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死ノ国  作者: 月島 真昼
一章
21/110

ユーリーン=アスナイ 1

 


 ギ・リョクの別荘にて一通りの準備を整えたライ達は、翅の街北西部に位置する仙莱山に登り始めた。アスナイ家の私兵達が続く。木々に囲まれて鬱蒼とした山脈地帯ではあるが、人の往来があるおかげか道は踏み慣らされている。らせん状に作られた道々は傾斜が緩く、馬の足でもなんとか通れなくはない。

「……」

 ユーリーンの瞳が木々の間を見る。昼間を選んだためにまだ陽光が差し込んでいて、幾分薄暗いものの視界は確保されている。伏兵の気配はないが、巧妙に隠れていれば察知するのは相当に難しいだろう。

 横合いから奇襲を受ければ一溜りもない地形だった。おそらくはこの道々はそのように意図して作られているはずだ。しかしいまのところ自分たちの進軍を遮るものはなにもない。そのことを却って不気味に思う。

 視線を空に移すと暗い雲が南の空から流れてきている。一雨来そうな気配があった。

 彼女の腕の間に収まったライが小さく欠伸をする。

「ギ・リョク、ついてきてくれなかったね」

「当然だろう。彼女は武人ではない。戦地に同行するのは危険すぎる」

「そうだけど、いてくれたら随分交渉が楽になったと思うんだ」

 一つだけ頼みがある、とギ・リョクは言った。「サ・カクをあたしの前に連れてこい。正式な依頼だ。報酬も出す。任せた」肉食獣の笑みをしていた。サ・カクとやらはどう食い散らかされるのだろう。考えるのが少し怖かった。

「むしろ私としては、こいつがついてきたことが意外だったがな」

 ユーリーンはハリグモを見て言った。

 ハリグモが優雅な笑みを作る。

「なんだ。俺がいることが不満か?」

「意図を掴み兼ねている」

「協力してやろうと言っているのだ。おとなしく受けておけ」

「いまは恩を売るからそのうち返してね! って解釈でいい?」

「平たく言えばそういうことだ」

「ありがとう。借りておくね」

 ユーリーンの視線が山頂の方角を見た。目の端が険しくなる。

「どうしたの?」

「悲鳴が聞こえた」

 ライには聞こえなかった。「様子を見てくる」ユーリーンが馬を降りた。「おわ、あ、っとと」途端に均衡を崩したライが落馬しそうになるのを支えて、降りさせる。ハリグモを見て「しばらく任せる」と言う。ハリグモが頷いて、ライを受け取る。ユーリーンは傾斜の急な木々の合間をすり抜けるようにして山道を登っていく。

「待って、一人は危ないよ?」

 叫んだライの声は届かなかったようだ。

「猿かあいつは」

 あっという間に見えなくなったユーリーンの背中を見送って、ハリグモが呟く。

「僕らも急ごう。さ、早く!」

「俺の行軍は荒っぽいぞ?」

 ハリグモが意地悪い口調で言う。ライが頷く。ハリグモは口端を吊り上げて、馬の尻を叩いた。悲鳴に似た嘶き声をあげて、体つきの太い軍馬が山間を駆け抜ける。ハリグモが剣を抜いた。走りながら行軍に邪魔な木の枝を切り払う。私兵達はついてくるのがやっとで、徐々に引き離されていく。



 風のような速さで斜面を登り切ったユーリーンは、ひらけた場所に出た。土や藁で作られた家々が並んでいるのを見つめる。その中に幾らかには火がついて焼けている。煙を吐き出していた。雨がぱらついてきたのでこれ以上燃え広がる心配はなさそうだ。十中八九、ここが蒼旗賊の里だろう。

 周囲の地面には死体が転がっていた。ある死体の全身には弓矢が刺さっている。急所を射ている矢の数は一本や二本ではない。明らかに絶命した後にも矢を放っている。射的の的にして遊んだのだろう。別の死体は重い車輪で轢き潰されている。何度も死体の上を通った痕跡が残っていた。女子供でさえ、そういった残酷な殺され方をしていた。ここを襲ったのは随分悪趣味な連中のようだ。

