ラ・シン=ジギ=ナハル 12
ローゲンが『爪』の魔法を解いた。ゼタの騎兵の中を斬り進んできたローゲンには相応の疲労が溜まっていた。周囲ではまだ戦闘が展開されているがゼタの死とアゼルの炎によって敵の士気は大きく下がり、一部では降伏さえ始まっている。
ローゲンは戦いの大部分がすでに終わったと考えていた。だからガ・ナイが接近してきたときに収束に向けた手順を話し合おうとしているのだと判断していた。彼女はシンが結んだ「同盟はゼタが死ぬまで」という条件を、知ってはいたが失念していた。ガ・ナイが槍を振り上げた。
「!!?」
咄嗟に反応したが、避けきれなかった。振り下ろされた槍はローゲンの大腿部を貫いてそのまま地面に突き刺さる。ローゲンが爪の魔法で反撃しようとしたが、その時にはすでにガ・ナイは馬の尻を叩いて逃げ去っている。
ガ・ナイが自分の率いる騎馬隊の元まで戻る。手始めにシンから与えられていたサンロウを殺す。「いくぞ! ついてこい!」ガ・ナイの率いる軍は、この戦いにおいて主力を担ってはいなかった。シンとユ・メイの軍が切り込んだのちに横合いから叩いただけに過ぎなかった。ガ・ナイの軍勢はほとんどその総力を保持していた。
ローゲンを足止めに成功している。シンの軍勢はゼタの前衛を相手に散々に戦い疲労している。特に主力となるタンガンが城壁に向けて投射されている。いまシンの防御はかつてないほど薄くなっている。一万の精兵があれば、シンの首を獲れる。ガ・ナイと騎兵が疾駆する。
「殺れ、ココノビ」
「うん!」
ぶちゅり。
「……あん?」
ガ・ナイの腹に槍が突き刺さっていた。ガ・ナイにはなにが起こっているのかわからなかった。落馬したガ・ナイが自分を刺した人物を見上げる。ガ・ナイの腹心の部下だった。
「ココノビさまのおおせのままに」
ガ・ナイは腹から槍を引き抜いて、その人物を殺そうとした。
別の誰かから降ってきた槍がガ・ナイの背中を突いた。
「ココノビさまのおおせのままに」
「ココノビさまのおおせのままに」
ガ・ナイ目掛けて無数の槍が降ってくる。ガ・ナイは自分の配下たちを見上げる。その目は正気を保っていない。ガ・ナイ=ヤグは訳がわからないまま味方に殺されて死んだ。
ガ・ナイの軍の内部では錯乱している兵と正気の兵との争いが起こる。突然の裏切りの意味がわからず、ひどい混乱に陥る。
そこへナラの率いる一軍が襲い掛かった。指揮官を撃破されていて、内部での混乱が起こっていたガ・ナイの残党はこれにまともに抵抗できなかった。大半を撃破され、また残りはなにもできずに灯の国へと逃げ帰った。
戦いはすぐに終結し、シンの勝利に終わった。
ラ・シン=ジギ=ナハルは王の国に入った。
なにもかもを早急に済ませなければならない。すぐにでもロクトウは軍を起こし、草の国を攻撃するだろう。王の国を掌握したシンが新たな皇帝を名乗ることこそを、ロクトウは最も恐れているはずだ。
「……」
王の国内部を見たシンは、それが想像していたよりもはるかに落ち着いていることを怪訝に思う。ゼタの暴虐の噂は草の国にまで聞き届くほどだった。抵抗するものは三族に至るまで抹殺されて蛇穴と呼ばれる穴に死体は無造作に放り込まれていた。そんな状態ではまともな治安は築きようもないし、疫病が蔓延したはずだ。
だが街の中は比較的清潔であったし、国民は混乱していなかった。
シンは馬を降りて、頭を下げる民の一人に尋ねた。
「あなた方を束ねている人物の元へ案内していただけますか」
彼はシンを東市役所へと連れていった。
市役所前の広場に、長椅子にだらしなく寝転がって口を開けて眠っているナ・カイがいた。「カイ殿、カイ殿」近くの民がカイの肩を揺すっている。「ぇぅあ?」要領を得ない声をこぼしてカイがおぼろげに目を開ける。体を起こす。
「もうすこし寝かせてよ。なにかあったの」
目を擦りながらシンを見る。隣にスゥリーンがくっついて手を握っている。
シンの顔つきはなにかを諦めたように見える。
「なんだ、シンじゃないか。じゃあまだここは夢の中かー。おやすみぃ」
また長椅子に横になろうとする。「カイ殿!」肩を揺すっていた男が今度はべちべちと頬を叩いてカイを起こそうとする。そのさまはまるで皇族に対する扱いではなくて、シンは苦い笑みを浮かべる。それだけカイが親しまれているということではあるのだろう。
「……シン?」
半分降りた瞼でカイの目がシンを見る。
手を伸ばして頬に触れる。どうやらまだ半分以上夢見心地らしかった。
「えっと、本物?」
「ご機嫌麗しゅう。姉上。ラ・シン=ジギ=ナハル、参上いたしました」
「うきょわああっ」
カイが飛び退こうとして長椅子に足を引っかけて盛大にすっころんだ。後頭部を地面に打ち付ける。視界の中に星が飛ぶ。シンが呆れて手を差し伸べる。その手を掴んで、引き起こしてもらう。
「なななな、なんでいるんだよ!? なんでいるんだよ!!?」
「お邪魔でしたか。では私は退散させていただきましょう。それでは。兵は少し残していきますので、いかようにも扱ってください」
