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死ノ国  作者: 月島 真昼
一章
4/110

ニ・ライ=クル=ナハル 3


 ライとユーリーンは街へ戻ってきた。官吏にジギ族の野盗を引き渡す。いつもはふらふらとあちらこちらの女の家を転々としているライも、今晩ばかりはユーリーンの屋敷に泊まることにした。風呂を借りる。十人が入ってもまだ余裕がありそうな広い湯船に体を沈めて埃と泥、それから戦いの疲れを溶かし、落とす。昨日のことを、そして今日のことを思い返す。ユミの少女らしい笑顔を思い返す。ジギ族の行動がああまで速く、そして大胆な物になるとは思っていなかった。しばらくは小競り合いが続くのだろうと思っていた。戦いになれば勝利する自信はあった。ユーリーンには武力があったし私兵団がいた。ライには「泥の魔法」があった。

 そしてライは確かにジギ族一団を壊滅させた。だけど勝ったとは到底思えなかった。ユミを助け出せなかった。それになにか得体の知れない不安感があった。

「し、しし、し、失礼する」

 湯船の中に視線を落としていたライは、女の声で視線を上げた。胸と下腹部を布で隠してユーリーンが顔を真っ赤に染めながら風呂場に入ってくる。一つ括りにしていた髪が解かれて、肩に垂れていた。ライは一瞬固まった。

「……なにしてるの」

「い、いや、あの、その、ライの戦の疲れを癒してこいと、母様が」

「伽なら間に合ってるよ」

 無遠慮にユーリーンの肉体を見る。二の腕も太腿もがっちりと引き締まっている。布で隠れている腹筋は六つに割れている。体側さえ筋肉に覆われている。彼女の肉体は素晴らしい造形美を誇っていたし、魅力的だと思わなくもなかったが、単にそういう気分ではなかった。それにライにとって幼少期から共に過ごしてきた彼女は姉のようなもので、肉欲の対象ではなかった。

「そ、そうか」

 ユーリーンは安堵したような落胆したような、微妙な声を出した。遠慮がちに湯船に入る。背中合わせになって体を預けてくる。湯のそれとは違う暖かい体温が触れる。硬い背中だなぁ、とライは少し笑った。

「その、あの、あまり気に病むな」

「無理だね」

「そ、そうか」

 ユーリーンは視線を湯船の中に落とす。口まで湯の中に沈めてぶくぶくと泡を吐く。街の娘たちが容易にできる慰めさえ、自分にはできないのだと少し落ち込む。

「あのさ」

「な、なんだ」

「どうして止めたの」

 ライが彼らの残党を殺そうとしたとき、ユーリーンは泥の魔法の前に立ちはだかってまでそれを止めた。ライが剣を引くのがあと少し遅ければ、泥はユーリーンを容易に貫いていた。あのとき、すでにライは彼らの半数以上を誅殺していた。いまさらもう少し殺す人数が増えたところで、なんら影響はなかっただろう。

「……言葉ではうまく説明できない」

 ユーリーンがはじめて"外で"人を殺めたのは、九歳の時だ。ユーリーンはそのときのことを鮮明に覚えている。

 相手はこの地方を荒らす盗賊団の一員だった。長弓の一射で心臓を射止めた。よくできた、うまくできた、と彼女の周囲の人々はそれを持て囃した。彼女自身も殺しの技がうまくなれば主君を守れると得意になった。彼女の母だけが複雑な表情でユーリーンを見ていた。

 ある日、ユーリーンが殺した男の妻が泣いているのを見た。息子が父を殺した相手を殺してやると憤っているのを見た。数日してその子は武器とも呼べないような短刀を持ってユーリーンに襲い掛かってきた。ユーリーンは咄嗟に長剣を抜いて彼を斬った。それは内臓をまき散らして死んだ。それからまた数日して夫も息子も亡くした女が自決した。

 ユーリーンは想像力のない人間ではなかった。誰にでも家族がいる。どうしようもない悪人であってもそれを愛する人がいる。ユーリーンは彼女にとって不幸なことに残された者の痛み、悲しみがわからない人間ではなかった。