 ユーリーンは慎重にあたりを見渡し、この虐殺を行ったものが周囲にいないことを確認して死体の傍に屈みこんだ。轢殺されている。全身の骨が砕けていた。死因は内臓破裂だろう。口から血を吐いている。

(おそらくは鉄の国の戦車隊。だがこの重量は、戦車にしても大きすぎやしないか)

 この大陸における一般的な戦車とは、馬によって、車輪のついた橇を轢かせて、移動と足場を両立させて槍や弓を引くための兵器だ。馬上よりも足場が安定するため高い攻撃力を誇る反面、進路転換が難しくともすれば突撃一辺倒となってしまう弱点を持っている。

 地面を見る。轍の数から推察して、この場所を襲った戦車の数は二両か三両程度のはず。とてもではないがここまでの虐殺を行える数ではない。それどころか数を頼みにして反撃を受ければ撃退されていてもおかしくはない。

 ユーリーンは気配を消しつつ歩みを進める。どこかで悲鳴があがるのを耳にする。足音を立てずに忍び寄る。年若い女が一人、足を撃たれて血を流していた。ユーリーンは民家の影から様子を窺う。下卑た笑みを浮かべた三人の男達が女に近づいていく。その背後には、鈍色の四角い鉄の塊がある。(戦車、か。あれが?) それは少なくともユーリーンの知識の中にある戦車とはまったく異なった兵器だった。四頭の馬の首だけが見える。上面と左右に馬を守るように囲いがついている。

 兵士が、足に傷を負って動けない女の手を掴む。ユーリーンは小さく息を吸い込み、言った。

「やめろ。それは非戦闘員だ。手を出すのは隊規に反するはずだ」

 民家の影から姿を表す。白けた顔でユーリーンを見た兵士が、彼女の整った顔立ちを見て再び性欲の表に出た下劣な種類の笑みを作る。別の兵士が女を強引に立たせ戦車に引きずり込もうとしていた。ユーリーンは腰布から短剣を抜いて、投げた。それは回転しながら飛び、女の手を引いていた兵士の肘へと刺さった。「う、お?」なにが起こったのかもわからないまま力が抜けて手が離れる。神経が切れたのだ。

「警告はした」

 自分で思っているよりも怜悧な声が出た。残る二人の男達が、女を放り出して戦車の中へと逃げ込む。ユーリーンが短剣を投げる。男が咄嗟に頭を下げて、短剣は戦車の側面装甲にあたる。傷一つ付かない。男達が上面にある開閉口を開けて戦車の中に身を滑り込ませる。ユーリーンの投げた短剣が、中に入る寸前だった男の背中にあたる。「ぎゃっ」と短い悲鳴があがる。

「どうした?」

 最初から戦車の中にいた男が仰々しく帰ってきた二人を振り返る。

「敵だ」

 背中に刺さった短剣を引き抜き、応急手当をする。潜望鏡を覗き、戦車の周囲を見渡す。

 ユーリーンは民家の影に身を隠した。戦車の側面から弩が放たれた。ユーリーンの隠れた壁面と彼女の真横を抜けて地面を穿つ。(車体の中からこちらが見えているのか?) ユーリーンは知る由もなかったが、車体上面に潜望鏡と呼ばれる、鏡を使った覗き窓が突き出されていた。外から入る光を鏡によって下向きに映し出し、それをさらにもう一枚の鏡によって車内に届ける仕組みだ。円筒状の黒い棒のような形をしている。その視界は決して広くはなかったが、ユーリーン一人の動きを追うのはさほど難しくはない。

 ユーリーンは腰布の中からいくつかの薬品を取り出す。ごりごりと音を立てて戦車が動き出すのを聞いて、民家の影から飛び出す。潜望鏡がユーリーンの動きを追い、弩がそれに追随する。ユーリーンが腰から抜きはらった剣で矢を弾く。再び建物の影に隠れる。(あれか)潜望鏡が回転してユーリーンを追うのを見届ける。死角を考える。

