キ・シガ 2
「シン王、なにを召し上がっているのですか?」
キ・シガが食卓を見る。シンは普段、食事に気を払わない。兵士達の食べている糧食に毛の生えたもの程度しか食べない。肉を食っていることはまれだ。そのシンが随分と大きな、なにかの腿肉に肉叉を入れていた。牛とも豚とも違うように見える。背後で料理人が顔色を悪くしている。膝の上でココノビが嬉しそうにしている。
こともなげにシンは「人肉だ」と言った。
キ・シガは息を呑んだ。
「壊獣共が旨そうに食っていたからな。一度食ってみたかったのだ」
「お味の方は?」
「別段、美味いものではないな。他の肉と変わらん。いや、雑味が多いな。まずい」
料理人が背後でびくりとする。シンは「おまえを責めているのではない。慣れない食材でよく調理してくれた」振り返って彼を労う。青い顔で料理人が首を振る。
キ・シガは内心でほっとした。
万が一にもシンが「すばらしい味だ。この世界にこれほどの美味が眠っていたとは。これから毎食人肉を食らおう。そうだ、兵の食い物にもこれをあてればいいな! 死体など戦場にいくらでも転がっているのだから。おお! これで兵糧の問題が一挙に解決するぞ!」などと言い出したらどうしようかと、考えていたのだ。
シンがけらけらと笑いながら箸を突き出す。
「キ・シガ、おまえも食ってみるか? まずいぞ」
「遠慮させていただきます」
露骨に嫌な顔をする。
「ところでシン王、あれはなんですか」
キ・シガは下を見る。すり鉢状の大きな部屋がある。吹き抜けになっていて、二階にあたるここから部屋の全貌を見下ろすことができる。砂が敷き詰められている。タンガンが人間を殺していた。血が砂を固めている。すでに数人の死体が転がっている。まだ生きている何人かが、粗末な槍を手にタンガンに挑みかかっていく。
「別に。ただの見世物だ。タンガンを倒せば出してやる手筈になっている」
「悪趣味ですね」
シンはにやりと笑った。
「どうせ死刑囚だ。むしろ助命の道をやっている」
「このごろ都では死刑の罪状が随分と増えましたね? 同性愛。疾病のあるものの妊娠。反逆の企て。異民族同士の許可のない一定規模以上の集会まで。以前に比べれば倍以上も増えていますか」
草の国では昨今それらの人々、同性愛者や疾病のある人間は公然と差別されるようになってきている。
さらにはイナ族の迫害がはじまっている。彼ら、彼女らの赤い肌と水晶の瞳は目立つ。国外に退去しようにも理由をつけて許されない。
それでもシンは大多数に支持を受けている。大半の人はそれら少数に関係がないからだ。自分たちに責が及ばないならば、法を敷いてよく犯罪を取り締まり、税の負担は軽い。軍隊を率いて国をよく守護するシンを王座から追い落とす理由などなかった。シンは大多数の生活を守っている。そして少数を迫害している。
シンが民衆に対して何かを強制したからこうなったわけではないことはキ・シガも理解していた。ココノビの力を使ったわけでもない。ただシンは一言、遠回しにこう言っただけだ。「彼らのことは差別してもいい」、と。そのことを空恐ろしく思う。
「なにが言いたい」
「さて、なにが言いたいのでしょうね?」
「……ああ、そういえば貴様に褒賞を取らせると言ったな」
そんな話がしたいのではないことを、この人はよくわかっているはずだった。
「なにが欲しい? 土地か? 地位か? おまえには随分苦労をかけている。言ってみろ。おまえならば大抵のものはくれてやれる」
キ・シガは失笑した。この人は自分を懐柔しようとしているのだろうか? 以前ならば考えられなかったことだ。失望と同時にこの人を変えてしまったものを、強く睨んだ。キ・シガの視線に気づいたココノビがにやにやと嫌な笑みを浮かべる。
思わず「毒婦め」と言葉が漏れた。
「なんだ、おまえ、ここに来たいのか?」
シンは自分の膝の上を指して、狡猾の滲む嫌な匂いのする声を出した。
キ・シガは首を振った。
かつてのあなたならばともかく、いまのあなたのその場所にどれほどの価値がございましょう?
