してくれたのは時間と友人たちであった。その中でも心と体、両方を慰めてくれた直也には感謝でいっぱいであった。

 高校の同級生であった直也とは学生時代、親友の朋絵と一緒に仲が良かった。失意のまま東京から戻ってきた紗佳に、事情を何も知らない直也は高校時代からの一途な想いを告げ、怒らせたこともあった。

 それから直也の想いが紗佳に通じるのは一年という期間を要した。半年前、朋絵に誘われるまま行ったスキー場で兼男に再会した紗佳の心は揺らいだ。兼男が自分たちの別離の原因になった女性の元に通わなくなった事を知った。親友の朋絵にも知らせていなかった兼男との関係を直也は知っている。それは当然、付き合っているからだ。紗佳は東京に戻った兼男を気にしながら、直也と付き合う自分に迷いを感じていた。

 そんな時に兼男が再び長野に帰ってきて、自分を頼ってきた。朋絵が行方不明になり、彼女が立ち寄りそうなところを知りたがっていた。朋絵は兄に知られたくないので、暗号まで使って自分に連絡をしてきたのに。

 紗佳はジレンマに陥った。一度ならず二度までも兼男を信用してよいものか。さらに、また朋絵に何も言わずにいるのか。紗佳が悩んでいた間に兼男は自力で京都までは辿り着き、一旦は安堵した。しかし、再度行き詰った兼男に懇願され紗佳は迷った。そして、後悔した。

 シャワーの湯が自分の体からすり抜けて、床に落ち排水溝に流れていく。紗佳は何故、あのとき京都に向ったのか。何故、あんなことを言ったのか。

 それさえなければ、兼男は死なずに済んだかも知れないと悔やんだ。救いは京都行きに背中を押してくれたのは直也であって、彼も一緒に来てくれたことだ。

 シャワーの温度が上限になっても、熱さを感じなくなった紗佳はあの日を思い出した。

「もしもし紗佳。僕だ。ダメだったよ。朋絵は怒って店を出てしまった。刀をどこかに隠したって言うんだ。聞いても教えてくれない。どこか心当たりはないだろうか?」

 紗佳は兼男のすぐ近くにいるのに、あたかも長野に居る振りをして兼男に答えた。

「兼男さん、いまどこにいるの?」

「え~っと、八坂神社から少し駅の方に行ったところだよ」

「ちょっと待ってね。思い出すわ」

 受話器を押さえた紗佳は考えた。そして、おくびにも出さず兼男に答えた。

「確信はないけど、おそらく八坂の塔かもしれない」

「ここから近いのか?」

「歩いてそんなにかからないと思う。八坂神社の近くに交番があるから、そこで聞いてみればいいわ」

「ありがとう、紗佳。…この件が片付いたら一度、君とゆっくり話がしたい。会ってくれないか?」

 その言葉に紗佳は耳から携帯電話を放し、それを握りしめた。その時、向かい合っていた直也からも目を反らし俯いた。

「もしもし、紗佳、もしもし…」

 小さく聞こえる兼男の声にハッっと我にかえった紗佳は、直也に謝るポーズをしながら店の外へ出た。

 紗佳は言葉より先に出た白い息を目で追った。

「あのね、兼男さん。私も話があるの。会わせたい人もいるから、今度東京に行くよ」

『ザーザーザー』

 動きの止まった紗佳の頭の先に当たる湯は、体に沿って流れ落ち排水溝に吸い込まれた。背中に当たった感触はそのまま胸を包み込み、ゆっくり動き始めた。

「どうしたんだ?遅いから心配したよ」

 耳元でそう囁く声は紛れもなく直也である。しかし、紗佳の記憶は今し方京都に戻り、そのもっと前の東京に移った。うなじをゆっくり這う唇に拒絶のために動かした首は逆効果であった。胸から徐々に下へ落ちていく手を掴んで紗佳は言った。

「今はダメ。ここから出て」

 壁に手をついたまま低いトーンで話す紗佳に直也は従った。寒い午後、朋絵は学校から持ち帰ったプリントに採点をしていた。一階からする母の呼び声で下に降りると、玄関に見知らぬ男が立っていた。