「ははは、化け物かあの女」

 戦車兵達の声には余裕がある。いかに個人の武勇が優れていても厚さ八十ミリの鉄板を貫通することはないことを知っているからだ。この鋼の巨獣の中にいる限り、彼らを脅かすものはなにもない。

「しかしどうする? あの動き、弩では追い切れないぞ」

「いい手がある」

 潜望鏡が足を撃たれて転倒したままの女に向いた。総舵手が車輪の方向を左へと変える。同時に馬を守るための囲いの右側から金属を轢き擦るような嫌な音が響いた。音を嫌がった馬がそれを避けるように左によろける。馬に牽引された戦車がゆっくりと、倒れた女に向かって動いた。「っ……」ユーリーンは咄嗟に民家の影から飛び出す。総重量数トンに及ぶ鋼鉄の巨体が一人の人間に向けて殺到しようとしていた。ユーリーンは咄嗟に彼女を抱き、抱えて跳ぶ。すぐ隣を鈍色の車体が走り抜ける。ユーリーンはぬかるんだ地面を転がって泥だらけになる。そしてその動きを潜望鏡が正確に追っている。

「この距離では外さん」

 弩から矢が放たれた。一か八か、ユーリーンが剣を掲げて盾にしようとする。先ほどのように振り払うには近すぎたし、女一人を抱えていては体勢も不十分だった。幾つかの数がある射座のどれから狙われているのかの見当がつかなかった。鏃の先が銀の光を放った。ユーリーンの眉間を目掛けて、それが飛来する。致死の間合い。ぐいと、女がユーリーンを抱き寄せた。自分の体を引き起こした。女の背中に矢が吸い込まれる。肩の付け根にあたる。悲鳴をあげる。戦車の中で兵士が舌打ちをする。

 ユーリーンは女を民家の中に押し込む。「無茶を……」女は脂汗を浮かべたまま微笑んで見せる。彼女を横たえて、ユーリーンは外へ出た。姿を見せることで戦車の注意を引き付ける。戦車の右方から飛び出したユーリーンは、その前面で姿勢を低くして屈みこんだ。彼女の姿を追っていた潜望鏡が、せわしなく回転する。ユーリーンを見失っているのだ。

 馬とそれを守るための防矢屋根が邪魔になって、戦車の前面下方は死角になっていた。

「隊長。対象、消失しました」

「隠れたか?」

「いえ、目の前で突然」

「なるほど、だがどこにもいないということは」

 男が戦車前面の装甲を蹴りつけた。驚いた馬達が前方に向けて急進する。

「そこにいるということだろう?」

 潜望鏡の死角など、彼は当然知っている。

 車輪が回る。人間を轢殺するのに十分な重量を持つ戦車がユーリーンに向けて突進する。

 ユーリーンは長い息を吐いた。死の重圧を前にして、呼吸を整える。感情のない瞳で戦車を見る。戦車とユーリーンが交差する。その瞬間、ユーリーンは突進してくる馬の首に飛びついた。反動を利用して馬体に足をかける。背によじ登る。

(轢き潰した感触がない。誤ったか?)

 戦車長が指示を出し、観測手が潜望鏡を回転させてユーリーンの姿を探す。視界が外側に向いているのを確認して、ユーリーンは防矢屋根を伝い、戦車の上面に登った。ユーリーンは足音を立てない。戦車兵達は静かに歩くユーリーンが自分たちの真上にいることに気づけない。見当違いの建物の影を探している。ユーリーンは潜望鏡を蹴り飛ばす。潜望鏡の内部で鏡が割れる。外の景色が映らなくなる。石かなにかを当てられて壊されたのだと観測手は思う。潜望鏡を交換しようと取り外した。戦車の内と外が小さな穴によって繋がる。

