ナ・カイ=クル=ナハル 4
カイの口から概ねの現状を聞き出したシンはすぐに壊獣を纏めて西へ向かった。
「そういえば、ライ。君はどうする? ボクに協力してくれるかな?」
「……一緒に戦うよ。ここが屍の魔法っていうのに呑まれたら、次は翅の国だろうし」
「ありがとう。通常の軍による対処がほとんど意味を成さないから本当に困ってたんだ。ふつうに兵を繰り出したところで、屍兵に取り込まれるだけだからね」
ライは、だからこの人はシンに頼ったのだなといまさらのように思う。
通常の獣はわからないが、魔法によって生まれた壊獣ならば屍の魔法に取り込まれることはないのだろう。そして壊獣は死体を餌として食うのだという。もしかしたら『喰』の魔法は『屍』の魔法の天敵と言える存在なのかもしれない。
「それで、僕はなにをすればいいの? シンと違って屍兵に対処できる札があるわけじゃないし、そんなにたくさんの相手じゃあ僕の『泥』の魔法なんてたかがしれてるでしょう?」
カイはきょとんとした顔をした。
「翅の国には、戦車があるでしょう?」
「……あ、そっか」
いかに屍兵が多数であっても、それぞれの個体は人間でしかなく、しかもその動きは普通の人間よりも緩慢なのだそうだ。
屍兵達には、この世界の通常兵器をほぼ無力化する厚さ八十ミリの装甲を突破する方法がない。鉄の国製の戦車には蒼旗賊を相手にした時に損害を零に抑えたという実績がある。なかの人間が屍兵として取り込まれる恐れがない。
「他にボクに訊きたいことはある?」
「……あるっちゃあるんだけど、その」
「言ってみなよ?」
「……カイさんは、さっきのシンの話を聞いてもなんとも思わなかったの?」
カイは目を閉じた。
少しだけ考えて言葉を纏めてから目を開ける。
「ボクが知ってるシンは元々ああいうふうだったからね。むしろ、この王の国を出て行って草の国の王様になってからのシンの方が、随分違和感があったくらいだ」
カイは王の国の中で当時八歳だったシンがやったことを話した。
「それに、シンが間違っているとしてもボクにシンを止める力はない。正義のない力にも意味は生じるけど、力のない正義には意味は生まれないんだ。ああいう力は御したり、抑えたりするよりも、利用したり逃がしたりする方法を考えた方が上手く行くとボクは思うよ」
「だからって、あんなこと」
「そもそもシンがやったようなことは、多かれ少なかれこの大陸のどの国々でも行われてきたことなんだよ」
「!」
「シンの言った“同性愛者”や“病気の人々”、“イナ族”は、王の国ではそっくりそのまま“奴隷”という言葉で置き換えることができる。一般の市民より身分が下で“あいつよりはましだ”、“ああならないようにはしよう”と、そう思って留飲を下げれる存在だ」
特に王の国ではクグ族の奴隷が盛んに用いられてきた。
金持ちは奴隷の数を自慢していたし、事実上の人身売買が黙認されていた。
「……嫌だな」
「ボクもそう思う。だから王の国では奴隷制を廃止して彼らを解放した」
結果としてクグ族は“奴隷”という職に似たものを失って、生活の基盤を失って犯罪に走った。それは予想されていたことだったからカイはクグ族の失業者を城壁の立て直しや社の建設などを行う公共事業に組み込んだ。生活の基盤ができれば犯罪に手を染める必要はなくなる。一時的に大きく膨れ上がっていたクグ族の犯罪率はこれによって一気に落ち着いた。
シンはイナ族の犯罪率について話していたが、犯罪率なんてものは民族的な要素ではなく、取り巻く環境が原因のことが多いのだ。
いまにして思えば、レ・ゼタ=クグ=バウルの目的は「クグ族の奴隷の解放」だったのだろうなとカイは思い至る。
未だにクグ族への差別は王の国に根深く残っているが、少なくともカイは行政府や立法府が差別を積極的に組み込むことはあってはならないことだと考えている。カイの中にそういう考えを見てとったからこそ、ゼタはカイの元に跪いたのだ。
「……ボクはすこしだけ、ミカガミ先生という流人のやっている私塾に通っていたことがあるんだ。その時ボクはまだ子供だったし言っていることの内容はよくわからなかったんだけど、一つだけ耳に残ってる言葉があるんだ」
「なぁに?」
「『最大多数の最大幸福』、だったかな。ええと“もはや誰の権益も損ねることなく、最大多数の個人が最大の幸福を獲得できることのできる社会を目指すべき”って考え方なんだって。大事なのはこの“もはや誰の権益も損ねることなく”って部分だってミカガミ先生は言ってた」
カイは無意識に自分の腹に触れる。
誰かによって損ねられた、カイが持っていたはずの権益。
「シンの言う社会は、“同性愛者”や“病気の人々”、“イナ族”の権益を損ねている。王の国は“奴隷”の権益を損ねていた。誰かの幸福を損ねて別の人の幸福に充てていた。これは最大多数の最大幸福の考え方には反してるよね」
