ラ・シン=ジギ=ナハル 9
シンは鎖骨が砕けた痛みによって長い間、眠っていた。
ようやく目を覚ましたのは、太陽が落ちた深夜のことだった。
伝令の兵がローゲンのそのことを伝え、シンの休む幕舎へと足を延ばす。
「ローゲンか」
入ってきたローゲンを認めて、シンは珍しく気落ちした息を吐いた。ローゲンが跪くよりも先にシンが「テン・ルイは」と尋ねた。
「私が見たときにはすでに」
「そうか」
ローゲンはそのシンを目にして戸惑う。こんなにも弱弱しい顔をする人だっただろうか? 草の国に登用されて日の浅いローゲンは、シンとテン・ルイの関係についてそれほどよく知っているわけではなかった。
テン・ルイはシンが二歳の頃から、シンの身を守るのと同時に武芸や兵法を説いてきた。産みの親に勝るほど親しい人物だった。そしてなによりもその武力を頼みとしてきた。シンは自身の魔法よりも、万の兵よりも、テン・ルイ一人の方に価値を感じていた。
「よく駆けつけてくれた」
「輜重隊の配置が完了しましたので、報告のために本陣に向かっていました」
「使いの者を寄越さないのはおまえらしいな」
「……東方で誤報によって痛い目を見まして」
将校としての経験が厚くないローゲンが苦い顔で言う。
「ローゲン、以後はテン・ルイに代わって俺の補佐につけ。輜重隊の警護はナラに引き継ぐ」
「私にはいささか荷が重いと思われますが」
テン・ルイの代わりなど到底務まるはずがない、とローゲンは思う。魔法を持たない、肉体の盛りを過ぎた四十四歳の中年男にまるで赤子のようにあしらわれ、片目を奪われた経験を思い出す。
「これから鍛えてやる」
シンがにやりと笑う。
ローゲンは静かに息を吐き、跪き、両手をあわせた。
「謹んでお受けいたします。これよりシン王の補佐の任に着きます」
「ああ、で、早速だが、俺を襲ったあれをどうみる?」
「尋常な手段で身につけた技ではありません。私一人の手には負えますまい」
「では、――——」
シンとローゲンは一晩中話続けた。テン・ルイの不在を埋めるにはとてもではないが時間が足りなかった。それでもいつか言葉が尽きてしまう。シンはまだなにか話そうとしたが、結局それ以上言葉が出てこなかった。
ローゲンにはシンの中にくっきりとした不安が浮かび上がってくるのが見て取れた。シンの中にあるのは手を引かれて歩いていた盲人が、不意に手を離されたような、底冷えのする怯えだった。手に取ってしまえるのではないかと思うほどに具体的な不安だった。夜の暗闇。幕舎の周りに風が吹く。なにやらざわめきが聞こえるが、そのざわめきの意味がわからなくなっている。その晩、自信に満ちてすべてを打ち破るかのような、いつもシン王の姿はどこにもなかった。
シンは途方にくれて座り込んだ。砕かれた鎖骨の痛みと、自覚しなかった疲労が押し寄せている。瞳の色が濁り、体中からすべての力を失って俯いている。この人はもう立ち上がれないのではないだろうか、とローゲンは思う。
だけれどシンが座り込んでいたのは、ほんのわずかな時間だった。
「暗いな。灯りをつけようか」
立ち上がり、燐寸をすると燭台に灯した。
「ここからは一人で歩くのだな」
シンが呟く。
「お一人?」
ローゲンは首を傾げた。シンの目が驚いたようにローゲンを見る。
そうしてその瞳がやわらかく閉じられた。
「ああ、そうか。ここからは、お前たちと歩むのだ」
シンはゆっくりと瞼を開いた。蝋燭の灯りがシンの翠の瞳を照らす。
シンは西を――敵陣の方角を見据えた。
そして遠くにあるはずの光を求めて、顔を上げた。
夜が明け、朝日が昇ろうとしていた。幕舎の薄布を通り抜けて東の空からの光が差し込む。シンの背中からの光が西の空を照らす。