ギ・リョク 2
場を設けるから少し待て、と言われて、ライは部屋に案内された。普段から人を泊めることが多いのか、清潔で静かな部屋に通される。棚には書物が幾らか置いてある。「マクロ経済学?」タイトルを読み上げる。意味がわからなかった。作者の名前は読めなかったが、訳者はミカガミトウヤと書かれている。ぺらぺらと捲ってみるが、ろくに中身が読めない。ちんぷんかんぷんだ。
「ユーリーン、読める?」
自分よりも教養のあるユーリーンにその本を渡す。ユーリーンが数ページ捲り、目を閉じて首を振った。ライに本を返す。「さっぱりわからん。なんだこれは」「学術書だとは思うんだけど」二人して唸る。別の本をとってみたが、同じようにわけがわからない。ものによっては字そのものが見知らぬもので書かれていた。
「準備整ったぜ」
ギ・リョクが扉を開けた。
「おう、なんだ。それ興味もったのかい」
「いや、全然読めない。なにが書いてあるの、これ」
「金回りの話さ。それより、準備整ったぜ。脱ぎな」
「……別に裸で踊るくらいなんてことないけどさ」
ライは服を脱いで肌着だけになってギ・リョクに着いて歩く。最初の広間の手前に着て、肌着も脱ぎ捨てる。少年の柔肌があらわになる。ライは扉を開けた。広間では中年から壮年の男達が大勢、酒を飲んでいた。扉を閉めた。
「ねえ、誰、あの人たち」
「誰って。金持ちで、同性愛者で、少年趣味の好事家達」
ギ・リョクがさらりと答えた。
「踊るって、彼らの前で?」
「おう」
「なんてことをするんだ、あなたは」
「やめるかい? あたしゃ一向に構わないよ」
ユーリーンが無感情な目でライを見ていた。貴様の決定に従うが、この手がかりを無くせばまた零からのやり直しになる。どうする、とそんな風に言っているように感じる視線だった。
「踊るよ! 踊ればいいんだろ!」
半ばやけになってライは叫んだ。
「その代わり、一曲かけてよ。それから飾り布を一枚頂戴。それがなかったらほんとにただの見せしめでしょう」
「おう、ただの見せしめだぜ? あたしゃ芸のあるやつがそれを発揮できずに嬲られてるのを見るのが大好きだ」
平然と告げる。口元が挑発的に吊り上がる。
ライは涙目になってギ・リョクを睨んだ。
「わかったわかった。あたしも鬼じゃねえ」
嘘だ。この人は鬼だ。悪鬼羅刹の類だ。世間を欺くために人間の皮を被ってるだけだ。
「おい、あんた」
ギ・リョクの大きな瞳がユーリーンを見る。
「楽器はなんかできるかい?」
「琴ならば少し心得がある」
「用意するから一曲やんな」
頷く。
ギ・リョクが人を呼んで楽器を用意させた。半分透き通っている薄い飾り布を一枚ライに渡す。えらく上質の絹で出来た布だった。花の紋様が描かれていて薄紅色に染められている。
「うう、心細い。せめてこの先にいるのがご婦人だったらいいのに。それなら全裸だろうがなんだろうが喜んで踊ったのに」
「なるほど、そういう趣向も今度は考えとくよ」
人食い鬼の笑みでギ・リョクが嗤った。
それもまたどうせろくな会合にはならないのだろう。諦めて、ライは扉を開けて広間の中央に進む。下劣な性欲の光を帯びた視線がライの体に突き刺さる。少年の柔肌を前に男達が舌なめずりする。ぎらぎらとした脂の乗った視線が皮膚の上を動くのがわかった。頭の先から爪の先までなめまわす。唾をのむ音が聞こえた。
「最悪だ。好きでもないおじさんに体目当てで言い寄られる女の子の気持ちがかなりわかった」
口の中で呟き、べそをかきながらライは顔を伏せて蹲る。ユーリーンが音を確かめるように琴の上に指を這わせた。いい音色だった。灯の国で採られた、目の詰まった上質の桐で作られている。金持ちの屋敷だけのことはある。「春の歌を」ユーリーンが言い、琴をかき鳴らした。緩やかな曲調で始まる。
雪解け、草花の芽吹き、作物の収穫、祝うような、喜ぶような。そんなやわらかい音が続く。ライが飾り布を振って身を躍らせる。収穫祭に引き寄せられて降りてきた天女の舞。体をくねらせて妖艶に頬を赤らめる。観客のことは一先ず忘れようとライは思った。やがて曲調が激しくなる。
作物の収穫で得られた余力は、国に戦を起こさせる。ライは怜悧な表情を作り、大きく身をゆすりながら飾り布を振り、引く。巧みに足を運ぶ。槍を躱し、剣を振るう。飾り布の先から火花が散ったように感じる。見る者はそこに剣戟を幻視する。ライが幾人かの人間を切って捨てたのを見て取ることができた。そして次の瞬間、ライは槍に突かれて蹲った。途端に曲調が静まる。
葬儀が行われていた。ライは静かに立ち上がった。その顔にはなんの表情も浮かんでいない。戦で夫を失った女の面だった。うつろだけがただ残り、飾り布を花束に見立てて、そっと夫の棺に添えて膝を折って祈った。
ユーリーンが最後に強く一音を鳴らして、曲を弾き終えた。
しばらくの間、音がなかった。少年の裸体を楽しみにきていた好事家の男達が、舞に見入っていた。曲が終わるのを惜しんでいた。余韻を楽しむ。
ギ・リョクの長いため息が静寂を破り、彼女がぱちぱちと両手を叩いた。おもしろくなかった。ギ・リョクは舞を見物にきたのではなく、下劣な性欲の前に身動きがとれなくなる少年を見に来たのだ。その拍手につられるようにして、思い出したように男達が手を打つ。
最低限の礼儀として軽く会釈して、そそくさとライが広間から逃げ出す。
男達が次々とギ・リョクの元に「あの少年の夜はいくらで買えるのか」と尋ねにきた。
「わるいね。ありゃ売り物じゃないんだ。それに今夜はもうあたしが買い上げちまった」
ギ・リョクはつまらなさそうに言った。