ライは頷いた。
「自分が学んだことがすべてだとも思わないけれど、少なくともシンのやり方はボクの学んだことに反してる。だからボクはシンを肯定しない。否定するにはちょっと力が足りないけどね」
政治というのは暗闇の中を手探りで進むことに似ている。表面上正しく見えるやり方や耳に聞こえのいいやり方だってどこかに問題が潜んでいるかもしれない。のちの世になってみればシンのやり方のほうが正しいと証明されるかもしれない。
ライは自分の姉に好感を持った。
自分の考えを疑いつつも前に進んでいく力を持っているこの人に、敬意を感じた。
死んでほしくないと感じた。
「……やっぱりあなたは、シンに首を差し出すべきじゃないと思う」
「ありがとう」
カイは微笑んだ。
自分の命を諦めている微笑みだった。
「ねえ、一応言ってみるけど“自分は子供が産めないから、自分の命は失われてもいい”なんて思ってるなら、それは大きな間違いだよ」
「……」
カイは少し黙って、目端を下げて困ったような顔をした。鈍い痛みを堪えるような顔だった。
子供が産めなくとも「子供を産みたい」という生物としての本能は残っている。割り切ったつもりでいてもそれは時々カイを苛む。男性の、しかも少年のライに理解できるとも、理解して欲しいとも思わないけれど。
ライはすぐに「ごめん」と言った。
触れてはいけないものに触れてしまった感覚があったらしい。
「ううん、君の言う通りかもしれない」
カイが自分の価値を軽んじていることに、そのことはきっと関わっているから。
「……僕も西にいくね」
ライが立ちあがり、キ・ヒコと共に部屋を出て行く。
外に出た。宮殿の前の広場で「少年」とキ・ヒコが呼びかけた。
ライが振り返る。
「なに」
「抱きしめてもいいかね?」
「え?」
怪訝な目をしてキ・ヒコを見上げたのと、キ・ヒコがライの背中に手を回したのはほとんど同時だった。
「うわ」
少し屈んだキ・ヒコの胸板にライの顔が押し付けられる。分厚い筋肉の硬い感触がある。ライが抱いてきたやわらかくて優しい女の体とは違う、男性の大きくて硬い体だ。
それほど強い力ではなかった。むしろこわれものに触るような優しい手だった。逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せる。ライは身を捩る。
「ええと、何?」
「人間というのは抱きしめられると抑圧が六割ほど減るのだそうだ」
「……ぼく、男の人、好きじゃないよ」
「あれの悪意は君には強すぎる」
「……」
シンの悪意。
どうってことないよ、とライは思う。だってその悪意はライに向けられたものではない。草の国の人々に向けられたものだ。それよりもライを悲しませていたのは、兄を喪ったように感じたことだ。
森の中でユーリーンを背負って遅れてきたライを自然に振り返ったシンの顔を思い出す。自分に臣下になれと持ち掛けたシンを思い出す。「俺が求める人材がまさにそれなのだ。草の国はこれからどこまでも膨張する。多民族国家になるだろう。多民族を纏めるためには為政者が差別的であってはならない。どの民族であれど平等に口説けなければならない」……シンは確かにそう言っていた。差別を否定していた。でもいまのシンは差別を肯定している。
どうしてあんな風に変わってしまったのだろう。
シンの身にいったいなにが起きたのだろう。
不思議なものだ。殺そうと考えていたのに。自分から大切なものを奪っていったシンが憎かったのに。ライはシンの変貌を悲しんでいる。気づけば涙が零れていて、キ・ヒコの胸を濡らしていた。
キ・ヒコの分厚い手がライの髪を撫でる。
少しの間、ライは静かに泣いていた。ユーリーンが見ていなくてよかったと思う。彼女の前で弱い姿は見せたくなかった。
しばらくしてライは顔を離した。
みじろぎすると、キ・ヒコはすぐに背中を抱いていた手を離す。
「なんだかお礼を言うのが癪な気がするけど、ありがと」
「いいや、役得だったよ」
「またそういうこと言うでしょ……」
なぜこの人やギ・リョクは自分から嫌われるようなことを言うのだろうと思う。
……こちらの緊張をほぐすためだろうか。
なんとなく腹が立ったので、ぐーで胸を叩く。
これで毎晩のように男娼を買っているキ・ヒコの奔放な性事情を知っていなければもう少し印象がよかったのだけどなぁと思い、自分も灯の国にいたころにそういう生活を送っていたことを思い出して、ライは眉を寄せた。もしかしたら自分とキ・ヒコのそういう部分の差は、相手にしているのが男か女かの違いくらいではないだろうか、と少し思う。
「……いこっか。アゼルが待ってる」
「ああ」
戦士の目になったキ・ヒコが頷く。
兵を纏めて西に向かう。
使いを出して鉄の国が動かせる戦車兵の全兵力を動員する。
敵の総数に対して、彼らの動かせる兵の数は圧倒的に少ないのだ。