アゼル=ヤグ=ナハル 2
「……なんや。えらい数やなぁ」
アゼル=ヤグ=ナハルはうんざりした調子で呟いた。
砦から見下ろした街道の先。地平線の彼方まで人、人、人で埋め尽くされている。人々は武器を持っている。槍や剣だけではない。鋤や鍬、槌。おおよそ金属で出来ていて「人を殴れるもの」ならばなんだって引っ掴んできたような有様だ。彼らの身なりは一様ではない。麻で出来た安価な衣服を身に纏ったものもいれば、絹で出来た上質な衣を身につけているものもいる。頑丈な軍服を着ているものもいれば、ぼろ衣としか表現しようのないものもある。まるで統制されていない。
見るからにそれはまともな軍隊ではなかった。
「んん。まあやるけどなぁ」
アゼルは疲れた目をしていた。
鼻からは出血のあとがある。砦の周囲には焼け焦げた死体が無数に転がっている。蛋白質の焼ける特有のにおいがあちらこちらで砦の中の兵士を嘔吐させていた。すでに何度も、侵略を退けたあとなのだ。なのに敵の数は一向に減る気配がない。
面倒臭いのが嫌いなアゼルは、最初は自身の魔法を行使せずに兵にあれの対処にあたらせた。
けれど、“それ”に対して兵による対処は無意味だったどころか逆効果だった。砦の周りには、見慣れた軍服を着た焼け焦げた死体が転がっている。呑まれて、取り込まれたのだ。
「これ、ツギハギちゃんの魔法やよなぁ。あいつ、生きとったんやなぁ」
……ああ、そうか。だからあの子が。
アゼルは一人でなにかを得心して、別にいまとなってはどうでもいいことだとそのことを放り捨てる。
アゼルは地平線の彼方を見た。アゼルの濃い茶色の瞳が紅色に変わる。途端に、彼女の視界の内側にいた兵隊が、残らず燃え上がった。世界が紅蓮に染まる。一万に近い数があったはずの兵の群れが、ことごとく灰となっていく。「視線と同じ攻撃範囲」を誇る、『炎』の魔法が敵の兵隊を焼き払う。一切を灰燼に帰する地獄の火炎が地平線を焼き尽くしていく。それでもまだ視界の端で、さらに奥から人間が這い出して来るのがかすかに見えた。
アゼルの目の端から血が垂れた。眼球の周りの毛細血管が破裂したのだ。長時間の魔法の行使による疲労が彼女に圧し掛かっている。
休憩を挟みながらとはいえ、一週間近くアゼルはほぼ一人で敵を退け続けていた。
限界が近い。
「いうて、うちが引いたら、キリがもう行くとこないしなぁ」
こわがりな妹の顔を思い出しながら、アゼルは血を拭う。
王の国から逃げ出して、どこか他の場所へ。
アゼルはそれでもいい。自分と炎の魔法ならばどこへだっていける。
でもエ・キリ=ヤグ=ナハルはそうではない。
大陸の東側、いまのシンやユ・メイの元へなど論外だし、南にいるライがどんな人物なのかアゼルはよく知らない。そもそもライのいる翅の国などはそのうちにシンの侵略に逢うことが目に見えている。比較的善良なカイの膝元であるこの王の国がいまのところは一番安全だった。あの臆病でか弱い、愛しいエ・キリのためにアゼルはこの場所を失うわけにはいかない。
「……ねむい」
背後の壁に背をつけて、座り込む。
口を開いてあくびを吐き出す。目を擦る。
喉の奥から血が零れる。目を擦った手が赤く染まる。
「次の来たら起こして」
短く言い、浅い眠りに落ちる。