ユーリーン=アスナイ 4
鉄の国の側から少数の兵隊達が平原を歩いてくる。戦車の行軍のために障害の有無を判断する、先遣隊だ。ユーリーンと彼女の率いる部隊が草の色と同化した衣服を着て、顔や肌を若草色に塗って背の高い草の中に潜んでいた。鉄の国の兵はユーリーン達に気づかずに通り過ぎていく。
(仕掛けないのですか)
フガという元蒼旗賊の若い男が声を落としてユーリーンに尋ねた。
(黙っていろ。気取られる)
フガが頷く。
(……キ・ヒコが騎兵で追い立てる手筈になっている。我々はそれを待って、挟撃する)
フガがユーリーンの端正な顔を見る。
(こういう時でなければいくらでも訊け。可能な限り答えてやる)
やがて、銅鑼が打ち鳴らされた。キ・ヒコの率いる騎兵隊が鉄の国の兵を追い立てる。元々偵察を任務とする敵兵は一目散に逃げだす。
「行くぞ」
伏せていたユーリーンが立ち上がる。ユーリーンが剣を抜いて先頭を走る。敵を強襲する。フガは敵兵が突然現れたように見えるユーリーン達の姿を見て動揺しているのを見てとる。喉笛を切り裂くのは容易なことだった。それにしても。
本来ユーリーンほどの技量を持つ人間にとって、敵味方の入り乱れる乱戦は変数が多くて不慮の事故が起こりやすく、避けるべき事柄だ。けれどこの人は、ユーリーン=アスナイは刃が乱れ飛ぶ乱戦の中でそれらすべてを見切っているかのように立ち回る。フガは、ユーリーンが味方に押されて体勢を崩した兵が倒れ込んでくるのをあざやかにかわすのを見た。それどころか、そうして空いた空間に迫ってきた敵兵に向けて剣を伸ばし、その喉を貫くのを見た。ユーリーンはなにごともなかったかのように次の兵隊に向かう。
彼女は時を止めることができるのだ。
そう言われたってフガは信じただろう。
武器を捨てて投降した敵を捕虜として捕える。どうにか隙を見つけ出して数人が逃げていく。戦いはおおむね完了する。
ユーリーンが背中から弓を取った。矢をつがえ、弦を引く。遠く離れていく背中に狙いをつける。矢が放たれた。吸い込まれるようにして、その矢が背中側から心臓を射抜いた。倒れる。
続けざまに四本の矢が放たれ、すべて敵の急所を捉えた。とさりと倒れるのが、辛うじて見える。ユーリーンは敵の先遣を殲滅してみせた。情報を持ち帰ることすら許さなかった。
フガは勝鬨をあげて兵の士気を高揚させる。
ユーリーンが冷めた目で死体を見つめている。その手が小さく震えていることを見つける。
(この人はいったいどういう人なのだろう?)
フガは疑問に思う。
死神のように立ち振る舞い、一切の敵を寄せ付けない凄絶な技量を持ちながら、いま彼女を怯えさせているものはなんなのだろう? なぜこの人は女性の身でこうまでの戦うすべを身につけようとしたのだろう? なぜ決して勝利の高揚に酔うことをしないのだろう?
悲しんでいるように見えるユーリーンの横顔を、フガは美しいと思った。
ユーリーンは投降した兵から衣服を剥ぎ取った。自分は若草色に塗った顔から塗料を落とし、敵の衣服を着こむ。
横列に展開した戦車が大地を揺るがす。車輪の回るぎりぎりという嫌な音を立てて、四角い鉄の塊が進撃してくる。
ライは遠い地平線の向こうにそれを見る。
「……考えてたよりずっと数が多いや」
ぽつりと呟く。
おおよそにして五百ほどだろうか。
ギ・リョクが得ていた蒼旗族との騒乱の中で用いた戦果から、さらに増産を急いだのだろう。もしかしたらこののちの、シンとの決戦を見据えていたのかもしれない。ライは仙莱山で出会った戦車の強度を思い出す。ライの前では車輪を泥に取られて沈んでいったが、あれは本来壊獣にも対抗できる戦力だと思う。
「そうだねえ。なかなかに難しい戦いになりそうだ」
ライの独り言に、キ・ヒコが答えた。
ライはぎょっとして身を固める。咄嗟にユーリーンの姿を探してしまう。けれど、彼女はいま単独で行動している。ライの傍にはいない。それからギ・リョクはもちろん戦線には出ていない。いまライの傍には誰もいない。
そそくさと逃げ出そうとするのを、キ・ヒコの大きな手が捕まえた。
「待ちたまえ。私とて、あんなものを相手にするのははじめてだ。経験者にもう少し話を聞いておきたい」
……逃げ出したいのをどうにか踏みとどまる。
「無論、そんなのはきみと話したかっただけの口実だがね」
もうやだ、この人っ!
