ラ・シン=ジギ=ナハル 5
馬車が宮殿に着き、シンが外に出る。ガヌがそれに続く。
ガヌの近衛兵が、その姿を見てギョッとした。皇族という地位と自身の努力に裏打ちされた、覇気に満ちたジ・ガヌの姿はどこにもなく、くぼんだ目をした年相応の疲れた中年男がいるだけだった。近衛の手を借りてどうにか馬車を抜け出し、「すまないが、少し休む」とだけ言ってシンの傍を遠ざかる。
「お大事に」
表情を作らずにシンが言う。
肩の落ちたジ・ガヌに目もくれず、皇帝ガ・レンの元を目指す。
宮廷の文官・武官が一堂に揃っていた。シンは自分の兄弟姉妹たちの姿を探した。武官の筆頭にいるはずのアゼルの姿がない。シンは(あの阿呆め)と口の中だけで呟く。文官の中に学者帽を被った片眼鏡の女を見つける。ナカイ=クル=ナハル。覇王の十八番目の子供で、十番目の娘。ライの姉だ。にたにたと興味深げにあたりを見渡している。そのほかには誰一人としてこの場に現れてはいない。シンはため息をつきそうになる。
次に皇帝の前で手持ち無沙汰にしている各国の王たちを見る。ロクトウの姿がある。少し離れてよく日焼けした東南部の日に焼けた女が好奇心を出して振り返りシンを見ていた。南部の鉄鋼夫達の長が唇を引き結んで威圧するように周囲を睥睨している。西方の騎馬民族の大男が感心がなさそうに目を閉じていた。
「なんだ、俺が最後か」
シンは小さく呟く。前に進み出る。
「遠方から呼びつけて済まなかったな、ラ・シン」
玉座の上から皇帝ガ・レン=アズ=ナハルの声が降ってくる。十余年振りに会うガ・レンを見上げる。頬がこけていた。三十二歳という年齢に見合わず、髪には白いものが混じっている。目は窪み、化粧では隠し切れない濃い隈ができていた。その奥で瞳だけがギラギラと光っている。傍らに妙に感情のない顔つきをした小さな子供を一人置いている。レンの息子でたしかグ・オルという名だったはずだ。
レンが音もなく玉座から立ち上がった。服の端から覗く手足は針金のように細かった。金の刺繍の施された豪奢な衣装を身にまとってみても、化粧で顔を繕っても、病の匂いを消せていない。
「お久しぶりです。皇帝陛下」
シンは骨折で痛む手を無理にあわせて跪いた。儀礼的な口上を述べる。レンが頷いてそれに耳を澄ませる。ただ久方ぶりに会う、年の離れた弟の声を楽しむように目を閉じる。微笑みさえ浮かべる。
調子が狂うな、とシンは思った。自分の声から強張りが抜けていくのがわかる。挨拶をそこそこにして、シンはロクトウの隣に引き下がった。ロクトウの執拗な目がぎろりとシンを睨んで、シンは少し調子を取り戻す。憎悪の隣は居心地がいい。
ジ・ガヌが参上して、レンの傍らについた。わずかでも休めたおかげか、顔色が戻り、元の覇気をどうにか取り繕っている。シンはくすりと笑った。
レンが口を開いた。
「今回そなたらを呼び集めたのは他でもない。蒼旗賊なる野盗の討伐を命ずるためだ」
既に民衆の反乱一つ、王の街の独力で鎮めることができない。と、レンはその内情を吐露した。長年の内乱によって王の街はその軍事力をすっかり疲弊してしまっていた。
簒奪しようと思えばそれ自体は容易いのだろうな、とシンは思う。いまや皇帝の地位を支えているのは信仰にも似た諸侯の忠誠心だけだ。また帝位の簒奪を行えば諸侯の反感を呼び、国賊として討伐される。それを跳ね返すだけの力は、どの国にもない。その危うい力の均衡が、どうにかレンを生かし続けている。
(まあ、やるにしてもロクトウを殺してからだな)
灯の国の軍は精強だ。他国の軍をそれと同時に相手取ることはできない。大陸の東部に位置する草の国は、西部の王の国と北部の灯の国の他に河の国、それから鉄の国、翅の国と隣接している。国内東部の平定もまだ完全ではない。敵が多い。今この場で諸侯の反感を買うのは得策ではない。
余分なことに思考を飛ばしかけて、シンはどうにかレンの言葉に意識を戻そうとする。
「おい」
