ギ・リョク 4
翌朝の早くにギ・リョクが宿を訪ねてきた。「どうしてここがわかったのだ」ユーリーンが怪訝な顔で尋ねる。「この街のことであたしにわからないことなんてないよ」ギ・リョクが挑発的に口端を吊り上げて嘯く。ユーリーンは馬の世話をさせることのできる大きな宿を適当にあたったのだろうと解釈した。
ライが寝ぼけ眼を擦りながらギ・リョクを見あげて「ひっ」と悲鳴を挙げた。
やりとりをしているうちに多少慣れたつもりでいたのだが“食われる”という第一印象はぬぐえていなかったらしい。怖れられることに慣れているギ・リョクがカラカラと笑う。
「ところで、あんたらなにやらかしたんだい?」
そう言って一枚の紙をひらりと見せる。
手配書だった。ライとユーリーン、それからハリグモの似顔絵が描かれている。写実的な書き方で、外見の特徴をよく掴んでいた。見つけ次第即刻通報するように。賞金までついていた。十万ウェン。ライは貴金属と比較して自分の首の方が安いのだなと思い、少し笑う。
「さすがシン王。手が早いな」
ユーリーンが感心する。「いいや、こりゃキ・シガの仕事だね」ギ・リョクが欠伸をして言った。「この絵はあいつの筆致だ」手配書をひらひらと翳す。描かれたライの顔が揺れる。
「キ・シガ」
「シン王の傍にいたあの小男か」
「なんだあいつ、男装してるのかい」
二人はギ・リョクを見た。
「女だよ、ありゃ」
「……」
「……」
シンの傍らにいたあの小男を思い出す。針金のように細い体つき。やけに鋭い目つきと、まるで存在感のない透明な声。嘲るような薄い笑みでくすくすと笑う仕草。
言われてみれば中性的な感じはしたかもしれない。
が、言われなければまったく気づかなかった。
「元々胸はないし、附子だから見まがうのも無理はないかもしれないね」
「知り合いなのか」
「同門だよ。お師匠の弟子さ」
「ふぅん」
「それにしてもハリグモ=ヤグなんて輩がこっちにきてるんだね」
「会う?」
「あん?」
ライが隣のユーリーンに目配せする。頷いたユーリーンがハリグモの部屋へ行き、彼を連れてきた。「なんですか」相も変わらず鋤を抱きしめたままで、ハリグモの昏い目がギ・リョクを一瞥する。ギ・リョクの大きな瞳は抱きかかえている鋤に注がれている。ハリグモは聞き分けのない子供を見るような目でギ・リョクを見返す。それはいまのきさまだろう、とユーリーンはよほど言おうかと迷った。
「……北方平定の英雄のハリグモかい?」
ハリグモ自身が何も言わなかったのでライが「たぶん、そのハリグモ」と言った。
「あんたら、とんでもない鬼札持ってるね」
「まあちょっと仲良くなっただけで別に僕の手札ってわけじゃないんだけどね」
「私はいまでもロクトウ様の麾下にいるつもりです」
ギ・リョクは「なるほどね」とだけ言い、鋤から目を逸らした。
「あんたら。翅の国に行くんだろう? こいつが出回ってて、どうやって関所を越えるつもりでいるんだい?」
灯の国と草の国との間にあったような、密入国の道があればよかったが土地勘のないライはそれを知らない。
「うーん、どうしよう」
ライは振り返ってユーリーンとハリグモを見た。この面子だと武力による強行突破以外の方法がない気がする。突破すること自体はできるかもしれないが、翅の国側の関所に引き渡しの要請が出されて、さらなる揉め事を呼ぶだろう。目頭を抑える。
大きな荷馬車がギ・リョクの背後からやってきた。
「乗りな。送ってやっから」
ギ・リョクの用意した荷馬車は雨風を凌ぐ屋根がついていた。
清算を済ませるときに宿屋の主人が憐れむような視線でライ達を見ていた。喰われちまったか、とでも言いたげだった。実際宿を出るときに主人は目を閉じて合掌してライ達を見送っていた。「僕たちほんとに食べられてないよね……?」とライは思わずユーリーンに尋ねた。ユーリーンはなにも言わなかった。ライは不安になった。
荷馬車に積まれて、一度屋敷の方に戻る。同じような馬車が三台あった。ライ達を乗せた他に農作物や木の箱に入った本、茶器。それからよくわからない紙類をわんさかと積み込む。緩衝材として藁を詰め込んでライ達の姿は完全に覆い隠された。「留守は任せたよ」ギ・リョクの声が響き、馬車が緩やかに動き出す。アスナイの家の私兵達がその周囲を固める。
「窮屈です。落ち着きません」
ハリグモが溢す。
抱きかかえたままの鋤が、揺れる度に荷馬車の壁にあたって音を立てる。壁越しにギ・リョクの舌打ちが聞こえた。
「わっ」
