ユ・メイ=ラキ=ネイゲル 8
ユ・メイが雷河に到着してから、シンの軍勢はうんともすんとも言わなくなった。
まるでこれまでの戦いがこの河にユ・メイをおびき寄せることが目的だったと言わんばかりに。
そうして夜になってからユ・メイは誰かが自分に内密に多くの小船に荷を載せて出て行くところを見つけた。おそらく、あれはガクだろう。
ユ・メイは一瞬激昂しかけたが、なぜかその感情はすぐに冷めてしまった。
別に行かせてやればいいのではないか、と思う。だってシュウはガクのやりたいようにやらせろと言っていた。元よりユ・メイのような粗暴な者にガクが愛想を尽かしたとしてもなんら不思議ではないのだ。むしろよく持った方だろう。ユ・メイは自分が王の真似事なんざしていた方がちゃんちゃらおかしいことだと思う。
(これが終われば俺は退いてシュウの野郎を王様にした方がうまく回るんじゃねえのか?)
いつになく気弱になったユ・メイはそんなことを考える。
もしもそれを持ちかけたらシュウは受け入れるだろうか?
「おかしら、今ならまだ追いかけられますぜ」
河賊の一人が言う。
物資を乗せた小船がたくさん夜闇に乗じてシンの陣営へと向かっていく。
「ほっとけ」
ユ・メイはそっけなく返した。
身から出た錆だ。甘んじて受け入れよう。そう思う。
ぼんやりと対岸を見ていたユ・メイに向かって歩いてくる男がいた。
振り返ってその顔を見て、ユ・メイは怪訝な顔をする。
それは老年の男だった。いつもの朝服ではなく軍服を着ている。深い皺の刻まれた顔を微かに顰めて両手をついて、ユ・メイの元へ跪いた。
「おまえ」
「献策がございまする。夜襲の準備をお進めくだされ」
「……ガク」
なぜおまえがここにいる? と声には出せなかった。
ユ・メイはシンの陣営に向けて進んでいった小船を遠く見る。ガクはあれに乗っていなかった? ではあれはなんだ? その小船達はシンの陣地に達し、その奥地に分け入っていく。こちらからではすでに遠く、暗闇の中ではどうなっているのかわからない。が、そのうちに、パッと明るい光を放った。枯草と油をいっぱいに敷き詰めた木造の船が一斉に燃え上がった。周囲の船に火が伝播する。じわりじわりと炎が登っていき、風に煽られて帆に火がつき、帆柱が燃え上がる。大型の船がいくつも火だるまになる。
「私が屈して降伏を願い出ると思い込んだやつばらは、愚かにも我らの火船を懐深くまで受け入れました。いまこそあの火に乗じて敵の軍勢を打ち破り、あの傲慢で不遜なラ・シン=ジギ=ナハルに目に物を見せてやるのです」
「おまえ、俺でいいのか?」
ユ・メイは思わず尋ねた。
「なにをおっしゃられる。河の国の王が貴女の他にいるとでも?」
「シュウのやつが、王になったほうが、」
「あれは人をよく用いるものではありますが、よく率いるものではありません」
「……」
「いまこそ我らを率い、思い上がったシンの軍勢に鉄槌を」
「はっ」
ユ・メイは自分の中にあった澱んだ空気を吐き出した。湿り気のある雷河の、水の匂いのする空気を吸い込む。酒焼けしたひび割れた声で「起きろ野郎共! シンの野郎をぶち殺すぞ!」と叫んだ。かしらの声に河賊達が飛び出してくる。
船の準備はガクの指示で既になされている。
水の魔法の力で帆を畳んだまま河の国の軍船が進む。
炎の中で混乱するシンの陣地にユ・メイが切り込んでいく。混乱していてまともに陣形の組めていないシンの兵士達を斬り殺す。
対岸に築いたシンの陣地に乗り込んでいく。火をつけて散々に荒らしまわる。兵士を殺す。とても敵わないと見た草の国の兵達が逃げ惑う。ユ・メイがそれを追撃する。
そうして兵達が逃げた先に。
ローゲンの率いる騎兵隊、そして幾度となく激戦を経験した草の国の古強者たちがユ・メイを待ち受けていた。
タンガンが立ち並び、サンロウが隙間を埋める。
――シンが陸戦を挑むことのできる場所はもう一つ残っていた。
――それは、雷河の北側の大地、いままさにこの場所だ。
シュウがもしこの場にいれば、シンという人は実によくユ・メイのことをわかっていると感心しただろう。ユ・メイはシンの有する船を焼き払い水兵達を殺した。これによって当面の間、シンの軍勢は雷河を越えて河の国へと侵攻することができないだろう。けれどユ・メイはそれに飽き足らず、激情に任せて逃亡する兵の追撃を試みた。シンはそこを狙い撃ったのだ。
「はっ」
回りくどい真似をしやがって。
ユ・メイは口の中で呟く。まだ河からは近い。
水の魔法はその性能を十全に発揮できる環境にある。
“人狼”ローゲンと彼女の率いる騎兵隊が吼え声を挙げてユ・メイに襲い掛かった。
ユ・メイと水龍、そして河賊達がそれを迎撃する。