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死ノ国  作者: 月島 真昼
四章
74/110

ハリグモ=ヤグ 6

 


 ライの左手と左足から白い粉が噴き出す。

「っ……」

 咄嗟に表面を払うが、粉は次から次へと体の中から噴き出してくる。ライの左半身が動かなくなる。「魔法の無力化」の能力を持つ塩の魔法を受けて、魔法によってできている半身が麻痺する。立っていられずにライはその場に蹲る。ユーリーンがライを庇うように立つ。シュウが街中に散らしていた騎兵が集まってくる。草の国の兵達と殺し合う。ユーリーンが敵兵を斬り伏せる。個人技に優れた突撃兵達であるが、シュウによって一か所に纏められて集団で戦うことを余儀なくされている。多対多の戦いでは他の人間が邪魔となって個人技を生かせない。対して河の国の騎兵は他人と連携を取ることを前提とした訓練が施されている。

 正規の訓練がろくに施されていない突撃兵達は力を発揮できない。

「どけ」

 馬の上からハリグモ=ヤグが短く言った。

 邪魔な兵を押し退けて前に出る。眠たげにさえ見える表情で左右を見る。ゆっくりと軍馬を進める。騎兵が左右から同時に襲い掛かった。両側から同時に槍を突きこむ。ハリグモの偃月刀がぐるりと旋回した。「あ……、え……?」腕が落ちた。握られていた槍がからんからんと音を立てる。逆側で兵の顔の上半分がずるりとずれて、べちゃりと地面に張り付いた。脳漿と血をぶちまけて、左右両方の騎兵が死ぬ。

 ハリグモは小さく息を吸い込んだ。

「おおおおおおっ!」

 雄たけびを上げる。敵意と殺意を声に乗せてそれだけで、敵兵の身を竦ませる。味方の身を奮い立たせる。軍馬の尻を打つ。真っすぐに敵陣の中に駆け込んでいく。偃月刀を振るい、邪魔な兵士を斬り飛ばす。彼らなどハリグモの眼中になかった。指揮を執るシュウのことすらどうでもよかった。

 ハリグモの視線の先にいるのは、たった一人。

「ユーリーン=アスナイっっ!!!」

 鬼神の表情を浮かべたハリグモが、ユーリーンに襲い掛かる。

 ユーリーンは背中の弓を取った。神速の動作で矢をつがえ、放つ。矢は真っすぐに飛び、ハリグモの駆る軍馬の額を見事に射抜いた。軍馬はぐらりと揺れて、そのまま叩きつけられるように横転した。ハリグモが馬を捨てる。自前の両足で大地を踏みしめ、駆ける。

 ユーリーンは弓を背中に戻して、シュウにライの身体を押し付けた。

「連れて下がれ」

 鋭く言う。受け取ったシュウが頷いて、馬を借りて下がる。『塩』の魔法の効果領域を離脱すると、ライの腕と足から零れ続けていた白い粉が止まった。それでもまだライの左半身は動かない。

「大丈夫ですか」

「だめ。戻って」

「できません、僕だって武力に長けているわけじゃないし、あなたの魔法は無効化されるのでしょう。我々ではユーリーンさんの役に立てません」

「戻ってよ。でないと、」

 ライは泣きそうな顔でシュウに右手だけで縋りつく。

「ユーリーンが死んじゃう」



 なぜ自分はユーリーンに固執するのだろう? とハリグモは少しだけ考えてみる。

 ハリグモは一度ユーリーンと戦い、勝っている。自分を超える技量を認めたものの、別に元よりハリグモとて自分が最強だと思っていたわけではない。テン・ルイの背中に及ばないことを渋々と認めたし、魔法を操る輩とはそもそも戦いの規則からして違うように感じるい。広い大陸を探せば自分の能力を超える輩にもいつか出会うのだろうと思っていた。

 そんななかでユーリーン=アスナイにだけはこれまでと違ったものを感じていた。

 それがなんなのか。

(……ああ、惚れた女に腕っぷしで劣るというのは、どうにも認めがたいことだな)

