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死ノ国  作者: 月島 真昼
二章
50/110

ニ・ライ=クル=ナハル 7

 


 ユーリーンがよろめきながら体を起こす。ライを見て「すまない」と言う。

「心臓止まるかと思ったよ?」

 ライはぺたんとその場に膝をついて座り込んだ。激烈なハリグモの殺気にユーリーンが殺されてしまうのではないかと怖かった。失うのが恐かった。

「……行かせてはならなかった」

 ユーリーンはただ敗北を悔いていた。あれは無為に死んでいい男ではないと思う。

 実際に手をあわせてみてはっきりとわかる。鍛錬と実戦に裏打ちされた肉体と技、自身を半ば狂気に染めることでユーリーンに匹敵する集中力を持つ。ハリグモ=ヤグこそが大陸最強の武力だ。魔法を持たない人間にハリグモを倒すことは決してできないだろう。

 だがそれは一対一ならの話だ。

 シンを取り囲む数の力は、容易に個人の武勇を抹殺する。どれだけハリグモが強くても、所詮、匹夫の勇に過ぎない。数の力に対抗できるのは数の力だけなのだ。無論、そんなことはハリグモにもわかっている。

「つまらねえ奴隷根性だな」

 ギ・リョクが吐き捨てるように言った。ハリグモの忠誠心を嘲笑う。ギ・リョクにとって自分の命よりも大切なものなどありはしない。

「まあそれはそれだ。おいこら、行くぞ」

 ライの手を掴み、強引に立たせようとする。手を引かれてライはなんとか立ち上がる。

 ユーリーンも立ち上がって、背中から土を払った。

「ええと、シ・ジズさんと会談って言ってたっけ」

「ああ。さっさとこい。先方はてめえが帰ってくんのずっと待ってたんだ」

「うん。……あれ?」

「あん?」

「膝が笑ってて歩けない」

 ギ・リョクは屋根のついていない簡素な荷馬車を引っ張ってきてライを荷台に放り込んだ。

「よお、てめえも来るだろ?」

「ああ」

 ユーリーンが歩こうとして、よろける。頭突きを受けた痛みがまだ残っている。

「めんどくせえ」

 ギ・リョクがユーリーンも荷台に放り込んだ。

 自身も乗り込むと「出せ」と言う。御者が馬を走らせる。

 門兵に向かってギ・リョクが「通るぜ。荷物はバカ二人だ」と声をかける。門兵が苦笑しながらギ・リョクを通す。荷馬車は宮殿の前で止まる。ギ・リョクが降りる。そのころにはライの足の震えは収まっていて、ユーリーンもどうにか歩けるようにはなっていた。

 ギ・リョクがずかずかと宮殿に踏み込んでいく。行きなれているのか、ギ・リョクは堂々としているし歩くのが早い。門兵の前で立ち止まる。

「ギ・リョクだ。ニ・ライ=クル=ナハルを連れてきた。通してくれ」

「ジズ王はいま執務の最中です」

「入って“じゃああたしは帰るけどいいのか”、って聞いてこい」

 ライはギ・リョクのことを横暴が服を着て歩いているような人だなと思う。

 問答の末に結局門兵が中に入り、ジズの意向を尋ねに行く。戻ってきて「お通りください」と言う。慌てていたのか、門兵は武器を預かるのを忘れる。ユーリーンはさらりと知らない顔をして剣を腰に帯びたまま中へと入る。

 ライは玉座からこちらを見下ろすジズの顔をよく見る。

 老齢の男だ。嫋やかな微笑みを浮かべている。髪は白くなってほとんど抜け落ちているが、頬にはまだ張りが残っている。歳の頃は七十を超えたあたりだろうか。錦の刺繍の入った豪奢な着物を身につけている。翅の国の豊かさの顕れのように思う。

