ニ・ライ=クル=ナハル 10
それからライとユーリーンは、長い、長い話をした。
灯の国にいた頃にユーリーンにはライがあちこちの女と寝るのが嫌だったこと。ライの方ではユーリーンのことを姉みたいに思っていて、そもそも戦いの訓練に明け暮れるユーリーンは自分のことを見ていないと思っていた。ライは戦いを軽蔑していた。戦争に夫を取られた女をたくさん、たくさん見てきたからだ。
ジギ族の野盗を討ったとき、自分の底に強い怒りが眠っていたことをライは初めて知った。人を殺めたのはあの時が初めてだった。のに、ライは容易くそれを行えてしまった。そんな自分に驚いた。
あのとき、ユーリーンはどこか嬉しかった。長い年月をかけて身につけてきた技をライのために奮えることが。はっきり言ってしまえばユーリーンには野盗なんてどうでもよかったのだ。あれはこの世界に数多ある悲劇の一つに過ぎなかったし、たまたまそれが自分の手の届く位置にあったということでしかなかった。ただ主君のために力を尽くせることが嬉しかった。
ロクトウの元へと連れていかれて、ハリグモと出会った。偃月刀を手にした偉丈夫。恐ろしい、そして強い男。「すこし、惹かれた」とユーリーンはぽつりと言った。ユーリーンにはない、男性だけが持つ体格と筋力を生かした武の技。戦いとなれば凄絶を極めた。美しいと思った。自分が持たない力に憧れた。「ハリグモ、かっこいいもんね」とライが溢す。言葉の端にわずかに嫉妬が滲んでいてユーリーンはちょっとだけ愉しい気分になる。
そして二人はシンと出会った。大陸を支配せんと乗り出した邪悪な怪物。
「実はそれほど悪い人物だとは思わなかったんだ」
とライは言った。
「それよりも賢い人というのが最初の印象だった」
“邪悪”はあの人に付随する属性だとは思っていたけれど、シンはその悪性の使いどころを弁えているように思えた。誰彼構わず悪性を振りまくわけではなくて、必要な時に必要なだけの邪悪を取り出して相手に向けることのできる人物。灯の国で殺されたユミはその、シンにとって必要なだけの邪悪の犠牲。勿論、ライにはその邪悪が許せなくて、シンに牙を剥いたわけだけど。同時に「なるほど王様というのはこういうものなのかもしれない」と思った。なにもかもに寛容で、起こるできごとを受容するだけでは駄目なのだ。駄目なことに対してはっきりと「否」と突き付けることができなければ、王様足りえない。ライには、できないことだと思った。ライは傷があるのなら受け入れて、できれば助けてあげたいと思う。でも悲劇の舞台に立たされた人はたくさんいて、すべての傷の面倒を見ていたらきりがないのだろう。
草の国から逃れて翅の国との国境の近くにある街で、ライとユーリーンはギ・リョクを見つけた。六尺はある大柄な女。唇の端を吊り上げて挑発的に笑う、金の玉座の上に君臨する人食い鬼。
「そういえばギ・リョクは、雰囲気がユ・メイに似てるよね」
「そうだな」
ギ・リョクは族名を捨てているけれど血縁としてはラキ族にあたる。ユ・メイ=ラキ=ネイゲルとは遠縁の親族にあたった。ギ・リョク自身もユ・メイもそのことは知らなかったが。
「私のギ・リョクへの第一印象は、詐欺師だったな」
「あはは。中らずと雖も遠からずかな」
ギ・リョクが聞いていたらどう思うだろうか?