 ユーリーンはその穴の中に、小さな筒を落とした。ため息を吐く。「毒龍」の吐息が戦車の内部に滑り落ちていった。ぱりんと音を立てて筒が砕ける。そこから煙が上がる。筒の中身は硫黄の結晶と塩酸だ。筒自体が砕けたことで二つの物質が混じり合う。「なんだこれ?」観測手がそれを確認しようとして、それの傍に屈みこんだ。そしてそのまま昏倒した。

「お、おい。どうした?」

 揺り起こそうと観測手に近づいた総舵手もまたその場で昏倒する。卵が腐ったような匂いが戦車の中に満ちる。ユーリーンが落とした筒から、塩酸と硫黄が混じりあって、硫化水素が発生している。硫化水素は肺中のミトコンドリアに作用して酸素の運搬を阻害する。呼吸中枢が麻痺して昏倒する。高濃度のものを吸いこめばすぐに死に至る。

「な、なんだこれ」

 戦車内部は通気性が非常に悪い。弓矢を撃つための穴からわずかに漏れ出すものの、発生し続ける硫化水素は容易に戦車内部を満たしていく。戦車兵達は開閉口を開けて脱出しようとした。だがそれは開かなかった。ユーリーンが上部から踏みつけているからだ。頑丈に作られた開閉口は重く、外側から押さえつけられれば簡単には開かない。

「あ、あけてくれ! 助けてくれ!」

 断続的に開閉口が下から叩かれる。

 ユーリーンは迷う。

「あれは見逃してこれは殺すのか」

 自問するように呟く。

 ユーリーンは灯の国でのジギ族を思い出していた。同じようにか弱きものをいたぶって殺した彼ら。若い娘を慰み者にして最後には残酷な手段で命を奪った。それでもユーリーンは彼らの命を奪わなかった。

 周囲を見渡す。車輪に轢き潰されて頭を割った男がいた。頭蓋骨が割れて脳漿が零れている。弓矢が無数につき刺さり全身から血を流している子供がいた。手足を磔にされて両の目と舌、それから心臓に矢柄の生えた女がいた。

 あれとこれとなにが違う? ……わかっている。なにも違わない。違うのはユーリーンを取り巻く状況だけだ。この場にはライがいない。ユーリーンは一人だ。彼らを見逃してもう一度この戦車と戦闘になった際に、ユーリーンには彼らを無力化する手段がない。同じ手は通用しないだろう。そして分厚い装甲がユーリーンの剣と弓の技を阻む。高い確率で殺される。

 足元からは「助けてくれ」「これからは心を入れ替えるから」「残酷なことはもうしない」「謝罪する」「死者を弔う」「有り金を全部渡す」「許してくれ」哀願する声があがる。

 迷った末にユーリーンは開閉口から足を退けなかった。彼らを殺すことを選んだ。女を隠した民家を見る。もう一度戦闘になれば巻き込んでしまうかもしれない。そんな言い訳を思いつく。だけどそれが真実の理由ではないことを彼女は自覚していた。小さく首を振る。

 自分は恐怖に負けたのだ、とユーリーンは思った。

 もしも彼女にすべてを左右するだけの力があって、本当に彼らの殺傷与奪の権限を握っていたならユーリーンは彼らを見逃しただろう。そしてもう一度無力な誰かを傷つけようとした際に、命を奪う。だけど実際のユーリーンはただの小娘に過ぎず、彼女の中の恐怖心はもう一度この鋼の巨獣と戦うことを拒んだ。やがて静かになった。声が止み、開閉口を叩く音は聞こえなくなった。ユーリーンは足を離した。開閉口が開くことはなかった。

 雨がユーリーンを濡らした。目じりに落ちた水滴が頬を伝う。表情が強張っている。泣いているようにも見えたが、その顔は泥で汚れていたから本当に泣いていたのかはわからない。

 ユーリーンは戦車の上面から降りて、女を隠した民家へと近づいていく。

 何かに救いを求めるような足取りだった。




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