助手決定①
朝から騒がしい蝉が鳴き止んだということは、かなり気温が上ったということである。活発な太陽が歩く人々の額から汗を流させ、言葉を交わす人たちに恒例の決まり文句を語らせ、熱を与える代わりにやる気を奪う。
そんな中でも黒のスーツに、緩めてはいるが黒のネクタイという出で立ちで、汗ひとつ掻いていない男が門の前に立っていた。男は銀のライターを手のひらに握りながら、クシャクシャになったタバコの箱から一本取り出して、ライターのフタを親指で押し上げた。
ゆっくりとした男の動作と真逆でライターの火は通常ではあり得ない程の高さまで達した。男はそれにまったく動じず咥えたタバコを火に近づけた。
男の横を通り過ぎるのは幾人もの若い男女。前日のコンパでの武勇伝を男友達に誇るナンパ野郎。先日食べたあまり知られていないスイーツを女友達に自慢するポッチャリ娘。中には今時珍しく参考書を手にしながら歩く秀才くん。スポーツカーで男に送ってもらうイケイケギャルなどもいる。
男の正面には建物の上部に誇らしげに存在感を見せつける大きな時計。
針は十三時五分を指している。男はゆっくり敷地内に歩を進めた。周りを見渡すことなく真っすぐ時計を眺める男に警備員が近づいてきた。
すぐ左側に受付があり、警備員は男をそこに誘導した。
「失礼ですが、明智さんですか?」
警備員はやや自信なさげに尋ねた。
「そうだ」
明智は突然見知らぬ警備員にそう言われても、眉ひとつ動かさず答えた。
「よかった~。もし間違っていたらどうしようかと思いましたよ」
安堵の表情を浮かべる警備員に明智は言った。
「どこかで会ったか?」
「いいえ。初対面です」
「さすがに天下のK大だな?一歩入っただけで俺が誰だか分かる。どういう仕組みだ?」
「いやっ!それは…その~」
困り顔の警備員のことなど気にもしない明智は後ろから背中を叩かれた。
「もう!ヘイちゃん遅い!みんな待ってるのに…何してたのよ?」
「おう、ミヤコ。悪い!出ようと思ったらポルシェがなかったんだ」
「また、鍵を掛け忘れたんじゃないの?」
「いや、そんなことはない。抜いた鍵を忘れるから昨日、ダイヤル式に変えたところだ」
そんな二人のやり取りに驚いた警備員が口を挟んだ。
「あの~、すいません。私は高級車に縁がないもので存じ上げないのですが、ポルシェはダイヤル式の鍵なのですか?」
恐縮する警備員を見つめながらふたりは笑い、すかさず京子が言った。
「ゴメンなさいね、笑ったりして…。そうですよね?誰でもそう思いますよね?今言っていたのは自転車の話。彼が勝手にポルシェって言ってるだけなんです」
「いえいえ、そんな…私がおふたりの話に割り込んだので…お気になさらずに」
再度恐縮する警備員。続けて京子は言った。
「もう!ヘイちゃん。警備員さんに謝りなさいよ!」
そう言われても明智は悪びれもなく警備員に頷くだけであった。
「それよりもミヤコ。ここのEGはよく訓練されている」
「EG?何それ?」
「エスパーガードマン。つまりEG!彼は初対面のオレの名前を言い当てた」
明智の言葉を聞いて京子は吹きだし、警備員は申し訳なさそうな顔をした。そしてそのまま明智はひとり歩きだした。
「あのぉ、このまま明智さんに言わなくていいのですか?」
「いいですよ!人を待たせたのと、訳の分からないネーミングに灸を据えるには丁度イイぐらいです」
暫く京子は門で待っていたが、時間になっても、一向に現れない明智に業を煮やし、彼の風体と名前を受付に伝え、到着したら連絡をもらうように警備員に頼んでいた。先を歩いていた明智に追いついた京子はガラス張りの建物に彼を案内した。そこは外にテーブルを配し、オープンテラスになっており、辺りは庭園に囲まれている。
中に入るとそこは広く、先進的な内装で言われなければ、ここが大学内にある施設とは思えないほどである。賑やかな声と食器の奏でる音が、左程気にならないほどの広さを要したカフェである。
中に進むと女子学生二人が、京子を見つけ近づいてきた。
「京子、この人がさっき話してた人?」
二人の内、割と活発そうな池谷亜美が京子に聞いた。
「そう。ヘイちゃん」
