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死ノ国  作者: 月島 真昼
二章
49/110

ハリグモ=ヤグ 4

 


 ニ・ライ=クル=ナハルとユーリーン=アスナイはようやっと翅の国まで辿り着いた。

 街に戻ったときには二人とも疲労困憊していて、すぐに宿を求めた。目を覚ましてから、違和感に気づく。

「ねえ、ユーリーン」

「なんだ」

「僕ら、門通ったっけ」

 少し考えてからユーリーンは「通っていない」と言った。

「僕の勘違いじゃなかったら、いま僕らがいるここって前はなんにもなかったよね?」

「ああ」

「どこ? ここ」

「……」

 宿を引き払い、表に出る。遠くに城壁が見える。ギ・リョクの別荘があった街から西に数キロといった場所だ。建物が連なって小さな街ができている。ライとユーリーンが翅の国を出たのはせいぜい一月ほど前の話だ。

 ライは道を行く男に声をかけた。

「ねえ、診療所ってこの近くにある?」

「ああ、それならすぐに見つかると思うよ。でも診てもらえないぜ。予約でいっぱいだから」

「すごく人気なんだね」

「腕のいい先生なんだ。きっと驚くよ」

 ハクタクのことを言っているのがなんとなくわかった。男は診療所の場所を教えてくれた。彼が去っていくのを見送る。

「とりあえず、行ってみようか」

「そうだな」

 この小さな街がギ・リョクの仕業なのはなんとなくわかったが、仕事が早すぎる。いったいどんな荒遣いをすればこんなことが可能なのだろうか。ライはのちに来る金の請求に戦慄した。大抵のことを恐れないライだが、少年趣味のおじさんと借金、それからギ・リョクのことだけは怖かった。

 診療所には長い列ができていた。それはもう長い列ができていた。

 これの順番を待ってハクタクの元を訪ね、話をするのは容易ではないだろう。

「ギ・リョクの別荘を訪ねてみようか?」

「どうだろう。あいつもこちらにいるのではないか」

 そうかもしれない。ライはぶらりとこの街を見て回る。戦傷者が多い。ギ・リョクが「敗残の兵が落ち延びてくるのはここしかない」と言っていたことを思い出す。そうしたまともな指揮を執られていない敗残兵は治安を乱すのが常のことだったが、一先ずはそうした危機からは脱しているように見える。

 広場が見えた。誰かの教導で多くの男達が訓練を受けている。ライは兵を鍛えている人物を見る。

「ハリグモ」

 偉丈夫の退屈に倦んだ視線がライを見た。

「ああ、戻ったのか」

「ギ・リョクは?」

「役所の方だ。あの女しかろくに事務仕事ができないから駆けずり回っている」

「あはは」

「請求を百倍にして上乗せてやるといっていたぞ」

「ははは……」

「わだかまりは片付いたのか」

「うん。ギ・リョクにはとんだ無駄足だーって言われそうな成果だけど」

 たぶんシンが独力でスゥリーンにあたっていればスゥリーンを殺すことになっただろう。そうならなくてよかったと思う。血縁はなくとも、育ての親が違っても、ライはユーリーンとスゥリーンがよく似ていると思ったし、彼女たちはやっぱり姉妹なのだと思った。

「こっちはおもしろくもない警邏隊の真似事をさせられてうんざりだった」

 話を聞いてみると、どうもこの街の治安が整っているのはハリグモの尽力のおかげらしい。

 アスナイの私兵を率いて、揉め事が起きたところに出向いてはその人物を叩きのめした。そののちに警邏隊に加えて、訓練を施した。傷を負って訓練が不向きな人物にはギ・リョクが仕事を斡旋している。労働している限りは衣・食・住の最低限を保証している。

 無論、期間が足りなさ過ぎて食料生産にまでは手が及んでいない。この街で扱っているのは紡績や製紙業らしい。これらは材料こそ翅の国で収穫できていたが、本格的な加工については技術の問題で他国に依頼していたものだった。

 近くで出来るならば輸送の費用が掛からない分、製品が安上がりになる。

 翅の国は豊かで詩作や絵画が流行している、文化の先端を行く国だ。服飾も他の国に比べて進んでいる。

 紙や糸の需要は高い。

「……相変わらず蛇蝎みたいな手口だね」

「だな」

 金に任せて紡績や製紙の技術が優れている他国から技術者と機器をぶんどってきたのだろう。

 この時代、それらには優れた技術が必要だと思われていた。確かにすべての工程を一人でやるならば長い修練が必要だ。が、工程を細かく分けて、多くの人数に、部分部分だけを教えていけば、それほど複雑なことを覚えなくてもよくなる。高い技術は必要なくなる。

