ユーリーン=アスナイ 5
数日して、渡谷が服毒自殺した。
手回し式の発電機にコードを継ぎ足したスマートフォンの充電機と、簡単な遺書が残されていた。遺書の内容は世界に混乱をもたらしたことを詫びること、話に出てきた流人に充電器を渡して欲しいという内容が書かれていた。
ギ・リョクがつまらなさそうにがりがりと頭を掻いた。
鉄の国との交渉は概ねギ・リョクの思惑通りに進んだ。
捕虜や押収した資材を返還することの交換材料に、翅の国は鉄の国の南部領土を手に入れた。良質な鉄鉱の産地、戦車の生産工場。翅の国は壊獣に対抗できるだけの陸戦戦力を獲得した。
ただし自走式戦車の設計図だけは手に入らなかった。各部の部品が分散されて別の工場で作られていたし、ほとんど渡谷の指示による手作り(オーダーメイド)で細部の再現は誰にもできなかった。
それから積まれていた88ミリ戦車砲の仕組みについてもわからなかった。
同じ流人であるハクタクならば、と思い彼にも声がかかったが、ハクタクは「俺が手を出していいもんじゃねえ。ファック」とだけ言って、そのまま口を噤んだ。毒を飲んで死んだ渡谷の意思を汲んだのだろう。
「あの渡谷って野郎、もしかしてわざとあの砲塔を一発で壊れるように作ったんじゃねえか」
ギ・リョクがぽつりと呟いた。
鹵獲されたときに、再現されないように。
そして彼自身がその設計図と共に命を絶ったことで、自走式戦車の再現への道は途絶えてしまった。技術が埋もれてしまったことに、ギ・リョクは歯を噛んで悔しがった。
戦車などはどうでもよかった。あいつの脳の中には他にもきっと誰もが驚くようなおもしろくてたまらない宝物の設計図が山のように眠っていたはずなのに。渡谷はそれを実現する力さえも持っていたというのに、どうして戦車などというつまらないものを作ろうと思ったのか。ギ・リョクには残念でならなかった。
あいつが現れたのが鉄の国でなかったならば。
自分のところに現れてその発想を実現するだけの資金を求めてきたならば。
いいや、机上の空論に過ぎないのだろう。
だって渡谷はギ・リョクのことが「前の世界の上司に似ていて嫌いだ」と言っていた。どんな窮地に陥っていても、それこそ死んでもギ・リョクに頼ることをしなかったかもしれない。
ギ・リョクは「前の世界の上司」とやらをひどく恨んだ。
キ・ヒコがギ・リョクの元を訪ねてきた。
「自死ということに疑いはないのだね?」
「……遺書の筆跡鑑定をやった。間違いない。なにが言いたい?」
「虜囚の身である渡谷氏が、服毒死できるような強い毒を手に入れることが可能だろうか?」
ギ・リョクは唇に指をあてて少し考えた。
「内通者がいて、翅の国に利を齎す可能性のある渡谷を廃する手伝いをした?」
「蒼旗賊に紛れて国内に入ったのだろうな。割り出すのは容易ではあるまいな」
充電器を受け取ったハクタクは、さっそくそれをスマートフォンに繋ぎ、ハンドルをぐるぐると回して電気を発生させた。スマートフォンのランプが灯る。少しずつだがバッテリーに電力が溜まっていく。しばらく格闘したあとに、ハクタクはスマートフォンの電源をいれた。画面に光が灯る。もちろんこんな世界ではネットに繋がるはずもない。通信衛星が浮かんでいるはずもない。電話やメール。ホームページへのアクセスなどほとんどの機能はマヒしたままだ。電卓やカメラ機能、メモなどの役割でしか使えない。あとはダウンロード済みの動画を見たり、音楽が聴けるくらいだ。
それでもハクタクは、元いた世界の音楽が聴けることを喜んだ。
小躍りさえした。
診察の合間にはいつも音楽を聴いて、気を紛らわせた。
そうして音楽を聴いている最中に、ライがやってきた。
「邪魔してごめん、ちょっと診て欲しいんだ」
ライは自分の左手をハクタクに見せた。
「痛む場所は」
「関節の付け根が少し」
ライは肩と腿の付け根に触れた。
ハクタクがライの手を取って指先から順に触れていく。
「ファック。筋肉と骨の感触じゃないな。なんだこれ」
ハクタクは皮膚の向こうにある妙な感触にすぐに気づいた。
「ほとんど無意識に泥の魔法で作ったんだ」
ライは砲撃によって自分の左半身がばらばらに吹き飛ばされたことを話した。千切れた腕と足。際限なく流れ出る血。思い出すと心の底からぞっとする。ハクタクは肩の付け根を診る。「どこから吹っ飛んだ」ライは肩甲骨のあたりを指した。骨が見えていたからよく覚えている。
「二の腕のはじめのあたりまでじゃないのか」
「え?」
正確に思い出そうとしたけど、やはり「肩の付け根が千切れていた」はずなのでもう少し根元に近かったはずだ。
「触った感触では、肩はきちんと骨と筋肉で覆われてる」
言われてみれば肩に触れているハクタクの手の感触があることに気づく。