 ハリグモは鬼神の笑みを浮かべる。狂気に身を染める。

 以前、殺意を封じた“試合”ではハリグモが勝った。だがユーリーンの本領は、武を競うことではなく、単に「相手を殺す」ことにある。殺意が解禁された戦いでユーリーンに勝てるのかどうかが、ハリグモにはわからなかった。

 ハリグモは立ち止まり、浅く、ゆっくりと呼吸する。

 心と意、意と気、気と力、手と足、肘と膝、肩と股。

 内意三合と外意三合をすり合わせる。心意六合。必要な脱力と必要な緊張を自然に行う。深く集中する。水底のような深い意識の底に辿り着くと、同じ場所に長身の女が立っていることがわかった。それは髪を束ねて後ろで纏めている。剣を抜いて自分を待ち構えている。彼女にも、ハリグモが同じ場所に立ったことがわかったようだった。

 鬼神と死神が視線を交わす。

 おそらく見える景色は少し違っているのだろう。

 彼女の目には自分がどう映っているのだろうか。

「はじめよう」

 周りの喧騒など聞こえてもいないような、ともすれば優しく、甘くさえ響く声だった。

 ハリグモは偃月刀を引いて八相に構えた。

「もう戻れないのか」

 ユーリーンが尋ねた。

 ハリグモはただ微笑んだ。

 ユーリーンは少し躊躇った。ほんの少しだけ彼女の表情が泣きだしそうに歪んだ。それをかき消すようにして、ユーリーンはぱちんと指を鳴らした。指が震えていて、うまく音が鳴り切らなかった。それでもユーリーンの表情は窪み、神経が研ぎ澄まされてハリグモへと向かう。彼女のすべての能力がハリグモを殺すためだけに用意される。


 余談ではあるが、彼女の使うこの技の名前は『隔世』と言う。

 流人達の世界で、主にスポーツの分野で「ゾーンに入る」という言葉が使われることがある。深く集中した際に、周りの音が消えて自分の限界に近いパフォーマンスを引き出せることがある。こうした状態の時に野球の打者が「ボールが止まって見えた」、バスケットボールの選手等が「コートを上から見ている」と表現することがある。

 ユーリーンは指を鳴らす音を引き金にして意図的に「ゾーンに入る」ことができる。

 時間を止めることができる。

 戦場を俯瞰的に見ることができる。

 人々に死を与える神が彼女の元へ降りてくる。


 ユーリーンの世界から色が消える。不必要な情報がすべて遮断され、必要な情報だけが意識の中に入ってくる。

 ハリグモが地面を蹴って襲い掛かった。

 ユーリーンがハリグモに背を向けて全力でその場から遁走した。

「!」

 意表を突かれながらも。その背中を追いかける。ユーリーンは跳躍すると二階のある建物のひさしを掴んで体を跳ね上げる。さらに跳んで屋根に登る。上方からハリグモに短剣を投げる。ハリグモが偃月刀を振って、短剣を弾く。体重の大きいハリグモには、あの身軽さはない。同じ手段で屋根の上には登れない。登ろうとしたところで投剣と弓で撃ち落されるだろう。見上げながらユーリーンと並走する。ユーリーンは屋根の上を地面と変わらないように走り、跳んで次の屋根に移る。

 ハリグモは少し落胆した。

(正面からの会敵では敵わないと見たか)

 あきらかにユーリーンは近接戦闘を避けている。

 そのまま逃げ続けても、体力ではハリグモに分がある。弓と投剣に注意を払いつつ、ユーリーンが疲労するまで追い込めばいいだけだ。そのうち屋根の切れ目が来る。通路を挟んでの反対までは十メルトル以上の距離がある。人間の跳躍力では足りない。軽く跳んだユーリーンの姿がハリグモと逆側の通りへと消える。飛び降りたのだ。