 分業の前じゃあ職人なんざ無力なのさ。

 そんなギ・リョクの嘲笑が聞こえた気がした。

「どれくらいの人が集まっているの?」

「俺も実感はないのだが、いまのところ二千ほどらしい」

「えぇ……?」

 思ったよりも遥かに大きな数が集まっている。これからもっと難民の数は増えるだろ。ギ・リョクのネットワークとやらは大したものだった。ユーリーンが警邏隊の面々を見る。

「使い物になるまでいましばらくかかりそうだな」

「戦の兵としては、そうだな」

 ハリグモは焦りを感じる。シンがゼタを排除すれば、その次に視線を向けるのは北のロクトウのはずだ。とてもではないが、練兵が間に合わない。数が揃わず練度も低い。装備もろくにない。やれることと言えば兵站線への攻撃くらいだろう。まともな軍隊に出くわせば一溜りもない。ましてや相手は大陸最強と名高いシン王の軍勢だ。正面からの戦いなど望みようもなかった。

「ふぁっくふぁっくふぁーっく……」

 ライは一瞬、ハクタクが仕事を終えて出てきたのだと思ったが、とぼとぼと肩を落としてぼやきながら歩いてきたのはギ・リョクだった。

「忙しすぎんだよ。死ねよ。なんであたしは安直に引き受けちまったんだ」

 ライを見て、肉食獣の笑みを浮かべる。

 あ、まずい、食われるとライは思った。

「よお、戻ってきたのか」

「う、うん。随分盛況してるみたいだね?」

「おう、よくも逃げやがったな」

 ぐしゃりとライの頭を掴んでぐりぐりといじくりまわす。

「まあてめえを締め上げるのはあとだ。これからの話をするぜ」

「うん」

「翅の国の王がニ・ライ=クル=ナハル王子との会談を求めてる」

「うえ?」

「自国領で新しい街作ろうとしてる上に、この国は軍の侵入を禁止してるのに国土の中で練兵やってるんだ。呼び出しがかかるのは当たり前だろうよ。まああたしも同席してやるよ。てめえはそれっぽい顔してふんぞり返ってたらいい」

「う、ううん。そうなのかなぁ」

「それからこれはてめえも知ってるだろうが、ロクトウが軍隊を引き連れて南下を始めた。草の国に侵攻するつもりだろう」

「え? ほんとに」

 ハリグモが目を瞠った。

 ギ・リョクは眉を顰めた。

「てめえ、シンのところに行ってきたんだろうが。なんで知らねえんだよ。いったいなに見てきたんだ」

「ユーリーンの妹を」

 ギ・リョクはライの頭を掴む手に力を込めた。

「ちょ、いたいいたいっ!」

「随分早かったな」

 ハリグモは戦意に満ちた目を兵士達に。そしてライに向けた。

「おい、わかってると思うが、行くなよ?」

「何?」

 ギ・リョクは当たり前のことを言うように、その戦意に水を差した。

「そんなハリボテの軍でなにができるんだよ。もしもシンの野郎が灯の国に北上するならば、野盗まがいの真似をして兵站線を叩くぐらいのことは出来るかもしれねえがな。

 今回はロクトウが草の国に南下するんだ。防衛側の草の国の兵站線はそう長いものにならねえ。奇襲の余地は少ない。行ったところでなにもできねえ。行くな」

「貴様も同じ意見か?」

 ハリグモがライを見て言う。

「えっと」

 ライは少し考える。理屈から言えば、ギ・リョクが正しい。練兵を初めて間もない弱兵ではシンを相手になにもできないだろう。輜重隊にも数の多いサンロウが護衛についているはずだ。

 それに士気の問題がある。いまこの街にいる兵士達は、この場所を守るための練兵だと思っているはずだ。シンへの攻撃を行うために自分たちが訓練を行っているとは思っていない。彼らの一部は草の国からの攻撃を受けてこちらに流れてきた民ではあるが、それにしたってシンに対する積極的な攻撃を望んでいるわけではないだろう。彼らを教導、指揮する立場にあるハリグモの命令にはある程度従うだろうが。

 戦術に対してそれほど広い知識があるわけではないライでもわかる。

 ハリグモの攻撃は失敗する。

「ハリグモにはなにか考えがあるの?」

「ない」

 ハリグモは即答した。

「だがロクトウ様の危機ならば、俺がその場にいないのはありえない」

 ライは頷いた。ハリグモならばそう考えるだろうとは思っていた。ギ・リョクは理屈を説いているが、ハリグモの考えているのは理屈ではない部分なのだ。そしてどちらかといえば、ライはハリグモの考えの方に寄っている。