「え、ちょ、待てよ! きみあれだろ? 帝になるために来たんだろ? 治安維持に街の再建に人の登用に官僚組織の立て直し、やること山積みだろ!? なんで帰るなんて言うんだよ! ゆっくりしていけよ」
カイはシンの手を掴んでぶんぶんと振って、半泣きで言った。
シンが来たら自分に圧し掛かる重責を放り出せると思っていたのだ。
「…………」
シンは周囲を見た。周りの誰もが、カイに向けて「やれやれ」という視線を向けている。
人々はとうの昔に、カイが自分たちと同じくらいに狼狽していて怯えていて困っていることを察していた。それをどうにか押し殺して自分たちのために尽くしてくれていたことをわかっていた。カイと彼らの間には親しみと信頼がある。
彼らは降って湧いて出たようなシンが、この国の復興の陣頭に立つことをよしとはしないだろう。
なによりもシンはこののちにロクトウとの戦を控えていて、この街に割く労力は最小に留めたかった。
このことが予定と違っていたことは確かだ。
シンはゼタによって荒らされた街を再興することで、自分の名をこの国の中で高めて自然に帝として民に認められることだと思っていた。実際には思ったほど街は乱れていなかったし、いまからシンが出張ったところでそれほどの名声は期待できないだろう。
シンは露骨にため息を吐いた。
「いいか、一度しか言わないからよく聞けよ?」
「ナ、ナンダヨ」
カイは怯えた視線をシンに向けた。
「貴様はよくやっている!」
「あ、ど、どうも」
「俺とてもっと出張るつもりだったのだがな、この現状を見るに内情を知らん俺が手出し、口出しするよりもこの国の再建は貴様に任せた方がうまくいくだろう。金と人手は置いて行ってやる。おまえがやれ。おまえが立て直せ」
「ひゃ、ひゃい。ひゃぃ?」
カイは疲労と困惑で脳みそが混乱していて、強く言われると否定できなかった。
シンはカイの手を小さく振り払った。
自軍に戻ると、一千ほどの一軍を呼びつけて復興の手助けをするように。当面カイの指揮下に入るように命ずる。
王の国が乱れていなかったことは、決してシンにとって都合のいいことではない。だがシンは自分が愉快な気持ちになっていることに気づく。シンにとって自分の姉弟が無能であるよりは有能である方が好ましかった。その方が面白いと思う。
「なんや、愉快なことになってるみたいやね」
不意にアゼルが傍まで寄ってきた。
「わるいけどちょっとシンくんと話したいことあるから、ちょっと退いてくれる?」
にこやかに言い、だけど有無を言わさず周囲の人間を追い払う。
シンの手を握るスゥリーンだけが隣に残る。「おまえも離れていろ」という目でシンがスゥリーンを見たが、スゥリーンはその意図を掴んでいながらさらりと無視した。無理に引き剥がせば暴れて抵抗することがわかっていたのでシンは諦観の息を吐いて「なんだ?」とアゼルに向かっていった。
「うちはカイくんと一緒にこの国残ろ思うわ」
シンとしてもその方がありがたかった。ロクトウとアゼルは既に縁が切れているが、それでも彼女はロクトウの孫娘だ。不安要素を抱えたままロクトウとの決戦に臨みたくはなかった。
「それだけか?」
「や、ちょっと訊いてみたいことあってん」
アゼルは唇に指をあてた。
「なぁ、あんた、よぉ数揃えたなぁ」
壊獣のことを言われているのだと、一瞬シンはわからなかった。
「ほんまに『喰』の魔法が使えるんやね?」
「……紛れもなく俺が今代の使い手だが、なにが言いたい」
「あんたが知らんはずないと思うけど、歴代の『喰』の使い手はみんな女やねん。そもそも『喰』の魔法はあんたのつこうてるような、無尽蔵にバケモノを生み出せる都合のええ魔法やない。使い手が自分の胎つこうてバケモノを孕んで生み出すからや。母体の負担が大きいからそんな頻繁に魔法は使われへんし、タンガンの量産なんか土台に無理な話やった。草の国が弱小やったのはこのへんが影響しとるね」
「……」
「もっかい聞くんやけど、あんたが今代の使い手なん? どうやって『喰』使ってるん?」
シンはアゼルを見た。なにげなく剣の柄に触れる。ここがもし屋内であればシチセイを使ってアゼルを斬り殺していただろう。だからアゼルはわざわざ屋外で話しかけた。『炎』の魔法で煙草に火をつける。個人戦闘能力では自分の方が上だと見せつける。
「そんな恐い顔しなや。ちょっといじめただけやん?」
煙を吐きながらアゼルが言った。
「言いたいことがそれだけならば俺はもう行くぞ」
「あ、じゃああと一個だけ」
あくまでにこやかな雰囲気で、歌うような声でアゼルは訊ねた。
「八歳やったあんたが先代の使い手――自分の母親の子宮を抉り出すいうんは、どんな気分やったん?」
不意に問われて、シンはそのときのことを思い出す。女の腹を開いてその中を抉り出したときの感触。手に残る体温。血のぬめり。シンは急に堪えきれなくなって「く、ふふっ」と顔を伏せて低く笑った。
「そう。その顔、あんたの本性ちょっと見てみたかってん」
アゼルが言い、ひらひらと手を振ってシンから離れていった。