アゼル=ヤグ=ナハル 1
草の国北西部——蒼旗賊の掃討を終えて、シンは幕舎の中で身を休めていた。
「シン王、し、失礼いたします」
緊張した声が外から聞こえ、一人の若い兵が入ってきた。シンが体を起こす。
「なんだ」
「あの……、その……」
やたらとおどおどとした態度の連絡の兵士に、シンは少し苛立つ。
「息を整えろ。はっきりと話せ」
「は、はい」
まじめな兵士は二度ほど深く息を吸い込む。それから「アゼル=ヤグ=ナハル様が、シン王の姉上がいらしました。シン王に会談を申し出ております」と言った。
「アゼル?」
シンは露骨に顔を顰めた。
アゼル=ヤグ=ナハル。覇王の十五番目の子供で、八番目の娘だ。ロクトウにとっても孫娘にあたる。王の国の大将軍の地位にある女傑だ。数ある魔法の中でも最も破壊力、殲滅力の高いと言われている「炎の魔法」を宿している。
(あのバカ姉、レン兄の警護はどうした)
と、最初にシンは思う。
アゼルのことを思い出す。
覇王が大陸を統一して最初に行ったことは、「魔法の簒奪」だった。魔法は基本的には子々孫々に血統によって伝えられるものだ。よって、覇王はその使い手が女であれば自分の妻として迎え入れ、子を成させ、使い手が男であれば自分の囲う妻と交わらせて子を成させた。そのため覇王の子の中には、覇王の子とされながらもその遺伝子の混じらないものが何人かいる。彼らの出生のことは秘匿されてはいたが、アゼルのように元々の使い手が男であった「炎の魔法」を継いでしまったために覇王の血が混じらないことが露見してしまい、そのことが公然の秘密とされていたものも何人かいた。
覇王自身が態度に示さずとも周囲の者の扱いには差が出る(むしろ覇王は強力な魔法を得て生まれた彼らをよく愛した)。彼ら、彼女らは正統な王子達に対して劣等感を抱きながら暮らしてきた。
その劣等感が態度、厭世観、そして周囲の人間を侮蔑する思考へと噴出していった人間がアゼル=ヤグ=ナハルという女だ。
「お会いになられますか」
「ああ。邪険にするわけにもいくまい。テン・ルイを呼んでくれ」
「シン王お一人と話したいとのことでしたが」
「さすがにあの女狐に一人で会う気にはなれん」
兵がテン・ルイを呼びに行き、テン・ルイはすぐにやってきた。
「あのアゼル殿が、シン王に会談を?」
テン・ルイも怪訝な顔をする。
「俺もわけがわからん。とにかく、話くらいは聞いてみよう」
兵に言い、アゼルを幕舎の中に導き入れる。彼女は入口の近くに立ち、品定めするようにシンとテン・ルイを見た。
長い黒髪の女、色のいい唇に。目じりが低くどこか眠たげに見える。右目の切れ端のほうに泣き黒子がある。形のいい胸を際立たせるような、体の線に沿った紅色の着物を着ている。
通りをいけば十人中十人が振り返るような、艶やかな美女だった。
「シンくん。久しぶりやね。元気やった?」
ここにきたことがなんでもないことかのように尋ねる。シンは舌打ちしそうになる。
「前置きはいい。本題はなんだ。レン兄の警護を留守にしてまで、なにをしにきた」
「怖い顔。嫌やわあ」
唇に指をあててけらけらと笑い、その表情のままで「レン兄、死んだで」と言った。
シンには一瞬、アゼルがなにを言っているのかわからなかった。内容を呑み込むまでに時間を要した。唖然とした表情のままで呻くように「……死んだ?」とその内容を反復した。
「そう。馬の国の王様、レ・ゼタ言うたっけ? が、秘密裏に兵隊をよーさん王の国の中にいれてたなぁ。気いついたときには大わらわやったわ。あっという間にレン兄のとこまで行って」
アゼルは手刀を首にあて、とんとん、と軽くたたいた。
「すぱん」
それから舌を出す。斬首された遺体が筋肉の統制を失ってそうするように。
「首は門前に吊り下げられて晒されとったよ。長生きはせーへんと思てたけど、まさかあないな終わり方するとはなぁ」
シンは奥歯を噛んだ。
「お前が兵を入れたのか?」
脇に立つテン・ルイが右手をさりげなく腰の短剣の鞘に触れさせる。幕舎の中なのでいつもの長槍は持ち込んでいない。アゼルはそれを見咎めて眉間に皺を寄せた。
「冗談やめーや。それやったらうちはいまごろ『皇帝の位』でふんぞり返っとるわ。あんたと一緒や。先を越されたんや」
「……」
「主犯が誰かはわからへん。想像はつくけどね。あのガキ、舐めた真似するわぁ。自分のやったことわかっとるんやろか。……なぁ、煙草ある?」
「ない」
「なんやつまらんわぁ」
アゼルは着物の内側に手を突っ込んで胸元から紙巻きたばこを取り出した。指先に「炎の魔法」を使う。煙草の先に火をつける。煙を吸い、吐き出す。
「ふう。人心地ついたわ」
シンは改めて、この女はその気になればこのあたり一帯の兵士のいる幕舎を丸ごと火炎に包むことができることを思う。アゼルはシンとテン・ルイから十歩分の距離を置いている。シンのシチセイ、そしてテン・ルイの剣の間合いと自分の魔法の発動時間を考慮しての距離だ。あるいはテン・ルイならばアゼルの魔法よりも早く彼女を切ることができるかもしれないが。