揺れた拍子に思わずライを庇ったユーリーンが、馬乗りの状態になった。乱雑に積まれた荷物がなにかの拍子に体を圧迫して、そのままの体勢で動けなくなる。緩衝材の藁のおかげか重たくはなかったし、体を痛めることもなかったが。「す、すまない」「別に大丈夫だけど」二人は見つめあう。ユーリーンが頬を薄赤くする。ライが微笑む。
「こうやってみると、きれいな顔してるよね。ユーリーンって」
手を伸ばして頬に触れる。
別に他意はなかった。きれいなものに触れてみたかっただけだ。
紅潮している頬の熱さに触れられるのが気恥ずかしくてユーリーンが身を捩る。そうすると足の下のライの存在が嫌でも気になってくる。ますます頬が朱に染まる。顔を背ける。ライの指が頬から首筋に這う。鎖骨を撫でて、支えるように顎にあてられる。女の体に触りなれている手だった。唇にそっとあてられて、思わずユーリーンはその指がやわらかく咥えた。汗の味がした。舌で指に触れる。ライは少しだけ驚いてユーリーンを見ていたが、すぐに元の優しい微笑みに戻った。口の中でわずかに指を動かす。舌先を愛撫されてユーリーンが身を震わせる。
(な、ななな、なにをしているのだわたしは)
なんだかこれはとてもいけない気がする。
頭の中がふわふわして考えがまとまらないのだけど、ともかくなんだかとてもいけない。
ユーリーンは口を開けて頭をあげようとした。唾液が糸を引くのがわかった。「……やめちゃうの?」ライは甘い匂いのする微笑のままで小首を傾げた。美しい少年の、微睡むような弛緩した顔つき。ずるい、と思った。抗う気力が失われるのがわかる。
しばらくの時間を二人はそのまま過ごした。蜜月のような濃密な時間だった。
ユーリーンを我に返らせたのは外から聞こえてきたギ・リョクの声だった。「書物と茶器と作物だ」馬車が開かれ、兵が荷を検める。ある程度の藁が除かれる。驚いて身を固めたユーリーンをライが両手を回して優しく抱き留めた。それは肘を壁にぶつけて音を立てそうだったからなのだけれど。(あ、う) 声を殺しきれなくて思わずユーリーンはライの首に噛みついた。
外では関税が幾らかかる、そいつは高いね、最近税があがったのかい? その通りだ。近々戦があるだろう。楽しいね、とギ・リョクと関所の兵が話しているのが聞こえてくる。
兵が荷物の奥に不自然な藁の塊があるのに気づき、それを取り払おうとした。
「そいつに触らないでくんな」とギ・リョクが言った。兵が振り返る。「密輸品だよ」平然と宣う。「貴様」「キ・ヒコを呼んで来い。てめえじゃ話にならねえ」ギ・リョクが顎で示す。彼が戸惑っているうちに関所を任されている上官、キ・ヒコがやってくる。
「ああ、これはこれは。ギ・リョクさん。先日はどうも。とてもよいものを見せていただきました」
それは先日のライの舞を見物していた男の中の一人だった。
男色家で少年趣味の好事家。ギ・リョクは何度か彼にそういったことを生業にしている“品物”を斡旋していたし、彼から見返りとして関所を通る際に様々な優遇を受けていた。
「おう。てめえのところの兵士があたしの荷物に難癖をつけてきてな。荷は見せたってのに禁輸品を隠してるんじゃないかと疑って通してくれないんだよ」
「はぁ。それはいけませんな。おい、きみ。この馬車には禁輸品などなかったよ」
「え、で、ですが」
「そうか、君はそんなに前線に行きたいか。男児の誉れだものな。関所の管理だなんて君には幾分退屈すぎたか。いいぞ東の前線は。人がごみのように死ぬ。知っているかね? あちらだと死体は壊獣の餌として再利用されているのだよ」
死線に飽いた中年の男の目が。乾燥した笑みが。若い兵士を捉えた。それだけで彼は射竦められて動けなくなった。キ・ヒコは表情を緩めてギ・リョクに視線を戻した。
「失礼しました。ギ・リョクさん。あなたの馬車には禁輸品などなかったようです。どうぞ、お通りください」
「おう。手間取らせて悪かったな。また頼むぜ」
馬車が動き出した。
しばらくしてギ・リョクの声も他の兵士の声も聞こえなくなる。
ユーリーンはようやくライの首元から口を離した。「は、はぁ、はぁ」荒い息がついてでる。ユーリーンはいま自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ひどくみっともない顔を見せていることだけはなんとなくわかった。ライが両手をユーリーンの体からほどく。二人は見つめあい、どちらからともなく顔を寄せた。ゆっくりと目を閉じ、唇が触れ合おうとした。
そのとき、こんこん、と馬車の壁が裏側から叩かれた。ギ・リョクが「おい、国境超えたからもう出てきていいぞ」と言う。二人は弾かれたように体を離した。藁を隔てた向こうでハリグモが欠伸をした。
