ラ・シン=ジギ=ナハル 6
テン・ルイとココノビを連れて催事場を出る。
「今後は」
「国に戻ろう。蒼旗族を叩く準備を進める」
「えぇー……」
ココノビが目端を下げた。
「知らないお国、もっと見たいなぁ」
舌足らずな甘い声を出す。唇に指をあてて物欲しそうにシンを見上げる。美しい少女の姿をしたココノビのそうした姿は相手によっては随分と破壊力が高いのだが、シンには通じなかった。
「人間の真似をするな、気持ち悪い」
むしろ嫌悪を持って切り捨てる。
「うえーん、テン・ルイぃ。シンが冷たいよお」
テン・ルイの腕に自分の腕を巻き付ける。テン・ルイはなにも言わずにその頭を撫でた。
不意に恰幅のいい中年の男が近づいてきた。身なりがよく、それなりの身分だということは見て取れた。なにか含みのある笑みを浮かべている。
「失礼します。草の国の王、ラ・シン=ジギ=ナハル様とお見受けしますが」
「そうだが。あなたは」
「宮廷の建築を取り仕切っております、バ・サイというものでございます」
「ほう。いまはなにをしている?」
シンは男の手を見ながら尋ねた。
脂肪で膨らんだ丸い手だった。木材や石材を運び、金槌を握る、職人の手ではない。
「ですから建築を」
「それは聞いた。具体的にいまはなにを建てているのだ。社か? 塔か? それとも城壁の補修か? このところ行った一番大きな工事はなんだ」
「あ、ああ、いえ、私の役柄はあくまで監督や他部署との連携でございまして」
「ああ、なるほど」
目の前の男がとるに足らない愚物だと判断する。シンの中から先ほどまでの愉快な気分が消え失せていく。気取られない程度にゆっくりと長く息を吐きだす。心の温度を下げる。
「俺になんのようだ」
男は長い口上を添え、「現皇帝が崩御した後に天下の趨勢を決めるのはシン王ただお一人だけ。どうかその時には私めの名前を憶えておいていただければ、と」ぱん、と手を打ち鳴らした。金銀財宝を収めた荷馬車がシンの元に送り届けれる。シンはそれを運んできた人々を見る。粗末な衣服に痩せた体。死んだ目。馬の国の奴隷達だった。
シンはあたりを見渡した。自分がキ・シガの姿を探していることに気づいて、眉間に皺がよる。普段はこういう手合いはあいつがうまくあしらっているのだが。
テン・ルイに視線を止める。“なぁ、ちょっと槍を貸してくれないか。それからサンロウを呼ぼう。大丈夫、なんの心配もいらない。ちょっとこの男を突き殺すだけだ。サンロウは骨も残さずに食うから遺体が残る心配はいらない。いまどき行方不明などそんなに珍しいことではないしな” そんな言葉が口をついて出かけるのを、どうにか押し留める。
シンは自分がレンを憎んでいないことに気づいていた。彼から皇帝の椅子を簒奪することに抵抗を覚えていた。それはいつか必ず実行に移される。目の前の男を見る。
賄賂に慣れ、高い位についているにも関わらず自分の仕事の内容も満足に言えない。国の内臓についた白く、分厚い脂肪層のような輩。内臓の正常な働きを阻害する。それをこそぎ落とし、正常な肉体を立ち上げるためには零からやり直す他ないのだ。初期のころならば病巣を処理すればそれで済んだのかもしれない。だが「官位を金で買える」というこの国の制度は贅肉を許容するように作られ、その制度のまま長い年月を過ごしてしまった。病巣を処理するだけの体力は既に、この体から失われてしまっている。
黙りこんだシンに不安を覚えたのか、バ・サイがこちらの表情を窺う。
「ああ、貴様の名は決して忘れん。そのときには大いに協力してもらおう」
シンは頬のこわばりを崩して言った。
手を握る。バ・サイのむくんだ不健康な手の感触が、シンの不快に拍車をかけた。舌打ちしそうになる。
(あるいは十余年前のあのときであれば、この病巣は俺の手に負えたのだろうか)
血みどろの後継者争いの中でシンは戦うべきだったのか。
わずか八歳だった当時のシンは自身の才気と思想、そして肉体の充実を待つために王の国を離れた。幼帝として傀儡にされぬために。あの街に君臨する実力者の邪知奸佞に染まらぬために。それは必要な作業だったと思っている。そして代わりに皇帝に収まったレンは現在三十二歳の若さにして、枯れ木も同然の様相を見せている。
シンは手を離し、適当に言葉を告げてバ・サイから離れる。
テン・ルイのまっすぐな瞳がシンを見ていた。実直な瞳だった。濁りがない。見透かしたようなその視線は、シンの心を随分軽くしてくれた。シンは笑いかけて「あれの名をどこかに記しておけ。俺がこの国をとったらなにか適当な理由をつけて処刑する」と言った。テン・ルイが頷き、その手の中でココノビが「つまんない」と呟いた。
小太りの男がシンに向かって、愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。バ・サイと同じような口上を述べたあと、賄賂を差し出す。こちらは草の国での商売を融通してくれとの内容だった。
そうして同じような輩をあと三人も処理したあととなっては、シンは心底うんざりしきっていて“今日、痛快な出来事があった”ということを思い出せなくなっていた。