 護衛の兵隊が何人か隣についている。

 ギ・リョクが跪いた。ユーリーンもそうする。

「ようこそいらっしゃいました。ギ・リョクさん。そしてニ・ライ王子、ユーリーン殿。私は翅の国の王、シ・ジズ=アズ=ケルスです」

「ええと、ニ・ライ=クル=ナハルです。よろしくお願いします」

 跪きはしないが、手をあわせて礼をする。王子として公式の訪問ならば、平の言葉では拙いだろうと思いライは無理をして口調を作る。

「楽にしてください」

 シ・ジズが言い、ギ・リョクとユーリーンが立ち上がる。

「あなたがたの築いているあの小さな街がどういったものなのか、教えて貰えますかな」

「あたしから言うぜ?」

 ギ・リョクがライを見る。ライは頷く。ギ・リョクの方が理解が深いし、ライはうまく説明できないだろう。

 ギ・リョクは挑発的に口端を吊り上げてシ・ジズに向かって「答える義務は無い」と言った。ライの頬が引き攣る。ジズの表情が曇る。

「あたしらのやってることは国際法上なんの問題もない。城壁の中に入れて貰えない流民がコミューン……集落を形成してるだけの話だ。咎められる謂れはないし、そっちの権利をなにも侵害していない」

 もちろんギ・リョクの言っていることは、考えるまでもなく詭弁だった。

 確かに流民が壁外に集落を形成することはよくあることだし、野盗化して治安を乱すのでなければ半ば黙認されている。それが通常の流民であればこの強弁は通ったかもしれないが、ギ・リョクが抱え込んでいるのは蒼旗賊だ。蒼旗賊に対しては皇帝が直々に討伐のための勅命を出している。それを無視して彼らを庇護することは大きな問題だ。

 当然ジズはそのことを問う。

「集まっている流民の素性を考えれば、説明をいただくくらいの余地はあると思うのですが」

「旗掲げてないだろ? 民衆襲ってないだろ? どんな名目であいつらを賊だって断定するんだい?」

 ギ・リョクの言う通り、彼らは外部に向けての問題を起こしていない。ギ・リョクとハリグモの尽力で問題の多くは内部でのごたごたに収まっている。一般的に言うところの人を襲い、荷を奪って生計を立てているような「賊」ではない。

「それに翅の国の警邏隊が武力を行使できるのは街の内部と街道の周辺の治安維持のためだけだろ。軍隊じゃないここの連中には、外での行動権が与えられていない」

 ギ・リョクが付け足す。

 ジズは切り口を変える。

「翅の国は軍隊の不可侵を掲げております。あなたがたは内部での軍の育成を行っているように思いますが、そのことについては?」

 ギ・リョクがまた強弁で相手をねじ伏せようとしたのをライが片手をあげて制した。ギ・リョクに任せていると場がどんどんこじれそうだ。

「それ、僕が言っていい?」

「そうだな、これはてめえが言うべきだろう」

 ギ・リョクがライに場を譲る。

 ふとギ・リョクがわざとやっていたのではないかと思う。自分に対して悪印象を抱かせることで、のちに話すライの印象を相対的によく見せる。

 勿論ライには知る由もないがそれは流人の世界で「友人と敵(マットとジェフ)」と呼ばれているやり方だ。

 ライは小さく息を吸い込む。

「先ず、ごめんなさい。あなたの領地で勝手なことをやってしまって。ギ・リョクが理屈を連ねていたけれど、倫理的におかしいし、やっぱりあなたの気分はよくないと思うし、そもそもひどく礼を失することだったと思います。ニ・ライ=クル=ナハル王子が非礼を詫びます」

「……」

「それから軍隊の教練の話だけれど、ねえ、あなたは翅の国の不可侵が、いつまで守られると思っているのですか?」

「いつ、まで?」

 ジズは考えもしなかったような顔をした。

「ええと、翅の国への不可侵を命じたのは覇王で、それを引き継いだのはレン皇帝です。そしてレン皇帝は亡くなりました。いま皇帝は不在ですし、次の皇帝が不可侵の命令を引き継ぐとは限りません。実際に僕らは、鉄の国の戦車隊が仙莱山に登ってきたのを見ています」