「わかった。僕も――」

 行くよ、と言いかけたのをギ・リョクが首を掴んで捻じ伏せた。息が詰まってそこから先を言葉にできなかった。

「いい加減にしろ。てめえはこれから国王シ・ジズと会談だ」

「でも、ハリグモは僕が協力するって条件でこれまで手を貸してくれてたんだ。それを蔑ろにはできないよ」

 ハリグモはふ、と小さく息を吐いた。

「別に構わん。俺は一人でも行く。元より貴様のような子供の力などあてにはしていない」

 嘘だ、とライは思う。

 士気も練度も低い小勢、充分でない武装。

 魔法による攪乱は必須のはずだ。

「変なところで強がらないでよ」

 ライは唇を尖らせる。ライはこれまで散々ハリグモに頼ってきた。そのハリグモが自分を頼ってくれないことが不満だった。

「貴様こそ、時勢を読み違えるなよ。貴様の戦いはここから始まるのだろう?」

 ハリグモは優雅な笑みを浮かべた。

「お前に頼むのは癪だが、小僧を頼む」

 ハリグモはギ・リョクの目を見て言った。

 ギ・リョクはひらひらと手を振った。

「受けられねえな。あたしはあたしの都合でしか動かない」

 ハリグモはカラカラと笑う。ギ・リョクは顔を顰める。“だけどどうせおまえはライに手を貸すんだろう?”と言外に言われているようで気分が悪かった。

「だいたいなんでおまえはこいつにそんなに入れ込んでるんだい?」

「俺の友達だからな」

「理解に苦しむね」

「俺もそう思っていた」

 つかつかと誰かが歩み寄ってきた。ハリグモの足元に鋤を投げた。いつのまにか傍を離れていたユーリーンだった。自分は刃を潰してある模造刀を持っている。吊り下げた剣を腰から落とす。

「私も反対だ。行くな」

「なんだ、お前まで言い出すとはな」

「おまえはライにとって必要だ」

「……」

 ユーリーンが模造刀を構える。

「一人でも戦えるという、貴様のその鼻っ柱をへし折ってやる」

 ユーリーンはぱちんと指を鳴らした。途端にユーリーンの世界が狭くなる。

 深く集中する。すべての意識がハリグモへに向かう。

「ほう、おもしろい。そういえばお前と手を合わせたことはなかったな」

 ハリグモは鋤を拾いあげた。手の中で返して刃を裏にする。振るっても致命傷とならないように。偃月刀を握っているように、八相に構える。二人の呼吸が止まった。

「ユーリーン?」

 ライが二人の間に止めに入ろうとしたのを、ギ・リョクが無理矢理掴んで引き戻した。

 目の前で稲妻が走った。どちらがどう動いたのか、ライにはわからなかった。ハリグモが袈裟懸けの一撃を繰り出す。音速の踏み込み。長い腕。下がっても躱せないと判断したユーリーンは刃に向けて飛び込んだ。前に出て掌をあわせて支えにして肘を突き出した。鋤の柄が肘当てに覆われたユーリーンの肘にあたる。肘に阻まれて刃はユーリーンに届かない。が、尋常ならざるハリグモの膂力が振り切られてユーリーンは弾かれる。ハリグモも予想したのと違う衝撃を受けて半身が開く。余談だがもしもライが間に入っていれば叩き潰されていただろう。

 ユーリーンが右下から切り上げる。後の先をとった回避不能の軌道。ハリグモは鋤の柄で剣を防いだ。木製の柄が折れるが剣は勢いを失う。ユーリーンが左手をハリグモの腹へと突き込んだ。肋骨と腹筋の隙間を貫手が抉った。「ぐふっ」くぐもった悲鳴が漏れる。内蔵への強い衝撃にハリグモの肺から空気を抜ける。ハリグモは無理矢理右手を振ったユーリーンの服の襟を掴む。ユーリーンは左手を抜いて抵抗しようとした。

(ぬけなっ……!?)

 ハリグモが体を折り腹筋に力を込めて筋肉を盛り上がらせている。骨と肉の隙間に指を取られて、ユーリーンは左手を抜くことができない。ハリグモが掴んだ襟を自分の側に引き寄せた。頭を振った。頭突きがユーリーンの頭を打った。意識が揺れる。視界が霞む。その中で右手を振ってハリグモの首を狙う。鋭く尖った右手親指の爪の端で頸動脈を斬ろうとした。が、その右手はハリグモが外に肘を広げたことで阻まれて、首まで届かなかった。ハリグモの分厚い肩に爪が触れて血が流れる。ハリグモはユーリーンの襟を下に向けて引いた。元々ふらついていたユーリーンがあっさりと転倒する。ハリグモは靴底を、ユーリーンの頭に向けて振り落とした。

 靴底はユーリーンの顔の間近の地面を踏みしめる。

 無感情な瞳でそれを見あげていたユーリーンがそっと目を閉じた。敗北を認めて、全身から力を抜く。

 ハリグモは長い息を吐いた。同時に殺気を吐き出す。ほんとうにユーリーンの顔を踏み潰しかけたのだ。だがそれはユーリーンの方もきっと同じだっただろう。頸動脈を爪で切り裂こうとした瞬間、これが模擬戦に過ぎないことをこの女も失念していたはずだ。急におかしくなってきて、ハリグモはくくくと低く笑った。

 それから「所詮、女の技だな」と、あえて口にだして言った。

 もしもユーリーンにハリグモと同じだけの体重と膂力があれば、貫手の一撃はハリグモの息を止めていたはずだし、剣の一撃は木製の柄を折るだけに留まらずハリグモの体勢を大きく崩していただろう。技術ではユーリーンの方が勝っていた。だが体重と腕力の差でハリグモが勝った。

「おもしろかったぞ。礼を言う。じゃあな。俺は行く」

 暴力の後の興奮と殺気がまだハリグモの体に残っていて、ライもギ・リョクも声をかけることができなかった。

 鬼神は幾らかの兵隊と軍馬だけを引き連れて、ライの元を去っていった。



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