「初めまして。明智と言います」

 明智の出した名刺に朋絵は驚いた。

「確か、この名前は…」

「京都の探偵事務所です」

 明智は兼男の依頼を受けたことを朋絵に話した。すると朋絵は明智を応接間に案内した。明智は兼男が六歴探に来た経緯を説明し、その後朋絵の了解を得て、線香をあげるために仏壇の前に座った。

 手を合わせて振り返った明智に朋絵はお茶を出した。

「犯人はまだ捕まっていませんよね?警察は一度こちらに来られたきり、それから何の音沙汰もありません」

「当然です。彼らは聞く事がないと現われません。間もなく犯人は逮捕されるでしょう」

「犯人がわかったのですか?」

 そう言った朋絵は茶を啜るだけの明智を見て言った。

「そうですよね?明智さんは警察の方じゃありませんものね?」

 苦笑いの朋絵に明智は返した。

「美味しいお茶ですね」

「あ~、それは先日、京都に行った折に買ってきたのです。いつもそうしています」

そう言った朋絵は俯いた。

「何も知らないで、楽しみながらお茶を選んでいる時、すでに兄は霊安室にいた。私は何をしていたんだろう」

 畳に両手をつく朋絵は拳を握った。

「ごちそうさまでした」

 明智は胸ポケットから写真を出した。それは兼男が明智に渡したものであった。

「これは…」

「あなたを探すために預かったものです」

 手渡された写真を見て朋絵は唇を噛みしめた。

 そして、思いついたように言った。

「あの~、もう一度、応接間でお待ち願えますか?」

 朋絵は慌てて仏間を出て行った。応接間で待つ間、明智は部屋に飾られている写真やペナント、棚に並べられている本を見て回った。いずれも一目で歴史好きというのが分かるものが多く、明智を退屈させないものばかりであった。階段を駆け下りてきた朋絵は部屋に入るなり財布を開きながら言った。

「あの~、おいくらでしょうか?」

 中を確認する朋絵に明智は首を傾げた。

「依頼料を兄の代わりに支払いますので」

「いいえ。頂くわけにはいきません」

「どうしてですか?」

「依頼は受けましたが、何の成果もありませんし、何より本人が亡くなられたので」

「だから、妹の私が支払います。経費や京都からここまでの交通費など…」

「それには及びません。私はただ、お兄さんへ線香を上げたかったのと、写真をお返しするために来ただけです」

「そうでしたか…」

 拍子抜けの朋絵に明智は頭を下げて、応接間を出た。

「ちょっと待って下さい」

 振り返る明智に朋絵は言った。

「明智さんは本当にそれだけで来られたのですか?」

「はい」

 靴を履くため屈んだ明智に朋絵は言った。

「あの~、このあと、お急ぎですか?」

「京都に戻るだけです」

「少しお時間をいただけますか?」

 そのあと再度、応接間に通された明智は朋絵の話を聞いた。朋絵によると、最近頻繁に不審な電話が掛かってくるという。特に怖い思いをするとか、脅されるようなことはないらしい。ただ、兄が殺された後でもあり、女二人の所帯でもあることから、念には念を入れて戸締りなどはしっかりしているという。朋絵は明智と話している内に当初の警戒感は薄れていた。

「兄は私の捜索の他に何か言っていませんでしたか?」

 明智は兼男から聞いた刀の話をした。

「兄はそんな事まで依頼していたのですか。もうご存じなら私もお話いたします。先程、お話した不審な電話の件なのですが、私は刀が関係していると思うのです。その前に、明智さんに謝らなければなりません。さっきまで明智さんを電話の主だと思っていました。ごめんなさい」

「仕方ないです。顔を上げてください。それにまだ私がどんな人間か分からないのですから、迂闊に信用してはいけませんよ」

 真顔で見つめる明智に朋絵は笑って、再度謝った。

 それに対して明智は言った。

「ほんとにお兄さんの言った通りだ」

「なんですか?」

「あなたはあまり物怖じしない人だと」

「兄はそんな事まで言ったのですか?そうじゃないです。世間知らずなだけですよ」

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