「なん、ですと……?」

「北ではシンとロクトウが争いを始めた。その影響はどこまでも波及していく。もちろんここにもやってくる。いますぐじゃないかもしれない、でもシンは攻めてきます。シンだけじゃない、ジュゾ王や、もしかしたらユ・メイだってこの地に手を伸ばすかもしれない。だって翅の国は各国に通じる通商上の要だから。ここを抑えておくだけで自国にかかる関税が随分違うし、土地が豊かで食糧の心配をしなくてよくなる。他国がシンと戦うためには、ここは抑えておかないといけない土地だ。翅の国の不可侵は必ず誰かによって犯されます。それが誰かはわからないけれど、準備だけはしなければならない。抗戦か降伏か、あなたはどちらを選ぶのですか」

「そ、そのようなこと……」

「抗戦を選ぶんならあたしらは味方につけといた方がいいぜ。現実的に翅の国の国内にはまともな兵力はないだろ」

 ギ・リョクが付け足す。

 ライにはジズが急に十歳は老けたように見えた。翅の国は覇王の庇護によって発展した優れた文化を持つ国だ。食料の輸出と関税によって随分な金を儲けてきたし、その金を学業の発展に回すことができたので優秀な人材を数多持っている。反面、戦から遠ざかって久しい。どこかの国が攻めてきたら一溜りもない。

 もちろんライのような見解を持つ人間だってこの国の内部には随分いたはずだ。けれどそれは実感としてジズを捉えなかった。数ある論派の一つとしか思っていなかった。否、そうとしか思わないようにしていた。美しいこの国が戦火に包まれることを想像したくなかったからだ。居心地のいい玉座を追われることを考えたくなかったからだ。そのうち諫言を述べたものたちはいつまでも対応策を取らないジズに失望し、各国へと流出していった。

 ジズはいまもまた現実から逃げ出そうとしていた。ライやギ・リョクの言葉は戯言に過ぎないと思い込もうとしていた。けれどライは現実に存在している。ジズの目はライに釘付けにされる。

「おまえさえ、おまえさえこなければこの国は戦火になど」

 ジズは震える口で言う。傍らに控える兵を凄まじい形相で振り返る。

 その一瞬でユーリーンがジズに近づいた。別になにか危害を加えたわけではない。本当にただ近づいただけだ。膝を曲げて少しの頭の位置を低くしながら。ジズやその後方にいた兵士達にはユーリーンの動きが察知できなかった。

 人間の目は相手との距離を「大きさ」で見分ける。近ければ大きく、遠ければ小さく見える。だから徐々に頭を低くして見映えの大きさが変えなかったユーリーンがまるで動いていないように見えたのだ。「縮地」という技術だった。

 ユーリーンが剣の柄に手を触れる。

「こちらから暴力を駆使するつもりはないが」

 ジズの耳元で囁く。

「そちらがその気ならば相手になるぞ」

 ジズの口元がおかしな形で固まった。

 ライはどうして自分の周りにはこんな物騒な女性しかいないのかと少し嘆く。

「ユーリーン」

 呼びかけると、ユーリーンは柄から手を離す。怜悧な視線でジズの背後の兵士達を一瞥して、ライの方へ戻ってくる。実戦を経ていない兵士達に対してユーリーンの敵意は強すぎた。彼らはすっかり青褪めている。

「あなたがシンか、あるいは他の王の誰かに恭順してこの地の庇護を願い出るのか、それとも今からでも彼らに対抗することを願うのか、決まったら僕らにもそれだけは教えてください。僕らもそれでここに残るのか、出て行くのか決めますから」

 ジズは返事をしなかった。

 力なく玉座に身を預けている。

 ライは無邪気にジズを信じていたかが、ギ・リョクはきっとジズがそれを伝えてはこないだろうなと思う。ライとジズの意思が反していると知れば、ライが武力を行使してジズの立場を追い落とす可能性を考えるだろうから。