ライは泣き叫びそうになった。
「たかだか落とし穴二つであれが防ぎきれると思うかね?」
「……できないと思う」
きっと戦車の数はユーリーンの見立てを上回っている。そもそもユーリーン自身も、三つ目の落とし穴を掘るつもりでいた。それには時間が足りなかったけれど。
「彼女は彼女で立ち回るつもりのようだ。つまりあれの対処は」首で戦車を指す。「きみと私の働きにかかっている」
「うん」
「ところが私にはあれに対する具体的な想像がいま一つできないのだよ。そこで訊きたいのだが、きみならどうするかね?」
「魔法以外でってこと?」
キ・ヒコが頷く。
「……燃やす」
少し考えてライが言った。
「あの鉄の塊が容易に燃えるとは思えないが」
「仙莱山でユーリーンが鹵獲したのをギ・リョクが解体して調べてみたんだ。外装甲はともかく、中まで全部が鉄で出来ているわけじゃない。木組みの部分もかなりの割合であった。それに、外側は無事でも中の人間まで炎の温度に耐えられるわけじゃない」
「なるほど、藁と油を用意させよう。ユーリーン氏にも仕掛けの場所を伝えておく」
それからふと「ユーリーン氏はどうやってあれを鹵獲したのだね?」と尋ねた。
「正面から戦ったって」
「……」
キ・ヒコはユーリーンが近くにいるときにライにちょっかいをかけるのはやめたほうがいいかもしれないと思う。膝の負傷で前線から下げられたいまのキ・ヒコでは、ユーリーンに捻り潰されかねない。
戦車がやってきた。
キ・ヒコは最初、歩兵を出してそれの相手をさせた。無論のこと、この時代の通常兵器は戦車にまるで通用しない。装甲の表面に微かな傷をつけただけだ。そして返し場に放たれた戦車の内部に据えられた弓矢は、内部から突き出せるようになっている槍は、歩兵達を的確に殺していく。屍が積み上がる。
銅鑼が打ち鳴らされ、歩兵達に退却が指示される。気をよくした戦車兵はそれを追撃しようとする。ライが地面に触れる。「まだだ」キ・ヒコが言う。ライは焦れる。戦車が落とし穴の上を通過していく。一定の数、二十両ほどが落とし穴の上を越えた。落とし穴の上を多くの戦車がいままさに通過している。「いまだ」キ・ヒコが言う。ライが泥の魔法を使う。土が脆くなる。突然、戦車の重量に耐え切れなくなって、奈落が口を開ける。おおよそ百五十ほどの戦車がその奈落へと吸い込まれていった。がしゃんと金属のへしゃげる音。
それを合図にまだ銅鑼が打ち鳴らされる。大盾を掲げた歩兵達が前進する。弓矢が盾によって無力化される。いかに戦車が強大であっても、取り残されたたった二十両程度に千人の軍隊と相対する力はない。兵達は犠牲を出しながらも戦車に取りつく。数に任せて牽引する馬を殺し、潜望鏡を壊して視界を奪う。開閉口を抉じ開けて、中の兵を引きずりだす。
戦車の武装に頼ったその内部の兵達はほとんど丸腰だった。降伏を叫ぶ彼らを私刑に等しい暴力が襲う。泣き叫ぶのを、容赦なく打ちのめしていく。殺す。
「……止めないと」
ライが駆けだそうとしたのを、キ・ヒコが掴んで引き留めた。
「あれは正しくない」
ライはキ・ヒコを見上げる。
「だが仲間を殺された兵には、捌け口が必要だろう?」
キ・ヒコは彼らの暴力を肯定した。
「戦争などというものは、はじめから間違っているのだよ。きみの正しさはここでは意味を持たない」
東部戦線で地獄を見てきた男の虚ろな目が、ライを縛り付ける。ライはどうしていいかわからずに、ただキ・ヒコと兵達とを交互に見る。そうしてライは、いつか自分だって報復のための残酷な方法で彼らを殺したことを思い出して、俯いてしまった。
それからこれからライのやることの方がずっと残酷ではないかと、少しの間、思い悩む。
しばらくして奈落の底に落ちた戦車の救出作業がはじまる。重量のある戦車はそう簡単に引き上げることはできなかったが、中に乗っている兵は比較的簡単に助け出せる。負傷しているものを助けるために随分多くの兵が梯子を掛けたり、直接奈落に降りたり、その周囲で作業をしていた。
ライは奈落の中に、掘り出して圧縮していた土砂の塊を落として解凍した。土砂が狭い範囲をすさまじい勢いで膨張していく。「泥」の魔法がそれを助長する。土石流となって奈落の中をすさまじい勢いで下っていく。
誰もが茫然とそれを見ていた。あまりにも急に起こったので逃げ出すこともままならなかった。悲鳴があがった。
少なく見積もっても一千人以上の人間が泥に呑まれた。そして少なくともその半数が土に埋もれて死んでいった。
その土砂の中から誰かが「助けてくれ」と叫んだ。女の声だった。勇敢な鉄の国の兵が、半ばまで土砂に埋まったその女を救い出す。
「ありがとう。すまない」
鉄の国の軍服を着て、泥まみれになっているユーリーン=アスナイが、その兵士に救い出されて鉄の国の陣地に潜り込む。
土砂に埋まった人間の救出作業を、キ・ヒコが弓矢を射かけて妨害し続ける。
友釣りという手法なのだ、とキ・ヒコは言っていた。敵を殺しきらずに負傷させるに留める。そうすると負傷したものを救出のために力を使おうとする、それを狙い撃つ。「戦死者」ではなく「負傷者」は水も食料も消費する。戦場においてひどい足手纏いになる。
後方が近ければまだしも、彼らは鉄の国から遠く離れてこちらに遠征に出ている。負傷者を国に返すのも簡単な作業ではない。
ライはキ・ヒコの手管を心のないやり方だと思った。けれど倍する数の敵を前にして、絶大な戦力を誇る戦車と相対して、手段を選んでいる余裕などなかった。
「ユーリーンと組んで先遣を皆殺しにしたのは? あなたの語った構想と反している気がするけれど」
「陥穽の計を万が一にも知られたくなかったからだよ。彼らが情報を持ち帰っていれば、敵もなんらかの違和感を嗅ぎ取ってこれほどあざやかには決まらなかっただろう」
「そっか。そうかも」
「だが彼らもそろそろ生存者の救出を諦める頃合いだろう」
「うん」