ラ・シン=ジギ=ナハル 8
草の国に戻り、戦の準備に奔走していたシンの元に鎧兜に身を包んだ大柄な女が一人訪れて、シンの前に跪いた。
「東方領制圧軍指揮官ローゲン。任を終え、五千の兵と百五十の壊獣と共にここに帰還致しました」
女の右目には色がなく、だらりと片目だけがよそを向いている。
視神経が繋がっていないことが一目でわかる。
「よく戻った。東はどうだった」
「特にどうということもありません。元より戦力はこちらが上。兵馬を使い潰して擂り潰せば終わる戦でございました」
シンは苦い薬を与えられた子供のような顔をした。
「相も変わらずおもしろみのないやつだな」
「私にはこの期に及んでおかしみを失わないあなたの方が奇異におもいます」
ローゲンは自身の右目に触れる。ローゲンは草の国に最初からいた臣下ではない。元はシンによって攻め滅ぼされた衣の国の者だ。テン・ルイに敗れ片目を奪われ、祖国を失い、軍門に降るか死かを突き付けられてシンの元に降った。
シンとて当時の腹心をローゲンに殺されている。憎い仇であるはずのローゲンを前にして飄々としていられるシンの心情がローゲンにはわからない。
多分当人に訊けばローゲンを指さして「よりおもしろい玩具が手に入ったのだ。犠牲を払った価値はあっただろう?」と答えるのだろう。理解に苦しむ。
「丁度いい。次の戦に同行してもらいたい。貴様、疲労はどうだ?」
「私はともかく兵馬の方は少しばかり休ませたほうがよいでしょう。後衛としてならば」
シンは頷いた。「全体の指揮は誰が?」「俺が取る」ローゲンはもしも自分が裏切ればシンを挟撃することができるなと少し考えた。考えたがすぐにそれが無意味であることに思い至った。草の国の戦力は壊獣に寄るものが大きい。喰の魔法の使い手であるシンは、その気になれば壊獣の指揮権を他の人間から奪い返すことができる。
見透かしたような視線がローゲンを覗き込む。
「おまえのそういう覇気のある部分は好きだが、いまは俺に協力してくれ。頼む」
「御意。元より命令すればよろしい。私はあなたの爪牙なのですから」
シンはもう一度「つまらんやつだな」と呟いた。
兎に角、後方にローゲンを置くことでアゼルに対する憂いをかなり小さくすることができた。いつ何時なにを仕出かすかわからないアゼルではあるが後方に監視の目を置くことができれば行動を抑制できるはずだ。可能ならば主力としてアゼルの『炎』を使いたいが、そこまでの協力は望めないだろう。
使えてもあの女が協力するのは一度か二度。
「シン王」
振り返るとキ・シガが両手に布を被せたなにかを持って歩いてくるところだった。
「なんだ」
「今朝方、ゼタからこれが届けられました」
キ・シガが布を外した。
その下から現れたのは、人間の首だった。拷問を受けたのか、表情はひどく歪んだ顔つきで固まっている。耳と鼻が切り取られている。血臭が鼻をかすめてシンは眉を顰めた。
書状が添えられていて、シンの手がそれを取る。目を通すなり、小首を傾げてくしゃりと握りつぶした。
「お前、俺に断りをいれずに使者を出したのか?」
キ・シガは神妙な顔をして頷いた。
「はい。ん、ああ、いえ、その言い方は正確ではないかもしれませんね。スパイ。元よりあちらの国の中に入れていた斥候、というか“協力者”です」
「?」
「こちらの国での商売を優遇することを条件に、あちらの国の動向を伝えて貰っていました」
「具体的には」
「脱税の見逃し」
シンは目頭を押さえた。
「だからそういうことは最低でも一言俺の耳に入れろ……」
「反対されない自信がなかったものですから」
キ・シガはぺろりと舌を出した。
その舌を引き抜いてやりたい衝動に駆られながら「そのことからなにかわかることはあるか」と尋ねてみる。
「一つだけ」
「なんだ」
「敵の目的は帝位ではありません」
「は?」