「……帰ろうか」

 三人は謁見の間を出て行く。

「実際あいつが恭順を選んだらどうするんだい?」

「出てくよ。行先は西か東かだけど、西へ行こうかな。東のユ・メイのところだと国内で僕が兵力を集めて育ててシンに対抗するなんて出来っこないと思うから。すぐに潰されて殺されちゃいそう」

「名案があるぜ」

「?」

「ジズを殺してこの国を乗っ取ればいい。ジズに不満を持ってるやつは多いぜ。焚きつけて協力させて、鎮圧の名目で兵を連れて押し入ったら簡単だ」

 ライがギ・リョクをねめつけた。

「ギ・リョク、僕はそういうのがしたいんじゃないんだ」

「ここほど支配者が定まっていなくて地盤の緩い、旗上げに条件のいい土地はないぜ? 実際のところ、きれいごと言ってる場合じゃないと思わないか。もしシンがロクトウに勝ったらあいつは大陸の北半分を手に入れるんだ」

「ギ・リョク」

「わかったよ。もう言わねえ」

 ひらひらと手を振る。

「ったく、なんでこんなめんどくせえことに巻き込まれちまったんだか」

「もしかして飽きて草の国に帰っちゃったりする?」

「まさか。あっちは戦争の真っ最中だぜ。逆にロクトウが勝ったら富裕層の資産は取り上げで、民心を味方につけるためにバラまかれるだろうよ。あたしなんざ格好の的さ」

「なるほど、じゃあしばらくはこっちにいてくれるんだ」

「なんか妙なことがなかったらな」

 ライはふと立ち止まった。ギ・リョクをじっと見つめる。ギ・リョクがその目を見つめ返す。

「あのさ、きちんと僕の味方になってくれるつもりはない?」

「あん?」

「前も同じことを言ったと思うけど、あなたが一緒だと随分心強いと思うんだ」

 ギ・リョクは薄く笑った。

「そんなに金が欲しいのかい?」

「お金?」

「できねえよ。あたしは特定の誰かにはっきり力を貸すわけにはいかねえんだ。協力してやれるのはここまでさ」

「嫌なのはわかったけど、理由はわからないや。どういうこと?」

「なあ。この世界で最も強い力ってなんだと思う?」

「愛情」

 ライは恥ずかしげもなく言った。

「あたしは金だと思う」

「ふうん」

 ライはそうは思わなかった。

「ぶっちゃけあたしの抱えてる資産はこの翅の国なんて目じゃないんだよ。あたしは無限の金の力で与した側に一方的に勝ちを齎しちまう。だからほんとうは誰かに手を貸しちゃいけないのさ。わかるか?」

「わからない」

 ギ・リョクはさみしそうに口元を歪める。

「勘違いすんなよ? おまえのことは好きさ」

「わからない。ねえ、あなたは好きなのにその人に手を貸しちゃいけないの? それって楽しい? 例えば、好きな人が目の前で叩き潰されて粉々になってるのをただ見てるのってどんな気持ちなの? 僕にはわからないよ」

「そういうものにあたしはなっちまったのさ」

「わからないよ? だってギ・リョクはギ・リョクだよ。お金じゃない」

「そんなこと言って、腹の底ではおまえだってあたしの金が目当てなんだろ」

 ライにはギ・リョクがなにかに呪われているように見えた。

 これまでギ・リョクに近づいてくる人間は、それが善い人間であれ悪い人間であれ、彼女の無限の金の力をあてにしてやってきたのだ。ギ・リョクは投資家だ。他人に金を貸して、その中から利子を得ている。彼女がそれを生業として選ばなければ、また違った事情もあったのかもしれない。だけどギ・リョクは金の力を武器として選んだ。自分を守る鎧として身につけた。

 ああ、この人はきっと知らないのだ、とライは思う。

 彼女自身がどれだけ魅力的な人間であるかを。理解が早く聡明で機知に富んでいる、実務に長けている。悪性を持ち合わせながら善性でそれを包む術を知っている。感情豊かなのに時に冷酷になれる。複雑で矛盾に満ちていて、なによりも人を好んでいる。ライにはギ・リョクの感情が透けて見える。彼女はハクタクが好きだ。ライが好きだし、ユーリーンも好きだ。ハリグモのこともきっと好きだったのだ。だから引き留めたのだ。死んでほしくなかったから。それにきっとサ・カクのことだって歪に好きだ。彼女の周りに集う人間を大抵愛している。思い通りになる人もならない人もみんな愛している。

