ラ・シン=ジギ=ナハル 15
数日ののちに戦いが始まった。
ロクトウの軍勢は水の中に球形の黒い塊を投げ入れた。少しして、どん、と何かが破裂するような音と共に水柱が上がる。魚の群れとゴエイが気絶してぷかぷかと水面に浮かんでくる。火薬を水中で爆発させたのだ。衝撃波が水の中を伝って水中の生物を一挙に襲った。浮袋が壊されて水底に沈んでいるものも多い。効果は絶大だった。
シンがあてにしていた切り札の一つが消え去る。
歩兵達が大きな盾を掲げながら川を渡ってくる。盾の表面に弓矢が突き刺さる。兵士達までその威力を届けない。
シンは騎兵と共にサンロウを繰り出す。渡河中の相手を叩くことができなければ数の多い敵の優位がそのまま戦況に現れる。シンの敗色が濃くなる。
騎兵は敵歩兵の渡河点を散々に叩いた。だが次から次へと押し寄せる人の波を押し留めるには至らない。岸に登る敵歩兵にサンロウが食らいつく。その後ろでタンガンが敵兵を殺す。水を怖がるタンガンを岸辺近くに配置できればもう少しうまい手もあったのかもしれない。
ロクトウの後衛から高い笛の音が鳴った。
(なんだ? なにかの合図か)
シンは敵陣営に動きがあるかどうか目を凝らしたが、動きがあったのは敵陣ではなく自陣の方だった。サンロウ達がふらふらと視線を彷徨わせ、戸惑ったように首を動かす。しきりにあたりを気にする。別の個体は頭を抑えて蹲っている。敵に襲い掛かろうとしない。
ロクトウが用いたのは犬笛だった。人の可聴範囲を大きく超える音を出すことができるように作られた笛だ。人間にとってはそれほどではなくとも、耳のいいサンロウにはとてつもない爆音に聞こえる。音によって混乱しているサンロウを殺して敵歩兵達が岸に登ってくる。
タンガンにまで到達した敵歩兵達は合図と同時にタンガンの大きな瞳に向かって懐の袋を投げつけた。中には灰と唐辛子の粉を混ぜたものが入っている。タンガンは眼球に唐辛子の粉を受けて痛みで目を開けていられなくなる。タンガンが散々に暴れまわるが視界が効いていないので敵味方の判別もついていない。ただ駄々っ子のように腕を振り回しているだけだ。
もっとタンガンの数が多ければこんな方法は通用しなかったかもしれない。別にタンガンを殺せているわけではないし、小一時間もすれば回復するだろう。しかしたかだか七十頭程度のタンガンなど相手にしなければいいだけなのだ。ロクトウの歩兵達がさらに進む。
壊獣が通用しなければ人と人の力のぶつかりあいになる。
そしてロクトウの軍勢はこのときのためにじっと牙を研いできた。
対してシンの軍勢はゼタとの戦いで疲弊していて、ローゲンとテン・ルイを欠いている。
岸辺は敵歩兵で埋め尽くされている。川は渡河中の敵兵で埋め尽くされている。
スゥリーンがシンの手を強く握る。
「ココノビ」
少女の姿をした壊獣がシンの背後から「はぁい」と甘い声で答えた。
「スゥリーンを連れて、キ・シガのところまで下がれ。あいつには俺が敗れたら降伏するように伝えてある」
「私、いかない。シンと、ここ、いる」
スゥリーンがシンを見上げる。
「……ココノビ」
「むぅ。面倒だなぁ」
不満気に唇を尖らせたココノビがスゥリーンの目を覗き込んだ。ココノビの瞳があやしく光る。スゥリーンはぴくりと身を強張らせて、目が焦点を失う。体の力が抜ける。崩れる。気を失う。ココノビがスゥリーンを担ぎ上げる。少女のなりをしていても彼女も壊獣の一種だ。常人以上の筋力を持っている。
