テン・ルイ 1
夜になり、休息を挟んだ。朝方になってまた軍馬を走らせる。そのうち緩衝地帯を越え、草の国側の関所に到達した。それは関所と呼ぶにはあまりにもみずぼらしいものだった。兵士の詰め所と、その気になればすぐに倒せそうな柵が二重に設けてあるだけだ。おそらくはいずれ壊すつもりなのだろう。戦のために兵士を灯の国に向けて渡すために。だからわざわざ壊しやすく作ってあるのだ。舐められている。ハリグモは小さく舌打ちした。辛うじて作られた門の部分に兵が立っている。傍らには一頭のタンガンが示威するように控えていた。
「我はハリグモ=ヤグ。灯の国より、使者として参った。門を開けられたし」
「伺っております。開門」
門とも呼べないような門が開き、ハリグモとその一団を受け入れていく。ゆっくりと進み、彼らが草の国に入る。馬車の中でジギの男たちが下品な笑い声をあげた。草の国の内に入り、自分たちの安全を確信したのだろう。あまりに五月蠅かったので、やつらが脱走でも企てたことにして皆殺しにして、ラ・シンには彼らの死体を引き渡すのはどうだろうか、とハリグモはまじめに考えた。ラ・シンが彼らのようなものを重視しているとは到底思えなかったし、国内に入った今となってはハリグモにとっても彼らは役割を終えている。
不意に彼らが静まった。振り返ると、馬車の小窓に泥が張り付いていた。車輪か近くの馬が跳ね上げたのだろうか。「ひいっ!?」くぐもった怯えの声が馬車の中でこだましている。タンガンの首を削ぎ、彼らの仲間を殺した泥の魔法の恐怖が彼らを縛りつけた。「?」“泥の魔法”を知らないハリグモには事情がわからなかったが、とりあえず静かになったことを喜んだ。
門の先には、上物の着物を着ている、がたいのいい禿頭の中年男が十名ほどの兵団と数匹の狼に似た獣を率いている。ハリグモを待ち受けていた。馬を降りている。ハリグモの一団、それからライやユーリーンの乗った馬車を見渡す。丁寧に礼をする。
ハリグモも自分の一団を静止させて、馬を降りた。同じように礼を返す。
「テン・ルイと申します。シン王の使いの者です。シン王の元まで案内いたします」
「ハリグモという。ありがたい。任せる」
テン・ルイと名乗った男の先導に従って、草の国に広がる平原地帯を進む。狼が彼らに並走する。サンロウと呼ばれる壊獣だ。馬に匹敵する機動力を持つ代わりに攻撃力や耐久力はそう高くない。タンガンと違い、武装した人間ならば十分に対抗できる。数が揃えば厄介な程度だ。この場にいるのは数匹程度なので、数合わせとして連れてきただけだろう。
草の国の本国までは長い平原と、たまに田畑が広がっている程度だった。見るべきものはなにもなく、ハリグモは退屈を持て余す。あまりに退屈だったので、ハリグモはテン・ルイを殺そうとした。もちろん現実にではなく、想像の中で、だ。
ハリグモは退屈なときに、よく相手を殺そうとする。テン・ルイの背中に狙いを定めた。想像する。
背中の偃月刀を引き抜いたハリグモが逆の手で鞭を取り馬の尻を叩いた。大きな軍馬が速度上げてテン・ルイを目掛けて疾走する。ハリグモの手が鞭を捨て、両手で偃月刀を握る。異変を感じて振り返ったテン・ルイが背中の槍をとった。
(遅い)
テン・ルイが槍を構えるよりもハリグモの一撃の方が速かった。水平に振られた偃月刀の刃がテン・ルイを捉える。咄嗟に斜めに差し出された槍の柄が偃月刀の刃の上をギギギと鈍い音を立てて滑った。柄の上にテン・ルイが身を躍らせた。曲芸じみた動きで柄の上に乗り、偃月刀の刃を飛び越える。鐙の紐を刃が引きちぎった。馬の首を吹き飛ばす。噴水のように血が噴き出す。テン・ルイが落馬する。ハリグモは手綱を引いて体重をかけて馬を操る。旋回してもう一度襲い掛かる。馬上にいるハリグモからすれば下方に位置するテン・ルイに向け、偃月刀を突き出しながら突進する。テン・ルイが槍を投げた。馬の喉を目掛けて投槍が飛ぶ。
「!」
ハリグモが右に大きく体重をかける。彼の軍馬が体勢を崩した。代わりに槍は馬の首を掠めただけで済む。体勢を立て直す。その隙にテン・ルイは兵団の中に逃げ込む。舌打ちしたハリグモが兵団を蹴散らす。だがテン・ルイは兵の一人から馬を奪って、この場を離れる。みるみるうちに追撃が不可能な距離へと離れていく。