 追いつける、と判断してハリグモは加速し、角を曲がった。そこへ。

 ——上からユーリーンが降ってきた。

 ハリグモの真後ろに。先ほどは屋根の上で跳んで、しゃがみこんだだけ。飛び降りた、と見せかけただけで実際はまだ屋根の上にいたのだ。

「!」

 ハリグモが咄嗟に体を捻る。急所を切り裂くはずだったユーリーンの剣の一撃は肩から背中にかけてを浅く切り裂く。内心でユーリーンが舌打ちする。もう一撃と考えたところへ、ハリグモが不安定な体勢で振り回した偃月刀が訪れる。ユーリーンは壁を蹴って、三角飛びの要領でその斬撃を跳び越えた。ハリグモの偃月刀が木造の家壁を叩く。壁面に大きな傷を作る。ぐしゃ。内部で何かがへしゃげる感触がした。深く入った刃が柱を傷つけたのか、家そのものが大きな音と埃を立てて崩壊した。

 老いたジュゾとは違う。

 肉体の盛りを迎えた若い勇者の全力。

 ユーリーンが納刀し、また逃げ出そうとして背中を見せる。が、脚力そのものはハリグモが上。一歩でその背中に追いつく。疾走のために邪魔にならないように上段に構えた偃月刀を、ユーリーンに振り下ろす。降ってくる死に対して、ユーリーンは立ち止まった。むしろ背中を預けるようにハリグモに向けて一歩近づいた。刃の間合いよりも更に内側に立ち、両足で強く踏ん張る。偃月刀の柄がユーリーンの右肩を砕いた。

 同時にユーリーンは両手で偃月刀の柄を刃の裏、峰に部分を両手でつかんだ。肩に偃月刀が触れた瞬間に全体重を峰にかける。ユーリーンの肩を支点にして、梃子の原理が働いて、ハリグモの分厚い手から偃月刀が跳ね上がる。ユーリーンが偃月刀の柄を掴みなおす。


 変則の、無刀取り。


 背を向けた体勢のユーリーンが奪い取った偃月刀を構えて駒のように小さく回転。

 回転の終点には偃月刀の長大な刃。致死の間合い。その必殺の一撃に――ハリグモの肘が割り込んだ。終点が訪れるよりも早く、硬い肘がユーリーンの額を打つ。ユーリーンの細い体が撥ね飛ばされる。偃月刀を渡さないように握り締める。ユーリーンはすぐに体勢を立て直す。

 軽い脳震盪を起こしていて、集中が解けかかっている。

 景色に色がつく。倒壊して骨を晒した家屋。その奥で怯えている若い女と子供。街路。続く街並み。自分と相対するハリグモの姿。視界が開く。

 ユーリーンにはハリグモが一瞬戸惑ったような表情を浮かべたのが読み込めた。もし集中が解けていなければ、戦闘に関係のないその情報は遮断されていただろう。見落とされていただろう。

 元よりハリグモは、武器を握っているときとそうでないときの落差が非常に大きかった。

 だからハリグモは武器を手放した時、その空白の中で一瞬だけ考えてしまった。

(なぜ俺はここにいる? ユ・メイ=ラキ=ネイゲルを殺すため。誰のために殺す? シン王のために? なぜ俺はロクトウ様のために動いていない? ロクトウ様が死んだからだ。誰が殺した? シン王だ。なぜそのシン王に付き従っている? …… 俺は誰に命じられてここに来たのだ? —————)

 ハリグモが腰から剣を抜く。

 ユーリーンを見据える。

 唇が独りでに「ココノビさまのおおせのままに」と呟いていた。

「っ……」

 ユーリーンにもその呟きが聞こえてしまった。あきらかに自失していたハリグモの表情が、その言葉を元に巻き戻っていく。

 この男は自分の意思でこの場に立っているのではない。おそらくはなんらかの魔法による支配を受けている。……その魔法さえ解くことができれば、元のハリグモに戻れるのではないか? 一瞬、そんなことを思ってしまう。重たい偃月刀を手放す。ユーリーンの手には合わない武器だ。ハリグモが剣を手に間合いを詰めてくる。

 ――本当にこの男を殺してしまっていいのか?