「キ・シガのところまで行ったら?」
「待機していろ。俺が敗れればあいつと共に降伏――」
言いかけて、壊獣であるココノビはシンが死ねば『喰』の魔法が解けて崩れ去ることを思い出す。ココノビがあまりにも人間と違わない姿をしているから一瞬、忘れていた。将兵だけでなく自分も随分疲労していることにシンはようやく思い至る。
シンが死んでココノビが軛から解き放たれて、崩れるまでに間に最悪の事態を引き起こすことを考える。一度用いてみて改めて思い知ったが、ココノビの力は使うべきではない。
「いや、待機ではない。俺が敗れれば、おまえは速やかに自死しろ」
シンは命令を下した。
「なんでそんなひどいこと言うかなぁ」
ココノビがぷくーっと頬を膨らませる。
「とりあえずこの子は届けてあげる。そのあとどうするかはそのとき決めるよ」
「……」
「じゃあね」
シンは自分の手を見る。
他の壊獣には通じる『喰』の魔法による命令権がココノビに通じていないことを考える。
雄たけびがあがる。
敵兵がすぐそこまで迫っていて、シンはココノビのことを考える余裕を失う。
敵兵の三分の一ほどが川を渡って岸辺に辿り着いている。敵兵の大部分が渡河中である。手を打たなければならない臨界点にして、用意した手段が最も有効に働く頃合いだ。
「いくぞ、ヤツマタ」
シンは川の上流に向けて呟いた。上流でヤツマタがその巨体を起こす。巨体を持って堰き止めていた水が一挙に流れ出す。下流へと水の暴威が殺到する。
巨大すぎて国境の隘路を超えられず、ゼタとの決戦に用いることができなかった壊獣が目を覚ます。
シンは丘を下る。戦場に向けて歩き出す。
「さて、俺個人の魔法使いとしての力量を試してみようか」
大陸に君臨する英雄たちの凄まじい力を思い浮かべる。
ユ・メイは津波の如き水の力でゼタの軍勢を圧倒した。
ローゲンは数百という騎兵を切り裂いて敵大将への道を切り開いた。
アゼルは数十キロと離れた城壁の上にいた敵兵を一挙に何千と焼き殺した。
レ・ゼタは陣風を操りアゼルの火炎を防ぎ、ユ・メイとローゲンの二人を相手にしてそれを堂々と捻じ伏せてみせた。
彼らと比べて、この身は大陸に君臨するに値するのか。
しばらく遅れてざあざあと鈍い音がやってきた。同時に莫大な量の水が川を下ってくる。鉄砲水だった。元より浅い川だ。水の勢いをまともに受けたロクトウの軍勢が下流に向けて押し流されていく。容量を超えて、川幅が一時的に増す。無事だった敵兵士達も足を取られて満足に動けなくなる。
水と一緒にやってきた巨大な塊が頭を擡げた。川の中央から岸に取り残された敵兵に向かう。
全長は二十メルトルほどだろうか。手足はない。胴体と呼べる部分は複数の縄が絡まって玉のような形をなしている。長い八本の首と、同じ数の長い尾を持っていた。
ヤツマタは城砦と比較してなおあまりある巨躯を持つ、龍だった。
いま現在シンの扱うことのできる最大にして最強の壊獣である。
「きしゅうううううううううう」
狭い隙間を風が通る時のような鳴き声があがる。ヤツマタが太い首を振って兵士に襲い掛かる。鞭のように振るわれた長い首と尾が兵士達を打ち殺す。人間の束が吹き飛ぶ。重量によってべきべきと骨がへし折れる。「うわあああ」がむしゃらに槍を振り回して抵抗しようとするが、まるで意味がなかった。ぬめりのある鱗に弾かれる。ある者の槍はヤツマタを貫いたが、その巨体には槍の一本や二本はまるで無意味だった。むしろ毒を持ったヤツマタの血液を浴びて兵士達がもだえ苦しむ、やがて死に至る。