(失敗した)
別の方法を想像する。例えば友好を装って彼の馬体に並ぼうとする。斜め後方。テン・ルイの死角から偃月刀を抜く。背後から切り殺そうとする。しかしテン・ルイはわずかに馬体を右に寄せた。並ぼうとしたハリグモのために左を空けたのだ。同時に武器の間合いを避けた。偃月刀の刃が空振る。すぐさま反応したテン・ルイが槍を抜いて、重い偃月刀を振るったあとのハリグモの胸を突いた。体を捻って心臓は避けたが、ハリグモが落馬する。傷口から槍が引き抜かれ、すさまじい量の血が噴き出す。息を吸おうとして、逆にせき込む。吐血する。肺に損傷を受けていた。ハリグモに向けて槍の一撃が降ってきた。今度こそ穂先が正確に心臓を捉え、ハリグモは死んだ。
(失敗した)
別の方法を想像する。
だがやはり失敗する。違う想像をする。ハリグモは幾通りもの、思いつく限りのやり方を試す。しかしどんな手を用いてもテン・ルイを殺すことができない。
(おいおい、なんだこいつは)
ハリグモは自分の想像の精度にそれなりの自信を持っていた。
彼はロクトウの配下として、北方の山間に住む異民族と幾度となく争いを繰り広げ、それを尽く打ち破ってきた勇者だ。ハリグモの想像は高い確率で現実の物となった。彼が殺せると判断すればその相手は実際に血だるまになって沈んでいたし、この相手は難敵だと感じればその戦いは敗色の濃い激戦となった。ハリグモは自分の武力を信頼していた。訓練と実戦を重ね、昇華させた武の技は大抵の相手に通じるものだと思っていた。
しかしハリグモが何度やってもテン・ルイは死なない。ハリグモはテン・ルイの背後をとっていて、一方的に奇襲をかけられる状態だ。だというのに、テン・ルイはそれを掻い潜り、逃げおおせる。状況によっては反撃を繰り出し、互角の勝負に持ち込む。あるいはハリグモを殺してみせる。ハリグモは自分の自尊心が大きく傷つけられるのを感じた。躍起になってテン・ルイを殺そうとする。瞳の中に獰猛な殺意が灯る。テン・ルイの分厚い背中を無意識的に睨みつける。
不意にテン・ルイが振り返った。
「そう剣呑な殺気を飛ばさんでくれますかな。私はもう若くないのです」
「……まいったな」
ハリグモは頬を掻いた。どうやら完敗らしい。
目を閉じて額を揉み解す。殺気を収める。
「失礼した。以後気をつける」
テン・ルイは微笑んで正面に向き戻った。
ハリグモは自身に与えられたラ・シンの暗殺の任務が容易には成功しないことを悟る。少なくとも、このテン・ルイが傍にいる限り、それは現実のものにはならないだろう。どんな手を使おうが先手を打たれて食い止められる。となれば、先にこれをなんとかしなければならないわけだが、単純な手段ではうまくいきそうにない。
(勘弁してくれよ。俺は頭がよくないぞ?)
兵法などの知識は通り一遍叩きこんである。
しかし敵を騙し、欺き、計略にかけて殺す手段などからきしだった。
ロクトウが、そういった適性のないハリグモを暗殺者として選んだのは、ハリグモの愚直に敵を殺害してその場で果てることを是とするような直線的な強さを見込んでのことだ。ハリグモの養父が犯した失態に対する政治的な処罰だとかそういう意味合いもあったようだが、それはハリグモにとってはどうでもよかった。
ハリグモはただラ・シンの存在が気に入らなかった。散発的にジギ族と壊獣と刺客を繰り出し、灯の国の人民を脅かし続ける。ロクトウの頭を踏みつけるような外交策をとってくる。舐められている。侮られるのも軽蔑されるのも別に構わないが、舐められるのだけは我慢ならなかった。殺してやれるならまたとない好機だと考えた。
ことはそう簡単には運ばないらしい。
そうこうしているうちに草の国の都市に入る。田園地帯の広がる美しい街だった。田畑の手入れの合間に、民が壊獣の世話をしているのを見つける。サンロウの毛並みを整えていた。他方ではタンガンが畑を耕していた。ジギ族の生活は壊獣と密着している。
(末端に回すほど壊獣の数に余裕があるのか?)