 ハリグモがまだわずかに混乱しているのがわかる。その混乱は技の精度を落とす。いまならば、毒龍の技をもってすれば殺せる。

 殺したく、なかった。

 ユーリーンはハリグモをよく知っている。この男の笑い方を知っている。不機嫌な時の様子を知っている。得物がなければ突然弱気になるのを知っている。自分が、そんなハリグモ=ヤグに多少なりとも好意を抱いているのを知っている。そんな男を殺したときに自分がどうなるのかわからなかった。彼が夢にやってくるのだろうか? 自分の肉を掴み、引き裂き、食らい、嘲笑うのか? 死ね死ね死ねと、自分たちと同じ屍になれと責め立てるのか? 自分はそれに耐えられるのだろうか? 見知らぬ誰かならばともかく、自分と言葉を交わして信頼を置いていたハリグモがユーリーンを責めるのを、平気な振りをすることができるのか? ユーリーンにはわからなかった。

 もしもハリグモが本当に敵意と殺意を持ってユーリーンとライを殺そうとしているのならば、ユーリーンはこうも悩まなかっただろう。だけどハリグモは、魔法の力によって支配されているだけなのだ。別にユーリーンやライを憎く思っているわけではない。まだやり直せるのではないか。ユーリーンは迷う。

 わかっているのは、ハリグモを止める(ころす)ことができるのはユーリーンだけで、ユーリーンの背後にはライがいることだけだ。

 ここでハリグモを止められなければ、自分の背後にいるライが、死ぬ。殺される。

「おまえも、」

 ユーリーンは、選んだ。

 自分がより大事に思うものを。

 自分自身よりも大事に思うものを。

「おまえもわたしのなかに、こい」

 もう一度、すべてを振り払うように、ぱちんと指を鳴らした。

 世界のすべてがもう一度一新する。色の無い死の世界がユーリーンを取り囲む。そこにユーリーンは死の神として君臨する。死の神と対等の力を持っていたはずの鬼神が目の前にいる。鬼神の仮面が外れて、かすかに人の顔が覗いていた。——殺せる。ユーリーンはにいと笑った。人間の笑い方ではなかった。例えるなら、虫が捕食対象を見るときの顔つきに近い。無機質な笑みだった。

 ユーリーンの意識のすべてがハリグモを殺すために向かう。肩の痛みが消え去る。右腕は上がらなかったが、別に問題はない。ハリグモが横薙ぎに繰り出した斬撃が、限界まで上体を逸らしたユーリーンの顔の真上を滑る。背骨をほとんど九十度の角度にまで倒す。ユーリーンがつま先を振り上げる。ハリグモの顎の先を、靴に仕込んだ鉄板が揺さぶる。上体を引き起こすのと同時に反動を使って踵を振り下ろす。ハリグモの額を打ち据える。鬼神の仮面が砕ける。片足で立つユーリーンに向けて、ハリグモが足払いを繰り出す。ユーリーンは片足で軽やかに跳躍してその足払いを躱す。ハリグモの剣を握っていない方の手、左手に飛びついて、掴み、そのままくるりと体を回した。べきべき。筋肉に包まれた太い肩関節がねじ切られて破壊される。

 着地した直後にユーリーンが一歩、後ろに下がる。旋回してきたハリグモの剣が前髪を掠める。剣を振るった直後の、体が流れて隙を晒したハリグモの腹に、大腿部の巻いた布から引き抜いた短剣を投げる。突き刺さり、流血。

 痛みが却って、まだ動揺していたハリグモを冷静にした。

 ハリグモは剣を構え直す。

「……たまに、どうでもよくなってこないか」

 ユーリーンは答えなかった。

 集中の極致にいるユーリーンには不要な情報と判断されたその声が不明瞭にしか聞こえていなかった。

「誰のために戦うだとか。どうしてだとか。何のためだとか」

 美丈夫の顔がくしゃりと歪む。

 笑っているのだとユーリーンはやはり気づかない。

「ああ、楽しいな」

 ハリグモが踏み込む。

(これまでよりも速い)