口をついて出かけた言葉をどうにか飲み込む。言葉に出せばキ・シガは下の見世物場で血まみれになって転がっているだろう。
もしかしたらテン・ルイが生きていれば、いまのシンを諫め、かつての在りようを取り戻すことができたのかもしれない。だけどテン・ルイは殺されてしまっている。たかが外れてしまったのだ。
「お戯れを。わたくしのような醜女にその場所は似合いますまい」
キ・シガは微笑んだ。
シンは虚をつかれた顔をした。
「才知あるものの外見を問うことになんの意味がある?」
自然に尋ねる。
キ・シガは黙る。
「なるほど、女の見目は確かにある種の才の一つだろう。だがお前の知才、貪欲な好奇心と勤勉だけが生み出すその頭脳に比べれば、見目などいささかの価値もあるまい」
ココノビが自分の方へと振り向かせようとシンの頬に触れた。あやすようにシンの手がココノビの黒紫色の髪を撫でる。しかしシンの視線はキ・シガを見たままだ。
「いまからでも望んでみるか?」
手を差し出す。あるいは、それはシンの最後の絶叫だったのかもしれない。ココノビの精神支配から彼自身を救い出してほしいという、願いの手。
キ・シガは迷う。シンの精悍な顔を見る。美しい手を思う。それに抱かれたいと考えたことはたしかにあった。キ・シガは浅ましい欲望だとそれを嘲笑ってきた。自分のような容貌の物には決して手に入らないと思っていた幸福。けれどそれはかつてのシンに対しての話だ。いまのシンをキ・シガは肯定することができなかった。死の色に染まったその手に抱かれることを思うと身の毛がよだった。
そしてなによりも、キ・シガは功に対する報酬としてのシンが欲しくはなかった。親愛の結果としての結びつきながらそれを無上の喜びとしただろう。この人のこころが欲しかった。もしもそれが手に入るならば仮に体が拒絶してもシンに抱かれることができたかもしれない。だがシンのこころは囚われてしまっていた。キ・シガでは決して救い出すことのできない遠い牢獄へと。
キ・シガの動揺をシンは見て取った。聡明なシンはその葛藤をすぐに見抜いた。キ・シガの内心が拒絶に傾いたことも。薄く笑って「すまない、惑わすつもりはなかったのだ。この話はやめよう」と言って、下を見る。
タンガンが倒れされていた。
粗末な槍を掲げた男が興奮と殺気に満ちた目でシンを見上げている。
「大陸は広いな」
ココノビを促して脇へと退けさせる。シンは立ち上がった。男に向けて視線を返す。男は大きく振り被った。手の中の槍をシンに向けて投げつけた。シンは首を傾けて槍をかわした。槍は背後の壁に突き刺さる。かすめたシンの頬からとろりと一筋の血が流れた。
「あれをどうするおつもりで」
「登用する。タンガンを打ち倒すほどの武勇だぞ。用いない理由がない」
「死刑囚ですよ?」
それに今しがたの所業。あれは確か旧灯の国の領土で反逆を目論んだ侠者だ。
いつシンを裏切るか定かではない。
「だからなんだ?」
シンは平然と言った
「善悪などくだらん。叛意があるなら報酬で手懐ける。軍規が守れんなら隔離して扱う。役に立つから使う。それだけの話だ」
シンはのちに突撃兵と名づけられた兵科を作る。死刑囚から登用された者や素行に問題はあるが能力には秀でている者たちを、正規の部隊から外して運用したものだ。
「しかし北方の制圧には時間がかかるだろうな。すぐにでも南方へ目を向けたかったものだが、当面の間かかりきりか」
「シエンを放ったのです。当然でしょう」
民の声は怨嗟に満ちている。そこかしこからシンを呪う声があがっている。
もしも正攻法でロクトウを打ち破ったならば、これほどの拒絶は起こらなかっただろう。
「そうだな」
しばらくの間、シンは北の大地に釘付けにされる。
シンの脅威から一時的に逃れた南方で、大きく兵馬が動いていく。