それからライとユーリーンはギ・リョクの手引きで翅の国に逃れる。蒼旗賊と接触を持つ。ハクタクを助け出す。流人の医師。この世界の理では死人にならざるを得ないような重傷・重病を負ったものを生き返らせる、奇跡の業を持つ人間。
「彼には随分世話になった」
「僕も」
ハクタクは外科医だ。実をいえば精神医学について体系的な根深い知識を持っているわけではない。勿論医師として一般的な表層的な知識は持ち合わせていたが、それだけだった。だから、ライやユーリーンに十分なカウンセリングを施せたわけではなかった。それでも二人はハクタクに随分助けられた。物理的にも精神的にも。
翅の国に拠点を置き、スゥリーンに逢いにいく。ユーリーンと同じ技を使う、似通った雰囲気を持つ少女。「結局あれは何者なのだろうか」スゥリーンがルウリーンの屍から技を教わったことを知らないユーリーンが小首を傾げる。「妹、でいいんじゃない?」ライは具体的にはわからないけど二人にはどこか共通点があるように思って言う。ライは知らなかったが、同じ人物によって育てられたのだから雰囲気が似通っているのも当然だった。
「ユーリーンは、彼女のことをどう思ってるの?」
「いまとなっては、どうとも思っていない」
麻薬に蝕まれたスゥリーンを殺そうと思った。スゥリーン自身が苦しみながら、アスナイの技を用いて死の渦をまき散らす彼女の息の根を止めてやろうと思った。そうすることがスゥリーンにとって救いだと思ったからだ。
だけどいまとなっては、スゥリーンは麻薬による蝕みから逃れたようだ。
どんな手段を使ったのかはわからないが。
(あるいは、死に逃げたかったのは私かもしれないな……)
ユーリーンは自分の手を見る。数多の人間の命を奪った手。血みどろの手。
ライの手がユーリーンの細い手を包んだ。
「半分、ちょうだい?」
「え」
「ユーリーンは全部自分のせいみたいに思ってるけどさ、ユーリーンがあちこちで人を殺さざるを得なかったのは僕が、貴女を振り回したせいなんだ。だから、ユーリーンの抱えてるものを、半分頂戴」
「……ハクタクが話したのか」
ライは首を振った。
「見てればわかるよ」
「そうか」
隠せていたと思っていたのはユーリーンの傲慢だったわけだ。
「貴様こそ、よくも体のことを私に隠したな?」
「うえ。ごめん。心配すると思って」
「するさ。でも隠されていた方が、もっと心配だった」
「そっか。そうだよね」
翅の国に戻り、ハリグモとの別離があった。「あれはこわかったなぁ」「あぅ……すまない」でも、はっきりとユーリーンを失いたくないと感じたのはあのときだった。ユーリーンに向けた思慕が他の人へ向けた思いと比べて特別なものなのだと感じたのも。「正直に言えば、好奇心もあったんだ」とユーリーンは言った。
「自分の身につけた技が大陸最強の武力に通じるのかどうか、確かめてみたかった。結局、通じなかった訳だけど」
「でもそのあとで、河の国の時には」
「あれはハリグモの全力ではなかったよ」
河の国で戦った時のハリグモは何者かに操られていた。正気ではなかった。誰かに心惑わされていた。無論それでもハリグモは強かった。その状態でさえ、ユーリーンを上回りかねないほどに。
シンがロクトウを破り、灯の国を治めるために力を注がざるを得なくなった。
草の国の驚異から一時的に逃れた鉄の国が翅の国の肥沃な大地を求めて軍を繰り出してきた。
「いまだから言っちゃうけど、僕、あのとき、死んだんだよね」
「は?」
「戦車の砲弾でさ、ばっこーん、どかーん。僕の左手、千切れてあっちに」ライは遠くの床を指さした。「落ちてて、左足が飛び散った石の礫だとかで穴だらけ。血まみれ。あれはまいったなぁ」
「な、なな、なな」
言葉にならなくてユーリーンはライの肩を掴んでがくがく揺さぶる。
「そうそう、そういう反応になると思ったから言わなかったんだ」
ライはからからと笑った。
「死んだ、といえば私もあの場にハリグモが現れなかったら、死んでいただろうな」
「え?」
「単身でゾ・ジュゾの元へ乗り込んだのだ。一騎打ちで打倒したのはいいが、負傷した上に包囲されて退路がなくてな」