 降りかかる火の粉から身を守らなければならない。そのために武力を行使することはやむを得ないことだ。だけどそれでも、殺す人数は少ないほうがいいと考えていた。

「わからないなぁ」

 ライが呟く。浴槽から立ち上がる。ユーリーンは振り返った。無駄のない肉の付き方をした少年の華奢な体つきを見る。日ごろから享楽的な過ごし方をしていると思っていたが、まったく鍛えていないわけではないらしかった。ライは体から雑に水を払い、浴室から出て行った。赤くなったユーリーンが湯船の中に沈んでぶくぶくと泡を吐いていた。

 体から水気をふき取り、ライは用意してもらった寝巻を着て寝室に向かった。

「……広い。落ち着かない」

 ぼやく。大きな寝台も、上質の羽毛の布団も、なんだか落ち着かなかった。

 それでも随分気を張っていたせいか、横になるとすぐに睡魔はやってきた。眠りが深かったのか夢は見なかった。よかったと思う。きっとなにか見たならばそれは悪夢だっただろう。目を覚ましたときにはもう日が昇っていた。寝台から体を起こす。汗をかいていた。寝巻を脱ぐ。汗を拭う。

「ライ」

 ユーリーンが扉を開けて顔を出した。下着の他はなにも身に着けていないライと目が合う。

「……君、覗きの趣味でもあるの?」

「す、すまない」

 すぐに扉を閉めた。

「別にいいけどさ」

 紅染めの高価そうな服を着る。落ち着かない、と思う。

「いいよ」

 遠慮がちに再び扉が開いた。くしゅん。ユーリーンが小さくくしゃみをする。

「風邪でも引いたの?」

「す、少しな」

 昨夜、あのまま風呂でのぼせたとは言えなかった。

「無理をさせてごめんね」

 なにかを深読みして勘違いしたライが深刻な表情で言う。ユーリーンはどう反応していいのかわからなかった。くしゅん、と短くもう一度くしゃみをする。

「なにかあったのかい?」

「ロクトウから我々に出頭の命令が出た」

「出頭? 随分な言い草だね」

 ライは大きく欠伸をした。

「いいよ、行こう。僕もロクトウには言いたいことがある」

 ユーリーンが頷いた。連れだって、屋敷を出る。表にはロクトウの憲兵隊達が二人を待ち受けていた。大きな馬車が停まっている。憲兵達が二人を囲う。武家の名門であるユーリーンを慮って縄はかけなかったが、険悪な視線が突き刺さる。ライは興味がなかったので、さっさと馬車に乗り込んだ。ユーリーンが続いて乗り込む。

「行ってくる。留守は頼む」

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」

 “召使”が答えた。ライとも視線が合う。召使はユーリーンの先代からアスナイの家に仕えている。当然ライの素性を知っている。けれどこの場で礼を表するのは不釣り合いだった。二人は目礼だけを交わした。それから剣呑な目つきで憲兵達を見渡す。彼らがたじろぐのがわかった。ユーリーンが微笑んで、馬車の戸を閉めた。馬車を囲うように憲兵達が馬に乗る。

 行者が馬の尻を叩いた。ゆっくりと車輪が回り、馬車が動き出す。あわせて憲兵達の乗った馬も走り出した。

「ロクトウはなぜ我々を呼び出したのだろう?」

「領内から賊を排除した功績を讃えて、……って感じではなかったね」

「単なる事情聴取だろうか?」

「ジギに売り渡すつもりなんじゃない」

「まさか」

 ユーリーンは乾いた笑みを浮かべた。そんなはずはない、と思いたかったが否定する言葉も思いつけなかった。そもそもロクトウは引き渡したジギ族をどのように扱っているのだろう。二時間ほど揺られて、馬車が速度を落とした。そのうちに停止する。憲兵が戸を開く。

