ラ・シン=ジギ=ナハル 16
シンが再び目を醒ましたとき、すべての事柄がこれまでとは違って見えた。
周囲には死体、死体、死体の山。麻薬成分の過剰吸入によってその場にいることごとくが死んでいた。敵も味方もなかった。巨体を持つタンガンやヤツマタでさえ例外ではなかった。新しい自分にふさわしい光景を前にしてシンは清々しい気分になった。
……なんて素晴らしい世界なのだろう。
死があった。ただ死があった。シンは真っ白な全能感を感じた。死体を踏みつけて、歩く。足音と水の流れる微かな音だけがシンの鼓膜を揺らす。ああ、ここには己に蹂躙されるべき、か弱く美しい世界がある。これまでの自分のなんと愚かだったことだろうか。こんな脆弱なもののためにわざわざ気を使って、敬意を払っていたんのだ。彼らには滅ぼされることくらいしか価値がないというのに。
ここにはすべてがあった。
そしてすべてがなかった。
「起きた?」
ココノビがシンの顔を見上げる。
「ああ、目が醒めたよ」
困ったことに馬がないので、足がなかった。
シンはココノビと手を繋いで徒歩で後方陣地の方へと戻る。砕けた鎖骨が痛んだはずだが痛覚は痛みではなく甘い陶酔を齎した。
そのうち向こうからこちら側へやってくる、小規模な一団が見えた。先頭にいるのは怪我を押して様子を見に来たローゲンで、傍らにはキ・シガがいた。
「シン王! ご無事でしたか」
馬を降りて跪こうとしたローゲンを、制する。
「いい、痛みのないようにしていろ」
キ・シガはシンを見て、なにかひどい違和感を抱く。態度や表情はいつものシンと変わらない。礼節よりも実利を取るのも、らしい点だ。だけどどこか、なにかが違う。そしてそれを見つける。
「シン王、瞳の色が……」
「?」
シンの目は美しい緑色をしていた。それはジギ族の特徴でもある。
命の終わりを告げる枯草色の髪と、命の芽吹きを告げる若草色の瞳。生と死が一人の人間の中で両立しているその様が、キ・シガは好きだった。
だけどいまのシンの瞳は枯草色をしていた。ただいたずらに死を想起させるだけになってしまっていた。
「キ・シガ。ローゲン。永江を境にして防衛線を築け。灯の国を滅ぼす」
キ・シガはシンの腕に体を巻き付けているココノビを見る。
ココノビはご満悦な顔でシンを見上げている。
「シエンを使う」
「シン王……」
「なんだ、キ・シガ。それ以上に有効な策がお前にはあるのか?」
「“これから制圧する土地の価値を零にしてどうするのか”、そうおっしゃられたのはあなただったはずです」
シエンという壊獣の正体を、万を数えるほどの大量の、イナゴに似た虫の群れだと知らないローゲンが小首を傾げている。
軍師であるキ・シガは壊獣の能力のすべてをシンによって伝えられている。「シエンだけは、俺がどんな窮地に陥ったとしても決して用いることはないだろうな」と、かつてシンがそう言っていたことを覚えている。
それをいまのシンは「抵抗が思いのほか頑強でな、面倒くさくなったのだ」さらりと翻した。口元に薄い笑みさえ浮かべて。キ・シガはシンに再考を求めたが、シンは取り合わなかった。
数日して、草の国から紫色の煙のように見えるなにかが灯の国を目指して飛び立っていった。万にも及ぶ虫の姿をした壊獣の群れは、瞬く間に灯の国全土の植物に憑りついた。食らい尽くした。兵糧の備蓄にもいつのまにかシエンが憑りついていて、ことごとく食い尽くされた。また卵を産み、それが孵ってさらに数を増やした。また生まれたシエンの子らがあらゆる植物に食らいついた。
灯の国は一切の植物に由来する食料を失った。飢饉が起こり、戦争どころではなくなった。シンが開戦の前に譲り渡した大量の兵糧ですら、三月もしない間に齧りつくされてすぐに底をついた。草の国は灯の国に続く通商のための陸路をすべて閉ざした。灯の国は飢餓が全土を覆う最悪の地獄と化した。
キ・シガにはシンの所業が信じられなかった。
ラ・シン=ジギ=ナハルという人物は確かに邪悪な性質を持っていた。だけどその邪悪を理性と善性で押し留めることができていた。それでいて必要な時には邪悪を解き放つことができる。キ・シガはシンという人間が好きだった。善と悪の境目にいるシンに敬意を持っていた。