 鬼神の面は砕けたはずなのに。

 縦薙ぎの斬撃をユーリーンが半身になって躱す。ユーリーンの左手が短剣を握る。隙を晒したハリグモの腹に捻じ込もうとして、途中で止めて自分の腹を守る。神速の反射で反応したハリグモが蹴りを繰り出してユーリーンの腕の上から腹を叩く。ユーリーンは自分から足を浮かせて、蹴りの威力に任せて吹き飛んで距離を取る。

 頭の片隅で少し考える。

 ユーリーンの強さは戦闘の技術もあるがなによりも「反応の速さ」に起因している。

 人間が物事に対して行動を起こすには「認知」→「思考」→「行動」の3つの行程がある。反復した練習、訓練によって「思考」はほとんど省くことができる。反射で行動できるようになる。思考を省いた「認知」→「行動」までの人間の反射神経の限界はおよそ0,2秒だという。

 ユーリーンは「認知」の速度がけた外れに速い。実際にはブレが起こり0,2秒よりも多くかかるこの反射速度を、ユーリーンは一律で0,2秒で行うことができる。また「認知」が速ければ、それに対応する行動の選択にも余裕ができる。

 この差が他の人間との「時間軸の違い」を生んでいる。

 これが筋力や体重で劣る女性の身でありながら、ユーリーン=アスナイが男性の武人達と拮抗し、あるいは凌駕する強さの根源だ。

 けれど、いまのハリグモは。

(人間の身のままで私の時間に割り込んでくる……)

 自分以上の膂力を持ち、自分と同じ時間の世界を持つ。

 “所詮、女の技だな”、というハリグモの哄笑が蘇る。

(生半可な技では倒せ(ころせ)ないか)

 ユーリーンは剣を抜いた。だらりと掲げて指先で摘まむようにして持つ。


 心の技の奥義、隔世と対を成す、体の技の奥義。

 『無拍』


 死神が鎌を振り上げる。


 ハリグモが突っ込んでくる。

 ユーリーンの手の中で振られた剣の柄が縦に1回転する。

 ペン回しという遊びがある。指の動きや手の甲でペンを弄び、くるくると回転させてどれだけあざやかに魅せられるか、という遊びだ。それと似たような動きで、ユーリーンは剣の柄を手の中で弄んで、刃を回転させる。

 幻惑するような刃の動きを、しかし同じ時間軸の世界に立つハリグモはしっかりと見据えて、——前蹴りを叩き込まれた。肺から息が漏れる。

「っ……」

 指先で弄ばれた刃が降ってくるのを、剣で防ごうと身構えて、再びの蹴撃。咄嗟に腕を挟んで堪える。

 たん、と足音が鳴る。蹴りを警戒したハリグモの上から、ユーリーンが飾り紐に指を引っ掛けて、振られた遠心力で刃が降ってくる。ハリグモは体を引くが、腕を掠めて浅く出血する。たまらずハリグモが逃げる。ユーリーンが追う。

 ユーリーンの手元で遊ぶように縦横無尽に刃が踊る。

『隔世』は極限の集中力によって「自分の反応速度を人間の限界まで引き上げる」技だ。

 対して『無拍』は「相手の反応速度を零にまで引き下げる」技だ。

 仕掛けは単純だ。遊ぶように手の中で振られた刃が相手の意識を引き付ける。

 たん、と足音などで蹴りを意識させる。

 相手が斬撃に反応すれば蹴りを。蹴りに反応すれば斬撃を放つ。

(予備動作と実際の攻撃に一貫性がない……)

 こんな技はありえない。と、ハリグモは思う。

 蹴りの動作に入っているのに斬撃が飛んでくる。

 斬撃の動作に入っているのに蹴りが飛んでくる。

 その秘訣が、あの”握られていない剣”だ。腕の動きに少し遅れて剣が飛んでくる。その時間差を利用して予備動作のズレを作ることを可能にしている。斬撃を指先で途中で引き戻して止めることができる。

 そしてあの幻惑するような、戦闘の最中に遊ぶような刃の動き。本来はこんな斬撃は刃筋が立たないし、強い斬撃を放つことができない。緊張が少しでもあればこんな真似はできないし、不安定な姿勢になる蹴りを主体とする体術との組み合わせという前提がそもそもハリグモの常識からすればありえない。(勿論、肩が砕けていて右手が使えないだけで、もしも使えたならば短剣による攻撃も交えていたが)

