エ・キリ=ヤグ=ナハル 1
エ・キリ=ヤグ=ナハルは寝台の上で体を起こすと、周囲に視線をやる。なにもない、閉め切った暗い部屋。窓は閉ざしてある。エ・キリは自分が一人であることに安堵するように息を吐く。自分を抱くように両手で肩を掴む。震えている。凍えている様子に似ている。
こんこんこん、と扉が叩かれた。エ・キリの体が大きく震える。
返事をしなければ、やり過ごせる。あの人以外は、いつもみんな入ってこない。だから大丈夫。エ・キリは浅い呼吸をしながら自分を落ち着かせるために、そんな風に唱える。
きい、と扉が開いた。
「ひっ……」
エ・キリは布団を被って身を隠した。
あの人が入ってきたのだと思ったが、「ねえ」と舌足らずな幼い声がした。あの人の声ではない。おそるおそる覗き見ると十七歳のエ・キリよりもさらに幼く見える黒紫色の髪の少女がエ・キリを見上げている。
「だ、だれ?」
エ・キリが尋ねる。
「はじめまして、ココノビと言います。よろしくね」
少女は無邪気に微笑む。
どうみても自分を脅かすような存在には見えなくて、エ・キリはどうにか怯えを抑えて布団から這い出す。少女に向き合う。
「エ、エ・キリです。よろしく」
視線があった。
ココノビはエ・キリを眺める。父親が違うとはいえアゼル=ヤグ=ナハルとはあまり似ていない。アゼルが大柄で肉感的な美女だが、エ・キリは線が細い。涙ぐんでいるような印象を与える弱い目をしている。赤みがかっている髪はアゼルと同じだが、アゼルほど鮮やかな色ではない。体は痩せていて、無遠慮に触れれば折れてしまいそうだった。
「ふうん」
ココノビの瞳があやしく光った。定間隔でその光が繰り返される。
ココノビとエ・キリはしばらく中身のない、他愛のない話をしていたが、そのうちエ・キリの表情が胡乱になってきた。
明滅催眠。
一定のリズムの単調な光を連続で見ていると、思考能力が一時的に衰えていくというものだ。流人の世界では、高速道路での灯火などがこの条件を満たしやすく、夜間の道路での事故原因の一因になっていると言われている。
「ねえ、あなたは何にそんなに怯えているの?」
エ・キリは「火」と答えた。
「火? 炎?」
「そう。私、こわいの。私には、ねえさまやにいさまがたくさんいたの。朝起きたら減ってるの。昨日まで来てたねえさまやにいさまが朝食にこなくなるの。それに、わたしの毒見をしてくれてた子が、し、死んだの。誰かに毒を盛られたの。だ、だから、だからきっと次はわたしなんだわ。わたしも明日には、いいえ、今日にだって死ぬのよ」
「それがこわいの?」
エ・キリが頷く。
「でもね、でも、もっとこわいことがあるの」
「それはなに?」
「あの人、あの人よ! あ、アゼル姉さまが! わたし、アゼル姉さまがこわいの! あの人が殺してたのよっ! あの人が他の姉さまや兄さまを焼き殺してたの! あの『炎』の魔法で! だから、だからあの人がいつか他の兄弟達みたいに、わたしのことも焼き殺すんだわ!」
……キリは知らない。
アゼルが焼き殺したその兄や姉の王子達は、覇王の血を引くものは少ない方がいいと考えてエ・キリを殺そうとしていた。エ・キリに毒を盛ったものもその中には含まれていた。そしていまエ・キリは誰にも殺されることなくこうして暮らしている。アゼルによって守られたからだ。
アゼル=ヤグ=ナハルは炎の魔女だ。利己的な人間だし、一般的に言うところの正しさからは程遠い。が、彼女はシンとは違う。人間らしい情動を持たないようなバケモノではない。片親だけとはいえ血の繋がった自分の妹を、必死になって守ろうとしていた。
「わたし、こわいのよ。他の何よりも姉さまがっ。アゼル姉さまのことがこわいのっ!」
ココノビはエ・キリを抱きしめて「大丈夫だよ。よく話してくれたね。ありがとうね」と耳元で囁く。落ち着かせるようなやわらかい声と裏腹に、ココノビは頬が裂けそうなほどに口元を歪めて邪悪な笑みを浮かべていた。
かつてここまで漬け込みやすい隙だらけの心を持つものがいただろうか。
ココノビは自分の発する甘い匂いをエ・キリに刷り込む。麻薬成分をエ・キリが吸い込む。
「じゃあエ・キリは、アゼルの手から逃れなきゃいけないね? そのためにはどうすればいいだろうね? きっと逃げてもあの女は追ってくるよね? きっと手段は一つしかないよね?」
小さな声で「殺さないとね?」と囁いた。
殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。
殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。
殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。殺さないと。
幾度も耳元で囁いて、そうやく止める。
エ・キリが憑りつかれたように「殺さないと」と呟いた。
「殺さないと」
「殺さないと」
「アゼル姉さまを殺さないと」
ココノビは満足したように微笑んだ。