ユーリーンとライはしばらくの間、まともに口が聞けなかった。「……、なんかあったのかい?」様子を見かねたギ・リョクが尋ねると「ななななにもないぞ」「なんでもないよ!」びくっと肩を震わせて、二人とも過剰に反応した。それから互いに目を見合わせて、すぐに逸らす。ライの首筋には先刻まではなかった歯型が残っていた。「はあん」ギ・リョクがにやにやと二人を眺める。ライは努めてユーリーンやギ・リョクを見ないようにして、風景に視線をやる。
翅の国はなだらかな田園地帯がどこまでも広がっている美しい国だった。学究と農業の国と言われている。覇王の穀倉。ここで取れた茶葉などの農作物は質が良く高値で取引される。皇帝の庇護の元にあらゆる軍の出入りが禁止されていて、翅の国自身も軍隊を持っていない。一般の警邏隊が他の国に比べて少し強力な程度だ。
蒼旗賊にとっては実によい隠れ家だっただろう。
「ええと、その、このあとは」
「近くの街に寄るぞ。防寒具の面倒くらい見てやるよ」
「あ、ありがとう」
「ツケとくよ。あとでまとめて返してくれ」
ギ・リョクは挑発的に口端を吊り上げた。ライは反射的に目を逸らした。ギ・リョクに借りを作ると、あとあとろくなことにならないような気がする。けれど他に頼れるものもないのだ。おそるおそるハリグモを見る。まるで興味がなさそうにどこか遠くを見ている。
「えっと、そういえばハリグモは草の国を出てよかったの?」
「いまあそこにいても、私にできることはありませんから」
ハリグモが暗い目で言う。いまとなってはシンに迫ることはできない。傍らのテン・ルイと背後に引き連れる膨大な数の兵士、そして壊獣の群れがシンを守る。ハリグモの武勇がどれほどの威力をもっていても数の力の前に屈服する。
せめてシンが脅威を感じる程度の頭数を揃えなければならない。そうでなければ背面から彼を脅かし、ロクトウの本隊との挟撃を成すことはできない。ライを見る。この幼さの残 る少年の手腕に期待する他に、いまのところハリグモに手段はなかった。ハリグモは少し可笑しく思う。
(おいおい、このハリグモ=ヤグが他人に頼るだって?)
不思議な感触がした。少なくともハリグモが灯の国で感じていた利害の交錯、そして計略が織りなす不吉な匂いはしなかった。
ライが頷き、一行は翅の街の北部にある街に入る。
「よお、通るぜ」
「おや、ギ・リョクさん。いらっしゃい。後ろの方々は?」
「連れだ」
「そうですか」
門兵はろくに荷を検めようともせずにギ・リョクを通し、ライ達に向かって「ようこそ」と言ってにこりと笑った。
「あの人、門番だよね? なにがどうなってこうなったの」
「金を払った」
ギ・リョクは涼やかに言った。説明するのが面倒だから察しろ、という含みを持っている響きだった。首を突っ込むのはあまりよくない予感がしたのでライはそれ以上聞くのをやめた。
ちなみにここでギ・リョクが言った「金を払った」は「城壁の建設のために資金を提供した」ことを指している。翅の国では軍隊の不可侵が宣言されているが、それでも城壁は野盗や獣害から人々を守るために必要だ。が、城壁建設のための資金が上手く集まらなかった。「軍隊がこないのだから城壁の建設のために金を払う必要などないだろう?」と人々はそのための税を払うことを拒否した。
そのため凄まじい金額をギ・リョクから借り受けて事業に着手した。いまでもこの街はその借金を少しずつギ・リョクに返済している。ギ・リョクに与えられた城門の自由通行権も借金の返済の一環として与えられたものだ。
荷馬車が町中を進む。網の目状の整った区画をした美しい街だった。もっとも他の街と異なっているのは道の造りだろう。翅の街の道は直線的だ。通りの奥までが一望できる。立ち並ぶ店々の盛況が一目でわかる。他の国々の道はうねっている。緩い曲線を描いている。見通しが悪い。それは敵の軍勢が攻め込んできた際に軍馬を疲労させ行軍を遅らせるための仕掛けだ。が、ここにはそういった類の、ある種類の無駄がない。
ギ・リョクは通りを歩く人々の顔を横目に見る。
手の中の荷を少しでも高値で売りつけるために目の端を吊り上げている。
(フリーライダーどもめ)
城壁のための税は払わない。しかし城壁の恩恵にはしっかりと預かる。
そういった図々しい連中。だけどその図々しさをギ・リョクは好ましく思う。
すべての人々がこうであったとして、すべての街々がこうであったとすれば、世界の在りようは随分変わったものになっているのだろうとギ・リョクは考える。もしかしたらその中では自分に比肩するプレイヤーが現れていたかもしれない。
「よお、とりあえずあたしの別荘にいくぜ」
ギ・リョクが言う。
流されるがままにライが頷いた。