 なによりごく単純に「剣を取り落とす」可能性が高い。

 少なくとも人間の技ではない。『毒龍』の技。死ノ神の技。

 ユーリーンが足刀を地面に打ち付けた。

 縦薙ぎの斬撃がハリグモに襲い掛かる。ハリグモがしっかりと握られていないその剣を、自分の剣で払い除けようとする。斬撃の途中で、ユーリーンの剣がするりと「逃げた」。ユーリーンが途中で指の動きで剣を引き戻したのだ。ぐるりと一回転して逆方向の下から掬いあげるような斬撃が襲い掛かる。ユーリーンはやはり剣を握っていない、引き戻して飾り紐に指を引っ掻けて遠心力でただ“振った”だけだ。

(体重が乗っていない斬撃は軍服の厚い繊維を通らない……!)

 回避は間に合わない、あえて受けて反撃、とハリグモは判断する。

 ユーリーンの足が動いた。斬撃の途中の刃の裏に蹴りが合流した。

 蹴り上げられて勢いを得た刃が分厚い布地を引き裂く。

 ハリグモの腰から入った刃が肋骨と肺を切り裂いて駆けあがる。

 ユーリーンがそのまま蹴った足を振り上げた。踵落とし。

 踵の底から突き出た暗器が、ハリグモの首の横を貫いた。錐に似た形状のその切っ先が心臓に届いたのが、ユーリーンにははっきりとわかった。

「ひひ」

 思わず声が漏れた。ユーリーンは嗤っていた。踵を引き抜くとハリグモの首から血が噴出する。

 愉しかった。ハリグモほどの達人を自分の技が圧倒することが。ユーリーンは自分の技に得意になっていた。なんてことだろう。殺すのが嫌だなんて取り繕ってみても、一皮剥けばこうなのだ。自分はあのころと、殺人を楽しんでいたころとなにも変わっていないのだ。

 嫌だ、と思う。けれど声は止まらなかった。

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」

 気づけば可笑しくて涙まで零れてきた。

 愉しくて愉しくて仕方がなかった。血を噴き出してハリグモ=ヤグが倒れている。自分が殺したからだ。死神の技が、人間の武の極みを上回ったのだ。勝利の高揚がユーリーンを満たす。

「ははは、うぐ、うおええええ」

 ユーリーンは胃液を吐き出した。見苦しく咳をする。吐くものがなにもなくなっても嘔吐は止まらなかった。酸素が足りなくて唇が紫色になって苦しむ。膝をつく。

 色のない世界に君臨する死神が、ユーリーンから抜け落ちる。

「あうぅぅ、うぐぅぅぅ」

 全身がわけもわからずに震えだす。

 ハリグモの身体が目の前で血を失って、冷えて行く。

 冷たい死体へと変わっていく。

「はりぐも…………」

 名前を、呼んだ。

 そうすれば答えてくれる気がして。

 自分が殺したという事実が消える気がして。

 わかっている。ユーリーンには悲しむ資格さえない。彼女は選んだのだ。大切なものと大切なものを天秤にかけて、その掲げた方を。軽かった方を。ライの命とハリグモの命を秤にかけて、ライの方を選んだのだ。大切なものを手放して、より大切に思うものを選んだのだ。

 ユーリーンが泣き崩れる。

「……なんだ、俺を殺した女が、無様だな」

 ハリグモが死に向かいつつある体を、無理矢理起こした。

 これはいけない、と思う。痛みと苦痛に歪んだ顔をどうにか整える。おまえが最後に覚える俺の顔はそうじゃない。

 ハリグモは優雅な笑みを浮かべた。

 それから手を伸ばしてユーリーンの頭を抱え込み、そっと唇をあわせた。

 最後に残った息吹をその唇に吹き込む。

 ユーリーンはぴくりと体を震わせて少し戸惑ったあとで、それを受け入れた。


 やさしい笑みをうかべたままで、ハリグモ=ヤグが死んだ。



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