ヤツマタが口から液体を吐きかけた。あたり一面に広がる。その液体を浴びた兵士達の鎧兜が溶ける。皮膚が溶ける。あちこちで悲鳴があがる。硫酸を主成分とする毒の吐息が人間を灼き殺す。ヤツマタの暴威は圧倒的だった。岸辺に残されたロクトウの軍勢が前からはシンの兵士達に、後ろからはヤツマタに挟まれて叩き潰される。
シンが岸に降りる。
川の向こうから更なるロクトウの軍勢がやってくるのを見届ける。自分の軍勢を振り返る。満身創痍。勝っているうちは忘れていた疲労が、敗色が濃いことを意識して一気に噴き出している。
シンは自分の中に、なにか兵を猛らせる言葉を探した。が、そんな都合のいい言葉は出てこなかった。
壊獣の大半が対処され、兵隊の数で劣っている。まず間違いなくこの戦場を用意したシンの過失だ。そんな自分が何を言えば兵の戦意を高めることができるというのか。ゼタを放置してロクトウを先に叩くべきだと進言したキ・シガの言葉をいまさら思い出す。
シンは辛うじて出てきた言葉を、声を張り上げて言う。
「ついてこい! やれるか」
兵士達に背を見せる。ヤツマタと共に、川を渡ってくる敵兵を見据える。
背中越しに自分の軍勢に少しばかりの闘志が戻ったのを感じる。
「どうした、こんなものか。ラ・シン=ジギ=ナハルはここにいるぞ! 誰か俺を殺せるものはいないのか!」
シンは叫んだ。ヤツマタが一切の敵を薙ぎ払う。
「ガ・エル=ヤグがここにいるぞ!」
敵兵の中から、将校らしき男の澄んだ声が上がった。
槍を携えた若い男が騎兵を率いて突撃してくる。
「ラ・シン=ジギ=ナハル! リ・ナグ=イナがおまえの首を頂く!」
また別の声があがる。士気鷹揚な兵士達がそれに続く。
「マ・ザダ=ヤグがお前を殺す!」
勇敢な将校たちが次々と名乗りを上げ、ヤツマタに挑んでいく。
シンはその光景のあまりの眩しさに目を細めた。
ヤツマタは怪物だ。おおよそ人知を超える力を持っている。毒の吐息を吐き、人間を遥かに凌駕する膂力で薙ぎ払う。タンガンでさえその力の前では赤子に等しい。人間の雑兵など洪水が人家を押し流すように浚い、殺していく。到底敵いようになく見える怪物の中の怪物、バケモノの中のバケモノだ。
それに立ち向かう人間の力の、命の輝きのなんと眩いことか。
幾多の命を犠牲にしてヤツマタが少しずつ殺されていく。その全身に槍が突き立ち、流れ出る血さえも人を殺す。毒の吐息が兵を殺すが、味方の屍を踏み越えた兵士がヤツマタの目を突く。万の兵がシンの元へ押し寄せる。ヤツマタは強大だ。この万の兵のうち、五千か六千は殺すだろう。だがきっとそこで力尽きる。そうなればシンに繰り出せる壊獣はもう残っていない。
思っていたよりも清々しい気分だった。
シンは自分の邪悪が敗北を持って満たされていくのを感じた。元より自分は生まれるべきではなかったのだ。六人の兄弟を殺し、八つの頃に母親の子宮を抉り出して『喰』の魔法を自分のものにした、東部では多くの人間を壊獣の餌にして勢力を広げてきた。シンは始まりから呪われていたのだ。
自分はここで滅ぼされるべき天命にあったのだと思う。
「無論、受け入れる気はないがな」
小さく呟く。見え切った敗北を、敗北するためにシンは戦う。
その目はかつてないほどに輝いている。
——ほんとうにそれでいいの?