 降りろ、と口には出さなかった。彼らは身分の高いユーリーンに命令できる立場にはない。ロクトウの居城を見上げる。

「大きいね」

「それに金がかかっているな」

 戦のための城ではないため、機能性よりも外見を重視していた。朱塗りの柱が何本も建ち、瓦屋根を支えている。赤は灯の国に於ける魔を払う色だ。外壁には幸運を呼び込むといわれている銀が塗られている。美しいが、見ようによってはごてごて過ぎて悪趣味だった。

「ユーリーン殿と、ニ・ライ殿ですね」

 門の傍から背の高い男が歩いてくる。目尻の低い甘い顔立ちをしていた。歳の頃は二十の半ばほどだろうか。ロクトウの家臣よりも役者の方が似合いそうだ。丈の長い朝服を着ているが、その下の鍛え上げられた肉体に似合っていない。鎧と兜の方が随分似合うだろう。

「ハリグモ=ヤグと申します。ここからは私が、ロクトウ様の元へ案内致します」

 手を伸べる。ユーリーンがその手を取る。何度も潰れたマメの硬い感触がある。

(薙刀……、いや、偃月刀か)

 相手の方もユーリーンの手の感触を確かめたらしい。ユーリーンの手も同じくマメが潰れて硬くなっている。ハリグモは微妙に苦い顔をしていた。女の手だと思ってやわらかい感触を期待していたのかもしれない。

「武器を預けてもらえますか。謁見のあいだだけで結構です」

 ハリグモが言い、ユーリーンが剣と弓矢を憲兵に預けた。ライは武器らしきものをなにも持ち合わせていない。ただ両手を広げる。頷いたハリグモが憲兵のほうへ視線を移す。

「ご苦労だった。下がっていいぞ」

 憲兵達が静かに両手をあわせて頭を下げた。どうやらこの男はそれなりの地位にあるらしい。

「ついてきてください」

 ハリグモが先導して歩き出す。ロクトウの居城に入る。内部の装飾は意外にもあっさりしたものだった。木製の柱に腐食を食い止める程度に漆が塗られている。華美な装飾品は見当たらなかった。外側の方は名家の威容を示すために、それなりに派手に繕う必要があるのかもしれない。きょろきょろとあたりを見渡しながら進んでいき、大きな門の前でハリグモが立ち止まる。

 一礼し、二人の門兵が大きな扉を開いた。

 まず玉座に腰かけたロクトウが視界の中心に映る。華美な衣の下はでっぷりと太っていた。ユーリーン達を見る眼差しはどろりと濁っていて、口元は忌々しげにぴくぴくと痙攣している。顔は白いのに服の先から覗く手足の色は悪い。化粧か何かで誤魔化しているのだろう。その両脇の壁に沿って家臣たちが並んでいる。右が武官達で、左が文官達だろう。肉付きをみればすぐにわかる。右手に並んでいるのは服の上からでもわかる屈強な肉体をしていた。左に並んでいるものたちは一様に値踏みする視線をユーリーンとライに向けている。

 ハリグモが部屋の中央まで進み出て両手をあわせ、膝をついた。儀礼としてユーリーンもそれに倣う。ライは不貞腐れた目で周囲を見ただけだった。皇族であるライはロクトウに膝をつく立場にない。周囲が怪訝な目を向ける。武官の一人が無礼なライを見咎めて剣を抜こうとして、隣の武官に諫められていた。子供のやることだろう?目くじらを立てることもあるまい。そんな風にライを見る。