「ねえ、それ最初から逃げ道のこと考えてなかったでしょ?」
「そ、そそ、そんなことはないぞ」
ライはじーっとユーリーンの目を見つめた。
「……考えていなかった」
根負けしてユーリーンが呟く。ライはユーリーンの額に自分の額をごつんとぶつける。
ライは怒っていた。とても。
「だ、だって、私があの場でジュゾを討たなければ、あの戦いはどうしようもなかっただろう!?」
「だからってね、ええと、戦争なんだから結果として死んでしまうのは仕方ないと思うんだ。嫌だけれど。受け入れがたいことだけど起こってしまうことだから。でも、最初から死ぬことを前提で考えるのは、なし。駄目。絶対だよ?」
「わかった」
河の国にシンが攻めてきた。同盟を交わしたばかりだったライはユーリーンと共に河の国に参戦した。ユーリーンはハリグモを殺した。「なぜあの男は、最後に私に口づけしたんだろうな」ライがぴくりと動いた。「ハリグモとちゅーしたの?」それから口の中で「なるほどユーリーンはこういう気持ちだったのか」と呟く。
「ん、あ、ああ」
ユーリーンがぎこちなく答える。
「むぅ」
ライは気持ちの置き場所がわからなくて、ユーリーンの唇を奪った。
「うん。これでよし」
唇を離して、ぺろりと舌を出して自分の唇を舐める。
ユーリーンは固まっている。「……」何を思ったのか、ライはおもむろにユーリーンの頭の後ろに手を回した。もう一度顔を近づける。「う、ひゃあっ!?」ユーリーンは悲鳴をあげて後ろに飛んで逃げた。
「嫌だった……?」
「そ、そうじゃないけれど、その」
「おいで?」
やわらかい声でライが言い、ユーリーンはおずおずとライの手の中に戻る。もう一度、口づけを交わす。ユーリーンの頭の中がふわふわした多幸感に満たされてまともにものを考えられなくなってきた。
「きっともっと前にこうしておけばよかったんだね。僕らは」
なんだかすれ違ってばかりいた気がする。
傷を見せるのを怖がって。恐れてばかりいた。
お互いにこんなにも大切に思いあっていたのに。
分かちがたく感じているのに。
「ツギハギを、殺したんだ」
王の国で、ライはツギハギを殺した。
意図せずとはいえライを死から守ってくれていた人を。
「あの人は、僕だったんじゃないかと思うんだ」
なにか一つ歯車が違っていた世界のライ。だって、世界中の人々がライを憎んで、ユーリーンを残酷な手段で殺して、その死をライに向かってことさらに見せつけていたら、ライだって世界を丸ごと憎んでいたかもしれない。ツギハギは自分の他に何も持っていなかった。周囲のすべてが彼女から持ち物を奪っていった。もしもライがツギハギと同じ境遇ならば、ツギハギと同じことをしなかったとはとてもじゃないけど言い切れなかった。
「やさしい人だったんだ」
ライは言った。
「彼女が許されないくらいにひどいことをしたのはわかるんだ。でもやさしい人だったんだよ」
結果的にではあるけれど、ライは彼女にずっと助けられていた。戦車の砲弾に手足を吹き飛ばされた時、河の国の兵に心臓を貫かれた時、屍の魔法がなかったらライはきっとそのまま死んでいた。
それなのに、ライはツギハギに彼女を殺す以外のことが何もできなかった。
無力だった。助けたかったのに。唇をあわせて、抱きしめて、それでツギハギの抱えていたものは少しでも軽くなっただろうか?
「……唇をあわせたのか?」
「え、ああ。うん」
ユーリーンはむっとして、ライの顔を掴んで引き寄せた。唇をあわせる。勢い余って歯が当たった。痛くてお互いに口元を抑える。切れてはいないようだったけれど。
なんだかおかしくなって顔を見合わせて笑う。
「僕らは、弱いね」
「ほんとうに。なにひとつ思い通りにはならない」
カイが死んだ。
シンが殺した。
必要な時にだけ邪悪を見せていたシンが、不必要に人々を脅かし始めている。
狡猾を武器にして人々の心を傾かせて、差別を行い、行わせている。
「ねえ、僕はシンを殺すよ。ただ憎いからじゃない。そうしなきゃいけないと思うから。この大陸をあいつに支配させてはいけないと思うから。ユーリーン。力を貸して」
「ああ」
ユーリーンは力強く頷いた。