ハリグモはそう考えたが、実態は逆であった。普段は農民に与えて農業等を壊獣に手伝わせ、有事の際には軍が民から借り上げる形をとっている。それがわからないハリグモは壊獣の数を実際よりも多く見積もり、草の国との戦いは相当に厳しいものになるのだろうと予測する。壊獣を生み出す源泉、「喰の魔法」を使うラ・シンの暗殺という任務の重さを実感する。
草の国の本国まではまだ長い距離があったため、馬の脚を休ませ、疲労を取るためにこの街で一夜を過ごすこととなった。夕暮れの前に客舎に案内され、馬車を止める。馬を繋ぐ。
ユーリーンが馬車の扉を開けた。ライの手を借りて馬車を降りる。
ハリグモと話していたテン・ルイがユーリーンを見た。ユーリーンもテン・ルイに視線を返す。
「お久しぶりです。叔父上」
ユーリーンは複雑な面持ちで口を開いた。テン・ルイはただ「ああ」とだけ言い、顔を逸らす。
「彼もアスナイなの?」
ライがユーリーンの袖を引いて尋ねた。
「いいえ、叔父は家名を捨てました。アスナイの後継は私だけです」
なるほど強いわけだ、とハリグモは得心した。噂に聞く「覇王の懐刀」、アスナイの血族は宮廷暗殺家と恐れられていた。彼らは幼少から地獄のような戦闘訓練を行い、あらゆる殺しの技術を身に着ける。その過程で大抵の子供は死に至り、生き残ったものだけがアスナイの名を継ぐ。『毒龍』の異名を取る、大陸有数の武門の一族。
「では、兵舎はご自由にお使い下さい」
テン・ルイが言い、部下や壊獣を引き連れて、去っていく。
「……疲れたな。寝るか」
ハリグモは早々に胸甲を外した。
「貴様らも今日は休め」
部下に命じて、指揮官用の部屋に引っ込む。
ライとユーリーンも自分たちに与えられた部屋に入る。二人で一室。兵舎だけあって、簡素な寝台の他には何もない部屋だった。
「叔父さんと話さなくていいの?」
ライが訊ねる。ユーリーンは少し考えてから「いまさらなにも話すようなことはない」と言った。
「ラ・シンは世を乱す奸物だ。それを擁立する叔父は、擁護できない」
「そうかな?」
ライは小首を傾げた。
「ここに来るまでに草の国を少しだけ見たけど、みんなのびのびした顔をしてたよね。僕ら、軍隊に怯えた様子もなかった。きっとシンは自国の軍隊をよく統制しているんだ。そして害獣や山賊の類を壊獣によって排除してる。農民達はそういったものの不安なく、仕事に専念できるんだろうね。草の国は税も軽いそうだし」
「……ライ?」
「覇王の子達の中でまともに治世をやってるのは、実はレン皇帝とシンだけなんだよね」
そして覇王の跡を継いだ皇帝ガ・レン=アズ=ナハルは決して評判のいい人物ではない。物の道理を弁えた善良な人物ではあるが、不正を働く文官を一掃する手管には欠け、暴走する軍隊と己の兄弟達を律する能力に欠けていた。もちろんライは王都に入って実際にレン王の手腕を目撃したわけではない。ライが伝え聞くのはあくまで風に乗って流れる噂に過ぎない。それでも。
「僕らの中で一番よくやってるのはきっとシンなんだろうな」
「……」
「まあせっかく会えるんだから、いろんなことを考えるのはあったあとでも遅くないよねきっと」
ライは早々に寝床に潜り込んだ。欠伸を一つ吐き、「おやすみ」と言う。毛布の中に潜りこむ。ユーリーンも扉に鍵が掛かることをしっかりと確かめ、念のためにつかえを差し込んでから床についた。ライはラ・シンのことを気に掛けていたが、ユーリーンには蒼旗賊の方が気になった。五国に跨る大規模な農民の離反。十万にも及ぶと言われているその総力はどれほどの力を持つのか。またその力は、どこに、どのように決着を望むのか。
不意の頭痛がユーリーンを襲った。わき腹の鈍い痛みも続いている。馬車が揺れた際の負傷を引きずっている。ユーリーンは息を吐き、目を閉じた。疲労からすとんと眠りに落ちる。