「よい、面をあげよ」

 ロクトウの低い声が響く。ユーリーンが顎をあげる。

「領内のジギを討ったそうだな?」

「はい」

 ユーリーンの代わりにハリグモが答えた。

「彼らは二頭のタンガンを抹殺、もう二頭のタンガンを無力化。二十二名いた賊の内、十一名を殺害。残りは捕縛されて我らの警邏隊の管理下にあります」

 濁った眼がユーリーンを見る。

「どんな手を使った」

「正攻法で」

 ユーリーンはさらりと答えた。互いの手札も見せ合わない内から手の内を明かしてやる理由はなかった。

「ジギから貴様らと、捕縛した賊の引き渡しの要請が来るだろう」

「お受けになるのですか」

 ハリグモが尋ねた。ロクトウが頷く。

「国内に置いたところで害はあっても利はない。やつらに多少なりとも恩を売れるのならば安いものだ」

 腐った息を吐く。

 ユーリーンが冷たい視線でロクトウを見る。

「条件がある」

「なんだね」

「アスナイの私兵の同行許可を」

「いいだろう。思えば身一つでここに連行したのも無礼な振る舞いだったな。許せ」

 嫌にあっさりと引き下がった。

 死地に放り込むことへの手向けのつもりなのかもしれない。

「聞いてみたいんだけどさ」

 ライが口を開いた。

「警邏隊が、それからユミさんとそのご両親が殺されてたのは知ってるんだよね」

「ユミ? ああ、やつらに暴行を受けて殺されたという娘のことか」

 鷹揚な調子がライの神経を逆なでした。

「あなたは自国の人間が、他国の人間に殺されて悔しくはないの?」

「悔しいとも」

 枯れた声が低く呻く。

「叶うならば八つ裂きにしているだろうな。それは私が育てた私の財貨だ。我が血、我が肉、一片たりとも渡すわけにはいかぬ。ああ、口惜しい」

 ロクトウの声は真に迫ったものだった。

 思っていなかった回答にライは少し驚く。

「だったらどうして」

 ロクトウは領内からジギ族を積極的に排除していない。

 守れるはずの民を守っていない。彼の財貨を明け渡している。

「百万の民を守るために百の民を殺すことが、我々には時として必要なのだ」

 為政者の言葉だった。

 無論、ライにはそれが受け入れられなかった。ユミのことを思う。あの無邪気で善良な娘を犠牲にしなければ生き残れない百万など滅んでしまえと思う。しかしその百万の中にキョウが含まれていたら。ヨキが含まれていたら。ユーリーンが含まれていたら。ライは目を閉じた。

「ジギの壊獣共は恐ろしい。確実な対抗策が整わねば、ことを構えるわけにはいかぬ。そして我々にはまだその手段が整いきっていないのだ」

「ロクトウ様」

 老年の文官が咎めた。どこに密偵が潜んでいるのかわからないのだ。迂闊なことを言うべきではない。老人の視線が辺りを見渡す。情報の漏洩は以前にもあったのかもしれない。ライは目を開けて、曖昧に微笑む。

「そのために僕らを売り渡すわけか」

「すまぬな。小僧。そしてユーリーン=アスナイ」

「いいよ、あなたの考えが知れてよかった」

 ライは表情を和らげた。「それにシンにはいつか会わなきゃいけないと思ってたんだ」小さく呟く。「捕えたジギの連中も送り返すのですか?」ユーリーンが問い詰める。

「そうなるだろうな」

「弱腰だね」

 ライが文官達を見渡した。彼らははっきりと不快感を滲ませる視線でライを睨み返す。

「壊獣に勝てないから怯えてるんだ」

 次に武官達を見渡す。こちらは無感情な視線で虚空を見ていた。

「そっか、じゃあ移送の日が決まるまでゆっくりさせてもらおう」

 くるりとライが振り返った。

「行こうよ、ユーリーン」

「はい」

 堂々と二人が謁見の間を出ていく。出たところで剣と弓矢を返される。それを見送って、ロクトウがくくく、と含み笑いをした。

「ハリグモ、部屋に案内してやれ」

「御意」

 青年がライとユーリーンの背を追う。

「ロクトウ様。なぜあのような無礼な子供を許すのですか」

 武官の筆頭、大将軍フェイ・ロフが、出て行ったライの背中に向けて怒気を滾らせる。

「なぁに。子供のやることに目くじらを立てることもあるまいよ」

 ロクトウは低く笑った。フェイ・ロフにはわけがわからない。ロクトウはあの少年の甘い顔立ちを思い出す。そして平民のはずの子供にへりくだるユーリーンの態度。タンガンが沈んでいたあの地面の痕跡、その首を切り取った荒い断面。なにより、あの子には母の面影があった。

 ニ・ライ=クル=ナハル。

 覇王の最後の子ども。

「シンよ。この貸しは大きいぞ」




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