そう答えながら京子は二人に微笑む明智の袖を掴んで歩き出した。するともうひとりの友人河合綾乃が京子に小さな声で聞いた。
「まさか、京子の彼ちゃうよね?」
すると京子がすかさず言った。
「違うよ!どうして?」
「だって、京子が好きなタイプと全然ちゃうし、それに年も上みたいやから…」
囁くように言ったつもりの綾乃だったが聞こえていたようで、それに対して明智は綾乃に微笑んで言った。
「それは好意的にとっていいのかな?」
「えっ?京子の好みについてですか?」
「いいや!初めにキミが言ったこと」
そう言われた綾乃は少し考えてハッとした。
「あっ!ゴメンなさい。ヘンな意味はないです…その~、さっき京子から聞いていた感じの人と違ったから…」
恥ずかしげに言う綾乃に京子が謝るポーズをして、明智に言った。
「ヘイちゃん、綾乃が困ってるでしょ?すぐそうやってカワイイ子にはそんな気取った言い方をするんだから」
「そうか?いつもと変わらないぞ」
そう言って明智と京子は歩を進めた。
その二人を見送っている綾乃と亜美に京子が言った。
「ちょっと待ってて!そんなにかからないと思うから…」
そう言って京子は再度明智の袖を引っ張って、さらにカフェの中ほどを進んだ。
「ゴメンね、みんな。おまたせ」
京子はそう言ってイスに腰掛けた。明智はひとつ間をあけて京子の横に座り、タバコを取り出した。するとすかさず京子が制止した。
「ダメだよ、ヘイちゃんここは禁煙だから」
「どこもかしこも禁煙だらけだな」
対面の座席には三人の男子学生が座っており、皆不機嫌そうな顔をしている。
「どうした?若者!浮かない顔をして!合コンがウマくいかなかったから拗ねているのか?」
明智がそう言うと、正面に座っている茶髪の学生が言った。
「そうなんっすよ!ミヤちゃんとは仲がイイから問題ないけど、友達の二人は初対面やから、なんか警戒されて思うように話が弾まへんかったんですわ。っていうか、何で合コンってわかったんっすか?」
明智は眉間にしわを寄せて茶髪学生に答えた。
「キミら三人だけだったら、横には並ばないだろう。それにこっちのコップには口紅のついた跡がある」
「へぇ、スゴイっすねぇ」
感心する学生を余所に京子が明智に言った。
「合コンじゃないよ!ヘイちゃんが一時間も遅刻するから、亜美と綾乃を呼んで一緒に待ってもらってたんだよ!」
「そうか!そら、スマン!」
明智は京子の肩を叩いて謝った。すると、茶髪学生が京子に聞いた。
「ヘイちゃんって言うの?この人。誰?」
京子が答える間もなく、明智は目の前に置かれたおしぼりを掴んで腕を下げ言った。
「なぁ、ミヤコ。コイツ、本当にオマエと仲がイイのか?」
「えっ?仲がイイってほどでもないけど」
京子は横目で茶髪学生を見た。
「ちょっと~、ミヤちゃん、連れないねぇ」
∧ ペチッ∨
湿った音が響いた瞬間、茶髪学生が言った。
「痛~!何や、今の…」
自身の左頬を摩りながら茶髪学生が不思議そうな顔をしている。隣二人の学生も彼を見た。音の正体は明智がおしぼりを茶髪学生に放ったものであった。明智があまりにも早いスピードで頬を打ったので、本人はもとより周りに気づくものがいないのも当然である。
明智は辺りを見渡す茶髪学生には目もくれず、残り二人の学生を観察して京子に聞いた。
「ミヤコ、この三人だな?でも、本当にコイツはそうなのか?」
再度、京子に確認して茶髪学生を睨んだ。
「何でこの人、ミヤちゃんを呼び捨てにするの?どういう関係?」
茶髪学生がそう言い終わるや否や、彼はイスごと後ろにひっくり返った。
物凄い音と叫び声に、広い店内にいる人は明智たちの席に注目し、慌てた京子は茶髪学生の側に駆け寄った。
「大丈夫?小林くん」
京子がそう声を掛けると、茶髪学生は頭を掻いて苦笑いをした。
そのとき茶髪学生は先程の頬の痛みと現在の状況を把握した。まるで転がされた昆虫のようになった茶髪学生を起こしたのは、隣二人の学生であった。明智以外立っていた三人は自分の席に戻り、座ったまま正常な位置に戻された茶髪学生は先程の勢いがなくなって、まるで借りてきた猫のように静かになった。