思わず間の抜けた声が出た。わざわざ皇帝ガ・レンを倒しておいて、皇帝の椅子が目的ではない? シンは脳裏に他の可能性が駆け抜けて、すぐさま棄却されていく。確かに王の国は大陸中央部に位置しており、多くの国に面している交易の要だ。水はけもよく地質も優れている。農産物の最大の産地である翅の国や、広大な平野を持つ草の国ほどでないにしろ、それに次ぐ生産力を持っている。覇王の根城だけあって武器・防具の研究も盛んにおこなわれてきた。手中に収める価値は高い。
だが皇帝を殺してその地を奪い取れば、皇帝の臣下である諸侯の反感を買う。実際にシンが軍を起こし、ロクトウがそれに協調している。南のユ・メイがどうでるかは使者として送ったナラを待っている。協力を受けられるかはわからないが、静観はして貰えるだろう。
新たな皇帝を名乗れば諸侯の混乱を招くことができる。隷属するか、反発するか。仮にであっても帝に逆らうことに対して兵の士気が乱れもするだろう。
「帝位が目的ではない」
「はい。もう少し詳しく話しましょう」
キ・シガは唇を舌で湿らせた。
「先ず“なぜそう思ったのか?”。これはこの首の主が人の合間で立ち回ることを得意とする典型的な小物だからです。こういった人物は、大きな組織を運営する上で、ある種の不可欠なモノです。部門間での連絡を潤滑にする、やり取りを円滑化し、様々な物事をやりやすくする、そういうことに特化した人物でした。ですが、ゼタはそれを容赦なく殺しました」
「ゼタは組織を潤滑かつ円滑に運営する気がない」
「そういうことです。そしてゼタはあなたの兄弟を片端から殺していますが、一人だけ殺害を間逃れた人物がいます」
「アゼルだろう? 即座に国を見限って逃げた。侵略初期の混乱の中であいつを追うのは難しかっただろうな」
「違います。未だに国内に留まりながら殺害を間逃れている皇族が一人だけいるのです」
「誰だ?」
「ナ・カイ=クル=ナハル」
「カイ姉?」
シンは顎に手を当てて少しだけ考えた。
ナ・カイ=クル=ナハルはシンにとって印象の薄い人物だ。確かシンが五つの時に顔をあわせて適当な雑談をした覚えがある。もっと上の姉に連れられてその顔色を犬のように窺っていた。こっそりとシンに「ぼくみたいにはなるなよ」と耳打ちした。見目は常人並みだったし高等教育を受けている割に大して聡明な人物でもなかった。そのうち兄姉達の誰かに子宮を潰されたという噂だけが聞こえてきた。子孫を作れないカイには皇位継承権が与えられていない。市勢に流れて、そこでも閑職に追いやられていたはずだ。
で、あるならばゼタの意図は。
「カイ姉を傀儡の皇帝に立てて、裏から操ろうという腹か」
「どうやらそのようですね。ですが、あなたにとって僥倖なことが一つだけあります」
「なんだ」
「ナ・カイは帝位に着くことを拒んでいます」
「ほう」
シンはカイのことを見直した。
死体だらけの宮中にありながらゼタを拒んでいる。気骨のある女だと感じた。
が、実態はまったく異なっていた。
「彼女は“そんな重責ぼくにはごめんだ、なんのために市勢に流れたと思ってるんだよ。あらゆる責任から逃れておもしろおかしく生きるためだぞ!”と言っているようですね」
「……」
無責任にも聞こえるが、無理もないことだろう。
そのためにカイは子宮を潰されたのだ。いまさらになって帝になれと言われても、ひどく困惑したに違いない。
それからシンはカイのことをライと比較し、少し愉快な気持ちになった。
確かにライの血を分けた姉だ。皇族の責務など弁えもしない、快楽主義者の狂言回し。そのくせ妙な部分で気骨のあるところまでそっくりだ。
「キ・シガ、おまえは俺がゼタを攻めることについてどう考えている?」
「思ったままを言っても?」
「そのためにおまえを傍に置いている」
「では」
キ・シガはすぅと息を吸って、言葉をまとめて、吐き出した。