 だけどなまじ金なんかに包まれているからそれを素直に表現できないのだ。

 きっとギ・リョク自身が自分の本当の貌を忘れてしまっているのだろう。

「よし、燃やしてしまおう」

「は?」

「ユーリーン、行こ」

「御意」

 ユーリーンはギ・リョクを押さえつけてそっと首筋に短剣を突き付けた。

「は?」

 ライは翅の国の内部にあるギ・リョクの別荘に向かった。

 無遠慮に中に入る。なかで働いていた人たちに「これから火をつけるから大事なものを持って外に出てー」と言う。抵抗しようとした人間には人質にとったギ・リョクを見せつける。主の首筋に短剣を突き付け見せつけられて、屋敷の者たちは従うしかない。

「これ庭が広いから他の家とかに燃え移らないよね?」

 幼少の頃から訓練の一環として散々火をつけてきたユーリーンが「大丈夫だ」と太鼓判を押す。

「ふざけろよ。おい、こりゃなんの冗談だ」

「なんの冗談? 僕はあなたが欲しいんだ。別にお金なんていらないよ。大事だとは思うけどね。だからお金なんて燃やしちゃうおうかなぁって」

「馬鹿言うなよ。金がなけりゃあたしなんざただの小娘じゃねえか」

 みんながギ・リョクを見た。屋敷の使用人たちですら驚いた顔をしている。

 ライは笑って言った。

「あははっ。本気でそんなこと思ってたんだね」

 燐寸を擦る。屋敷から集めておいた廃材に近づく。

「おい、待て。冗談だろ? あたしを脅迫してるだけなんだろ」

 ギ・リョクが手を伸ばした。

 ユーリーンがギ・リョクを押さえつけた。

 ライが火をつけた。

 ギ・リョクの築いた金の城は、簡単に燃え上がった。

 ギ・リョクは煌々としたあかるい炎をあげて、自分の価値観が燃えていくのを茫然として見ていた。ライが飛びっきりの笑みで振り返った。黄色い炎を背景にして、それはひどく魅力的に見えた。ライは両手を広げる。

「さぁ、あなたを呪っていたお金の力はなくなったよ。与した方に勝利を齎すバケモノなんかじゃなくなった。好きにしてみなよ。別にあなたにこんな仕打ちをした僕じゃなくてもいい、ジズだってシンだってユ・メイだって、誰だってきっとあなたの力を必要とするよ。あなたの好きなようにしてみなよ」

「は、ははは……」

 ふざけてやがる。

 こんな仕打ちをされて誰がてめえに協力なんかするんだ。

 恩を仇で返すとはこのことじゃねえか。

 舐めやがって。雷河の底に沈めて鰐の餌にしてやる。

 憤りの感情は浮かんできた気がするが、ギ・リョクにはなんとなくそれが真実の感情には思えなかった。怒らなければならないから怒っているだけ。次にぼんやりと浮かんできたのは、安堵だった。

 ああ、これでもう取り繕わなくていいんだ。舐められないように露悪的に振る舞わなくていいし、いたずらに他人を脅かさなくていい。増え続ける金をわざわざ使うために広大な屋敷なんて建てなくていいし、無意味な調度品を揃える必要もない。

 あかるい炎がギ・リョクを照らした。

 それはいままでにない光だった。

「……さて、警邏隊が来る前に逃げよっか」

 我に返ったライがユーリーンと一緒に街の外に逃げていった。

 そのうち警邏隊が駆けつけて消火活動に勤しんでいたが火はなかなか消えなかった。

 ギ・リョクの前には灰と炭と、そのなかで燻る妙に熱の籠る体だけが残る。



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