だけどこの人は理性と善性の仮面を脱ぎ捨ててしまった。
生来の知性と邪悪が手を結び、狡猾が姿を見せ始めた。
その変化が、本当にシンの内面で起こったことならまだよかった。青年期には神懸かった明晰さ、聡明さを見せていた人物が、老年期に肉体と精神の老いによってその晰らかさが濁り、聡さを失うのはままあることだ。それがシンの内面で起こったことならばキ・シガは喜んでその変化を受け入れて楽しんだだろう。
だがシンは変えられてしまった。ココノビという外的要因によって。それの発する精神の毒によって。キ・シガにはそれが許せなかった。シンの膝の上でココノビが微笑む。
ほどなくして灯の国は草の国に全面降伏した。
シンは灯の国に怨嗟の声と共に迎えられた。
逆らうものの首を片端から刎ねていった。従うものには食料の施しを与えた。反逆を目論もうにも食料の供給が一切シンに握られてしまったために現実的に不可能だった。ゼタ以上の恐怖によってシンは灯の国を従える。
ロクトウの居城を進む。大きな会議室に文官を集めて今後の課題について議論を進める。長い会議のあとで、新たに登用した文官、グ・ジルが「国号を改められてはいかがですか」と進言した。
彼は灯の国の宰相、グ・エンの息子だ。大柄な特徴のヤグ族らしかぬ細面の男で、宰相だった父が施した高い教育の成果か、優れた知性を備えていた。シンは特に、父を処刑したシンのことを好ましく思っているらしい歪んだ精神構造を気に入っていた。
「いまやシン王は大陸の北半分を統治なされています。草の国と呼ぶにはこの灯の地は似つかわしくありません。そもそも草の国という名には国土が広すぎます。なにかふさわしい名に改められてはいかがですか」
「ふむ、一理あるな」
シンは唇に手を当てて少し考えた。
それから呟くように
「死ノ国」
と、言った。
「え?」
ジルが驚いて訊き返す。
キ・シガが怜悧な視線でシンを見る。
シンはくすりと笑った。
「冗談だ。これまで通り、草の国でよかろう。なにか不便がでればそのときにまた考える」
シンが手を叩いて「疲れた。今日はこれで終わろう。また七日後の同じ時間に」と言い、会議の場が解散する。
シンは一人で謁見の間に向かい、かつてロクトウがいた玉座に腰を下ろす。
灯の国を制圧したことでシンは大陸のおおよそ北半分を手に入れた。この国の民心はシンから離れているが、民の心など所詮移ろうものだ。遺恨はあれど現実的な生活の面倒のためにシンに恭順するのに、そうかからないだろう。のちにそれなりの政治を敷いてやれば彼らも内心を満足させるに違いない。
ロクトウを滅ぼしたことで名実共にシンと草の国は大陸で最強の勢力となった。
しかし、シンは自分が討たれるべき邪悪に堕したことを知っていた。かつて持っていたはずの善性にまったく価値を感じなくなったことを理解していた。そして邪悪が栄えないことも承知していた。簡単なことだ。邪悪であれば、シンが冠を頂くことを望む人間よりも、それを望まない人間の方が多くなる。そのうち誰かが大勢の人間を引き連れて、シンを殺しにやってくる。
シンは目を閉じた。
さぁ、おまえはだれだ。俺を殺しにくるおまえは。
ユ・メイ=ラキ=ネイゲル、豪放磊落な河賊の頭領か?
ゾ・ジュゾ=クル=ラオル、鋼で身を固める鉄血の武神か?
アゼル=ヤグ=ナハル、何者をも焼き尽くすあの焔の女か?
だがシンの脳裏に浮かんのは、それらの実力者のいずれでもなかった。そのことを意外に思う。楽しむ。シンが思い浮かべたのは、あの幼い顔立ちの少年。指を突き付けて「お前のすべてをぶち壊してやる」と宣言したあの敵意の瞳。冷たい怒りと深いかなしみに歪んだ顔つき。
ニ・ライ=クル=ナハル。
「なぁんだ、おまえか」
シンはライの訪れる日を心待ちにする。その刃が自分の胸を貫くことを想像する。
死ノ国の王はくくく、とひどく残忍な笑みを浮かべた。
to be continued
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