「ゼタと争うのは被害が大きいのでやめにしましょう。私ならば先にロクトウを始末します」
「……」
「ゼタは確かに王の国を取りました。しかしまだ地盤は脆く、纏め上げるにはそれなりの時間を要するものと思われます。よって放置しても、しばらくは我々に影響はありません。ロクトウを先に始末すれば、わき腹を刺される憂いなく次に西方のゼタに取り掛かることができます」
「時勢は無視するわけか」
ゼタは皇帝ガ・レンを討った。シンがここで兵をあげれば、朝敵への報復を謳い大っぴらに王の国へと侵攻できる。将兵の士気も今ならば高い。民の信も得られる。
キ・シガは首を振った。
「すべて罠です。時代があなたを殺すための罠です。あなたはこの戦に勝利しても必ず窮地に陥ります」
「そうか」
「あ、信じていませんね?」
キ・シガが不服そうに目を細めてシンを見る。
シンは苦笑して「いいや、おまえの言う通りだろうよ。だが不甲斐ない兄や姉達だが、それでもやつらは俺の兄弟なのだ」と言った。
「……なるほど」
「尤も、俺にとって兄や姉などどうでもいい。だが兵や民はそう思わない。兄弟の仇を取らずにロクトウとの諍いを優先すれば、民の多くは俺を侮るだろう。長期的にみればその損失の方が大きい、と俺は見ている。危ない橋ではあるがな。どうだ。俺を止めるか」
シンは真剣な目でキ・シガを見た。熟慮の上でシンはいまの選択を行っている。
キ・シガはシンの目を見つめ返し、やがて小さく首を横に振った。
「いえ、私の短慮であったかもしれません。お許しください」
「すまないな」
「シン王、一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「なぜシン王はそこまでロクトウを憎んでいらっしゃるのですか」
シンは少しだけ考えて、自分の中で言葉を纏めた。
「俺が六つの頃に王の国の外れで水鏡義塾という、流人のやっている私塾に通っていたことがあるのだ」
「はい?」
思いがけない名前が出てきて、キ・シガは間抜けな声を出した。
「そこに神懸かって聡明なアズ族の女子がいた。一教われば十を学び、百を考える。俺など及びもつかん神童だった。その女子が、ある日突然塾にこなくなった。事情を訊けば、高位の役人に金で買われたという」
「あの、シン王、もしやそれは……」
「どうなったかは想像に難くない。奴隷として無理な奉仕をさせられたか、あるいは暴力の捌け口として身体と精神を壊した、そんなところだろう。幼かった俺にも、あの頭脳の持ち主がそんな馬鹿げたことのために使い捨てられてはならないことはわかった」
「え、ええと……」
「最初の問いの答えだ。灯の国が官位を金で買えるという旧来の悪習を引き継いでいるからだ。能力のある人間が位につけず、金と血筋、家柄だけは立派な無能が蔓延っている。俺にはそれが許せんのだ」
だから草の国では役人の採用の際に筆記試験を設けている、とシンは付け足す。
簡単な面談もあるが試験の点数の方を重視している。ちなみにその筆記試験は百点満点中で十点も取れればいい方という内容だ。それだけこの世界の学力の水準は低いともいえる。
余談だが、その中で唯一筆記試験を満点で突破したのが、キ・シガだった。シンは面接官や側近達の反対を押し切り、即断でキ・シガの登用を決定した。
(あの、シン王、その少女は……)
キ・シガは扇子で顔を隠す。
口の中だけで呟く。
(その少女は、殴られすぎて骨が砕けて顔の造作こそ随分変わってしまったし、妙な矮躯となりましたが、自分の能力を生かせる場を得てどうにかそこそこ幸せに暮らしていますよ……?)
やがてナラが戻ってきた。
ユ・メイからの書状をシンに献上する。シンはそれを開き、「俺は字が書けないから代筆で勘弁してくれ」から始まるその内容を見て少し笑った。
「……よくやってくれた」
ナラを労う。書状の中には、ユ・メイが参戦し、シンと共にゼタと戦う旨が記されていた。