「そういうわけや。うち、いま行くところないねん。しばらくシンくんのところでお世話になるわ」
「出ていけ」
「つれないわぁ。あんたのところの穀倉庫に片っ端から火ぃつけてしまいそうになるなぁ」
口調を変えずにさらりと脅迫する。シンの心が少しだけテン・ルイとシチセイを使って彼女をこの場で殺すことに傾く。シンは額を揉み解した。(戦力としてならばこの女は大陸でも最強。ゼタとの戦いに備えての切り札の一つにはなるか……) 悟られないようにため息を吐く。
もっともアゼルはロクトウの孫娘だ。ゼタとの戦いには使えても、そののちに控えるロクトウとの戦いまで彼女を保持することには不安要素が大きい。どこで切り捨てるか。
「いいだろう。やむを得まい。しばらく貴様を飼ってやる」。
「うん、ありがとう」
アゼルが微笑む。
そうすることがシンの神経を逆撫ですることができるとわかっていての微笑みだった。
「じゃあ、うちにも幕舎一個頂戴ね。あ、ちゃんとお礼はするから」
アゼルは自分の引き連れてきた六台の荷馬車のうちの一台指さした。
「あれ、一個あげるわ」
それには王の国がレ・ゼタに襲われ、混乱の最中にあったときに持ち出してきた金銀、宝石などといった財宝の類が積まれていた。アゼルの私財だけではない。かの国の国庫や逃げ惑う民が放りだしたものを片端から盗んできたものだった。
シンは最初呆気にとられてそれを見ていた。
このバカ女は、大将軍という高い位にありながら皇帝を守ることも民を救うこともせずに、混乱する街の中で火事場泥棒に勤しんだのだ。
しばらくしてシンは自分の中に、はっきりとした殺意が固まっていくのがわかった。シンはアゼルを殺すことを決意した。どんな手段を取ることとなるのか、どんな道筋を辿るのかはわからない。だが必ず殺す。なにがあっても殺す。
この女が生きていることは、シンのためにも、すべての公の人々のためにもならない。
そのことがはっきりとわかった。
だが口ではそれと反対に「ああ、頂いておこう」と言った。殺すと決めてしまえば却ってシンの心は楽になった。精々殺意を隠し、油断させておこうと思う。
「それにしても」
アゼルは目を細めた。
「羨ましいわぁ。あんたにとっては随分都合のええことになったね。レン兄殺すのに、大義名分用意するのが大変やったんやろ? いまやったら不当に帝位を簒奪したゼタを大手振って倒せる。あんたが次の皇帝になるんは難しいことやないやろ。あやかりたいもんやわ」
シンは(ダニめ)と、アゼルのことを内心で罵倒する。
実際にアゼルの言う通り、シンにとってこの状況は都合がいい。
だがシンはそのことを自分が喜んでいないことに気づいた。
「ん。ほんなら、あのへんのやつ適当に使わせてもらうね」
アゼルが言い、傍にあった幕舎に入っていき中の兵士を追い出す。
「……これから、どうなさいますか」
テン・ルイが訊ねる。シンは目を閉じて黙考する。
皇帝、ガ・レン=アズ=ナハルが死んだ。馬の国の王、レ・ゼタが殺した。大将軍アゼル=ヤグ=ナハルがここにいる。彼女がすぐに逃げ出したために、おそらくは馬の国の軍隊はまともな損傷を受けていない。仮にここからシンがゼタを強襲したとしても、大して不意はつけないだろう。もしもアゼルが王の国の軍隊ともに奮戦していたとなれば、馬の国の軍隊も相応の傷を負っていたはずなのでその選択もなくはなかったが。
シンは目を開けた。
「少し情報を集めよう。軍を動かすのはそれからだ。ゼタは倒す。そのためにもまずはロクトウと停戦の協定を結ぶ。北方の憂いが残るままでは戦えん。ユ・メイとも対話の必要があるだろう」
目頭を押さえる。
考えをまとめていると、シンは自分が、レンが死んだことを悲しんでいることが徐々にわかってきた。それを意外に思い、シンは空を見上げた。
アゼルは幕舎の中から元あったあらゆるものを放り出しだ。
(ああ。そういえば言い忘れとったなぁ。馬の国の兵隊の中に、あんたやうちでも勝てへんようなすごいのが一匹おったよって)
別にわざわざ伝えにいくような内容でもない。それを知らないシンが初手を間違えて殺されれば、それもまた一興だとアゼルは思う。
空になった幕舎の中に新しい寝台だけを持ち込むと、荷馬車の横で震えながら蹲っていた少女の手を引いて中に連れ込んだ。寝台に座らせて、手を握り、ゆっくりと抱きしめる。胸の中で震える少女の耳元で「怖がらんでええ。大丈夫や。あんたのことはうちが絶対守ったる」と囁く。その表情にシンと話していたときのような軽薄な雰囲気はない。
アゼルに抱かれている、その少女の名はエ・キリ=ヤグ=ナハル。
覇王の二十六番目の子供。十五番目——末の娘になる。
同じ胎から生まれたアゼルの妹だ。