舌足らずな少女の声が後ろから聞こえた。
思わず振り返ると、シンの影の中にココノビがぽつんと立っていた。
「シンはほんとにそれでいいの? これからまだやりたいことがたくさんあったんでしょう?」
「構わん。俺は死力を尽くして戦ったのだ。そうして敗れ去るならば、後悔はない」
「ふうん。そうなんだ」
ココノビの瞳があやしく輝いた。
髪の間から狐のそれに似た耳が立ち上がる。
尻から白金色の長い尾が、九本這い出る。
「でもわたしはやだな」
「なにを――」
その尾からヘロイン、コカイン、アンフェタミンなどといった各種麻薬成分がまき散らされた。風に乗って広範囲へと広がっていく。甘い匂いがした。「っ……」シンは口元を抑えてそれを吸い込むのを避ける。
これが、シンが忌み嫌ったココノビの能力だ。各種麻薬成分によって人間の感情を強制的に制御する。あらゆる人間がココノビを妄信する廃人へと作り替えられる。
シンはココノビに向けて右手を強く握り締めた。『喰』の魔法には壊獣を制御する能力がある。ココノビの首が絞めつけられるが、ココノビは自分の首を指で払った。簡単に呪縛が解ける。にいと笑う。醜悪な笑みだった。
「消耗しきったいまのシンに、わたしを止める力はないよ? ね、ヤツマタ」
ほとんど死に体のヤツマタが戦うために広げていた首と尾をシンの身を守るために閉じる。シンの命令よりもココノビの精神支配に従う。
ココノビによって発散された麻薬成分がロクトウの軍勢を、そしてシンの軍勢を飲み込んでいく。
元々戦意を維持するために狂気に近い感情を乗せていた兵士達が、コカインの精神刺激作用にあてられて、近くの別の兵士を殴る。刺す。抑制が取れなくなって味方同士で殺し合いをはじめる。指揮官がそれを抑制しようと叫ぶが、あちこちで広がる混乱にかき消されてその声はどこにも届かない。
「や、めろ」
シンは口元を抑える指の間からなんとか声を絞り出す。ココノビの近くにいるシンが最もその麻薬成分の影響を強く受けている。視界が揺れる。全身を震わせながらココノビに手を伸ばす。ココノビはその手をとって、自分の頬に触れさせた。摺り寄せる。指に舌を這わせる。両手を伸ばして、息も絶え絶えなシンを抱きしめる。自分の匂いをシンの内部へと刷り込んでいく。
「いままで私は、シンに愛されたいと思ってがんばってきたけどさ。よくよく考えたらそんなめんどくさいことをしなくても、私を愛するようにシンの方を変えちゃえばよかったんだ。どうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろ」
シンから生まれ落ちた邪悪が彼自身を飲み込んでいった。
シンは意識を閉じる。
取り返しのつかないなにかが自分の中で砕けていくのを感じる。
南東から北西に向けての強い風が吹く。
それに乗ってココノビの放った麻薬成分はロクトウの陣営の後方にまで到達する。
「撤退いたしましょう」
フェイ・ロフが口元を抑えながら進言する。
「やつの軍勢の大部分は倒しました。このあやしげな霧を脱出して、一度引いて体勢を整えましょう。もう一度挑めば次こそは打ち破ることができるでしょう。いまは引くべきです」
ロクトウはぶるぶると震えていた。
「いまさら、ここまできて、今更退けというのか」
ロクトウの目がフェイ・ロフを睨んだ。その目はすでに正気を保っていなかった。気化した麻薬成分を散々に吸い込んで、目は血走っている。幻覚作用が発している。
「死ねぇ! ラ・シン=ジギ=ナハルぅぅ!」
剣を抜いたロクトウがフェイ・ロフを斬りつけた。咄嗟のことでフェイ・ロフはかわすことも身を守ることもできなかった。首から胸にかけてを斬りつけられたフェイ・ロフが、そのまま失血によって絶命する。
斬りつけたロクトウの方も、麻薬成分による刺激に対して高齢で体調も優れなかったこと、さらに急激な運動があわせって心不全を引き起こしてその場にばったりと倒れて痙攣していた。すぐに誰かが救い出すことができればまだ無事だったかもしれないが、誰も彼も混乱していてそれができる人間はその場に残っていなかった。長らく放置されて、ロクトウがそのまま吐瀉物を喉に詰まらせて死んだ。
軍団を纏め上げる人間は消えて、撤退の命令を下すことさえできずヘロインやコカイン、アンフェタミンといった各種麻薬成分を含んだ死の霧が長くロクトウの軍団を包み込んだ。