ギ・リョク 8
フガは洗いざらい、自分のやっていたこと、翅の国で果たしていた役割について吐いた。
彼は軍内部の情報を、商人に扮して翅の国に入っている別の諜報員に渡す役目を負っていた。商人に扮した諜報員がまた別の諜報員を介して草の国へと届ける。フガは数人の諜報員の名前とその所在を明かした。
河の国でフガを捕まえたことは、大きかった。
彼らがギ・リョクの使うネットワークと同じ種類の人間だとすれば、一人が捕まれば芋づる式に捕縛されることを恐れて一斉に姿を消すだろう。フガが河の国への遠征の間に出ている間、彼らはなんの疑いもなく諜報活動を続けていた。
河の国に戻ったギ・リョクは、方々に手を回してそれらの人員を一斉に捕縛した。
ギ・リョクはジ・グモという男に向かって「カ・ジマという男がおまえと一緒に捕まって尋問を受けている。あいつよりも早く吐いたら、おまえだけは助けてやる。あいつが先に吐いたらお前は処刑する」と言った。カ・ジマという男には「ジ・グモという男がおまえと一緒に捕まって尋問を受けている。あいつよりも早く吐いたら、お前だけは助けてやる。あいつが先に吐いたらお前は処刑する」と言った。
結果としては、両方とも口を割った。
このやり方は「囚人のディレンマ」という。
流人の世界で検証がなされた理論で「AとBの二人の罪人がいて、AとBの双方が自白しなかった場合、双方の最も利益が高くなる。Aが自白した場合は、Aは無罪となり、Bの罪が重くなる。Bが自白した場合はBが無罪でAの罪が重くなる。AとBの双方が自白した場合は双方の罪が重くなる」という状態の時、「双方が自白する」結果になるというものだ。
お互いに「自分が自白して、相手が自白しない」という選択がAにとってもBにとっても最も魅力的で、「双方の利益が高くなる、双方が自白しない」という選択は決して得られないのだ。
ギ・リョクは二人の罪人の、その後の接触を断って自分の監視下に置いたものの、二人ともを処刑はしなかった。互いに「自分は自白したが相手は自白しなかった」と思い込ませた。また処刑を思いとどまったギ・リョクに恩を感じるように、身の回りの世話を手配した。
(諜報員を使って誤情報を流してみたいところだが、キ・シガのやつはデータをきちんと集積してるだろうから、あまりにも外れたデータを流したところで欺瞞に気づくんだろうな……)
ギ・リョクはため息をつく。
キ・シガはきっとかなり具体的な翅の国の収益・収穫に関する情報を掴んでいるだろう。“偽の情報”というこの手札を使う時は、慎重になる必要がある。
現状のことを考える。
戦車の増産は軌道に乗った。財政的に破綻しつつある鉄の国に圧力をかけて、事実上の乗っ取りを進めている。壊獣と戦うための戦力が整いつつある。
草の国が翅の国との戦争に舵を切れば、それを受ける用意が少しずつ整っている。
河の国の協力も必要ではあるが。
けれど、それはあくまで侵略に対する備え程度のものだ。ギ・リョクにとってはそれで問題はない。が、ライの目的は「シンを倒す」ことだという。そしてその見込みはまるで立っていない。はっきり言ってしまえば、ギ・リョクは「シンを倒す」ということをまるで現実的ではないと考えていた。大陸の北半分を手にした現在の草の国の収益と、翅の国の収益を比較して数年ののちの推移を思い描く。国力の差は開いていくばかりだ。
尤も草の国の収益については、入ってくる情報から推測したギ・リョクの想像上の数字でしかなく、決して正確な数字ではなかった。特にシエンを放った灯の国は生産力をほぼ失っていて、その回復には長い月日を要した。
この後の十数年の内に、ユウレリア大陸はラ・シン=ジギ=ナハルの手によって制覇される、という未来がギ・リョクには透けて見えてしまっていた。灯の国が敗れて取り込まれたときに、その未来は確定してしまったように思う。
それを止めるには、国力で草の国を上回る他ない。そしてそれを成すならば。
「王の国、取るしかないんだがなぁ」
ライはそれを望まないだろうなと思う。
ったく、あの我儘王子め。
引き延ばすだけならば他の手段でもできるかもしれない。
例えば霧の国を取る。山々の連なる中に作られた霧の国は、天然の要害だという。守るに易く、攻めるに難い。平地の多い、この翅の国とは真逆の地だ。翅の国を捨てて霧の国に籠り続ければ、草の国の軍勢を退け続けることは可能かもしれない。
が、険しい山脈地帯であるがゆえに、霧の国は人口が少なく、田畑が広げられない。生産できる食料の量は抱え込むことのできる兵隊の数に直結する。
翅の国を手放せば、シンを打ち倒すための兵力を得ることは決してできないだろう。それはライの目的からは大きく反している。
(翅の国で効率のいい耕作を行って、草の国を超える国力を作り出す……)
それはおそらくは可能だ、とギ・リョクは思う。
師から教わった彼女の知識と、彼女の無限の資金があれば不可能なことではない。が、技術というのは模倣されてしまう。この世界には特許や著作権などという考え方はない。数年もすればそれらの技術は草の国まで伝播し、同じだけの効率で耕作が進められて、元々の資産・国土の巨大な草の国の収益が勝つようになるだろう。
ギ・リョクは自分に対して失笑した。
「なにが無限の金の力で与した方に勝ちを齎しちまう、だよ。あたしには“国土の広さ”や“人口の差”程度の問題がひっくり返せないんじゃねえか」
椅子の上に体を投げ出して、目を閉じる。
ギ・リョクにできることは「なるべくいい形を作って待って、あっちが転んでくれることを期待する」他にないのだろうか?
自分の力の限界はそんなところだったのだろうか。
様々な手段を考えてみたものの、結局のところ「待つ」こと以外の手段はあまり上手くはいきそうになかった。
ギ・リョクが思いもよらなかった場所から、大陸の勢力は大きく揺れ動くこととなる。
王の国からの使者が翅の国に訪れ、「ニ・ライ=クル=ナハル皇子と翅の国の軍勢の協力を得たい」という内容の書状を渡す。
同じものが草の国のラ・シン=ジギ=ナハルと、河の国のユ・メイ=ラキ=ネイゲルの元にも届いているのだという。
その書状はナ・カイ=クル=ナハルの名で書かれていたが、皇帝印が押されていた。
勅命である。
馬の国からの、侵略が再び王の国を襲っていた。