「えっと、治ってるってこと?」
ハクタクが頷き、「ファック」と言った。
「それって普通の人間だと」
「勿論ありえない。人体には損傷を治癒しようとする機能はあるが、欠損部位はそのままだ。人間の体に本来そんな機能はない。逆に聞きたいが、魔法使いってのはみんなそうなのか?」
ライはユ・メイのことを考えた。『水』の魔法を使う百戦錬磨の猛者。全身に傷を負っていて、過去の損傷が元で化膿した左の乳房を切除している。
「ちがうとおもう」
ハクタクはしばらくライの腕を伸ばしたり縮めたり捻ったり揉み解したり脈をとったりしていた。
「触られてる感覚は?」
「ない」
ハクタクはライの手を抓った。反応を伺ってライの顔を見る。
ライは首を振る。別に痛くなかった。
ハクタクはもうしばらくライの手を触っていたがそのうち匙を投げた。
「俺様じゃ力になれん」
「そっか、そうだよね」
「一先ず不便はないのか」
こくりと頷く。普通の腕や足となんら変わらず機能している。
それから他の部位を診る。聴診器を胸にあてる。喉を見る。ライを寝かせて左足に触れる。やはり左足にも左手のときと同じように、筋肉のものではない奇妙な感触がある。
他にこれといった不調は見当たらなかった。ただ疲労があっただけだ。
「定期的に俺様に診せにこい」
「できることがないんじゃ?」
「ファック。左手と左足についてはそうだ。だが人体ってのは連動してる。一か所の不調が他の場所にも不調を引き起こすなんてのはざらなことだ。診せにこい。それに問題がなければ問題がないということがわかる」
「そっか。うん、診てくれてありがとう」
寝台から起き上がったライは最後に「ここに来たの、内緒にしといて欲しい」と言った。
「俺様は患者のプライバシーをぶちまけるようなクレイジーな医者じゃないつもりだ、が、嬢ちゃんには言っとかなくていいのか?」
「ユーリーンには一番言ってほしくないかな」
だって過剰に心配するのが目に見えている。
足と腕が吹っ飛んだなんて聞いたら卒倒するだろうし、そのときライの傍にいなかった自分を責めるだろう。いたところでどうにかなったとは思えないし、ライからすればむしろユーリーンが巻き込まれなくてよかったのだけれど。
それに最近ユーリーンもなにやらなにやら悩んでいるように見える。
しばらくしてハクタクはギ・リョクに呼び出されて出て行った。
渡谷の検死をしてくれ、と言われてハクタクは露骨に嫌な顔をして「ファック」と言った。
ユーリーンは悪夢を見ていた。
おまえがころした。
おまえがおれたちを殺した。
なぜいきのこっている。
しね、しね、しね。
しねしねしねしねしねしねしねしねしねしね。
しねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしねしね。
無数の手がユーリーンに伸びる。
彼女を地獄へと引きずり込もうとする。
着物の裾が掴まれる。ユーリーンは暗い虚の中へと落ちて行く。
殺戮の腕が彼女の全身を掴む。引きちぎる。死者達はユーリーンの肉をうまそうに食らう。四肢を千切られて身動きの取れなくなったユーリーンの口の中に腕を突っ込んで胃を掻きまわす。耳元に悲鳴が刷り込まれる。
「ひい、ぁ、ぁうぁぁ」
ユーリーンは目を覚ました。
自分を抱くようにして震えている。震えは収まらない。
最近はずっとこうだ。
殺しすぎたのだ。やむを得なかった。あれは戦争だったのだ。命を奪わなければユーリーン自身が殺されていた。だから殺さざるを得なかった。ユーリーンは言い訳を思いついたけれど同時にそれが言い訳でしかないことを知っていた。理屈を並べてもこの手が奪った命の重さは変わらない。その重さは彼女を寝台に縛り付けた。荒い息を吐く。
平静を装わなければならない。でなければライを守れない。
眠るのが怖かった。
こんこんこん。扉が短く叩かれる。
ユーリーンは震えの残る手で鍵を外す。朝食を持ってきたフガが立っている。
「最近、朝食べてらっしゃらないでしょう?」
あかるい笑顔で言う。
「あ、ああ」
ユーリーンは粥と茶の乗せられた銀盆を受け取ろうとして、その指先が震えていることをフガに見咎められる。
「魘されてましたよね?」
いま渡したところで取り落としそうなのを見て取って、フガは机の上に銀盆を置く。
「もしも俺に話せることがあれば、話してほしいです」
ユーリーンは黙って首を振る。
寝台の上に座り込んで膝に額をつける。
「傍にいることくらいは許してくださいますか」
ユーリーンは返事をしなかった。
フガは机の端を借りて、なにやら書き物を始めた。
鉄の国との戦争は終わる。
それぞれの体や胸の内に見える傷と見えない傷を残す。