酒焼けした女の声で呼ばれて、シンは横目で隣を見た。よく日焼けした女が挑みかかるような目でシンを見ていた。朝服から覗く女の手足には刀傷が無数にある。右頬にさえ大きな刀傷の跡が残っている。服の下は片胸だけがへこんでいた。傷を負った際に炎症を起こして壊死しかけたために切り取ったのだ。シンは「誰だ」と短く尋ねる。「河の国を纏める、ユ・メイ=ラキってもんだ。口の利き方がなってないのは許してくんな。育ちがよくないもんでね」「ああ、貴様が雷河の河賊か」にい、と女が口端を吊り上げた。「いいね、今ではオレたちをそう呼ぶやつも少なくなった」懐かしむように目が細くなる。
シンは少なからず「河賊」という言葉を挑発の意味を籠めて言ったつもりだった。
「そういうあんたは」
「草の国の王、ラ・シンだ」
知っていて話しかけてきたのではなかったのか、とシンは怪訝な目でユ・メイを見る。
「あんたがお隣さんかい。噂はこっちまで流れてきてるよ。随分豪腕らしいじゃないか」
「用件はなんだ」
要領を得ない会話に少し苛つく。
ユ・メイは困ったように目端を下げて、「さっきから皇帝陛下が仰ってる、ソーキゾクってのはなんだ?」と言った。
シンは唖然とした。ここまで無知で無昧な者が王位に居ていいものなのか、と思い、すぐに自分の考えが間違っていることに気づく。
「賊とみれば口上を聞かずに殺すから相手の素性など知らんということか」
「ああ、……なんだ? 他国の王様ってのはそんな面倒くさいことをやってるのか」
ユ・メイは小首を傾げて見せる。
シンはこの女の持つ根本的な規則が、自分とは異なっていることを感じ取る。
わずか八歳で出奔したとはいえ、仮にも皇族として育てられ、テン・ルイが教育係についたシンの持つ規則は王の街のそれと近しいものだ。ロクトウなどの他の諸侯もそれほど異なった規則を持っているわけではないだろう。しかし出身が河賊であるこの女は違う。こちらの常識など彼女は知ったこっちゃない。
風聞程度にだが、河の国を奪った河賊のことはシンの耳にも入っていた。元は雷河という、大陸南部を東から西へ両断して流れる大きな川の、東端の河口にある貧しい村の生まれ。資源もなく作物もない、魚をとって都に向けて売り出すだけの乏しい商売。交易路が満足に発展していなかった河の国では、それらは足元を見られて安く買いたたかれ、不漁の年には凍死者が溢れていた。税率は高く、わずかな蓄えを奪っていった。乏しい作物、いまにも沈みそうな古い船、ぼろに等しい衣服、冷たい海風が隙間から吹き込む家。その村にはなにもかもが不足していた。ユ・メイはなにも持っていなかった。だから欲しかった。
金が欲しかった。食べ物が欲しかった。服が欲しかった。家が欲しかった。
――国が欲しかった。
だからそれを持っているものから奪っていった。ついには王を殺して国まで奪い取った。
(やれやれ。天下の簒奪というのは容易ではないらしいな)
北ばかり見ていたシンは、南の難敵に気づいて足元を掬われた気分になる。
あるいは彼女こそが、シンの最大の敵になり得るかもしれない。
「おい、意地悪すんなよ。教えてくれたっていいだろ」
そんなシンの胸中など知るよしもなく、ユ・メイはただただ話についていけずに困っていた。
「そもそも貴様、勅令を読んでいないのか」
「あたしは字が読めねえ」
がりがりと頭を掻いたあと「他のやつに読んでもらったんだがいま一つよくわからなくてな」と付け足す。シンは勅令の中身を思い出す。仰々しい威圧的な言葉遣いが並んだ役人の特有の書き方がされていた。教養のない人間が口頭で説明されてもわからないのは無理のないことだろう。
こいつの副官の苦労は尋常ではないのだろうな、とシンは少し離れて控えているテン・ルイを見た。それから、もしや自分もテン・ルイに相当な負担をかけているのではないかと思い至る。テン・ルイと手を繋いでいるココノビと目が合う。無邪気に笑い、こちらに駆けだそうとしてテン・ルイに抱き止められていた。……テン・ルイのことをもう少し労わってやるべきかもしれない。意識をユ・メイに戻す。
「農民の反乱だ」
「あん? 皇帝陛下は、んなもんにてこずってるのか。全殺しにすりゃ済む話じゃねーか」
つくづく物騒な思考の女だった。
見せしめとしてならそれも有効だろうが。
「ただの農民反乱なら、さすがに規模が大きかろうが王の国の軍でもどうにかなるさ」
果たしてそうだろうか? シンは自分の言葉に疑いを抱く。蒼旗賊は十万を超える農民の蜂起だ。彼らは恐らく王の街の庇護を離れた別の国を望んでいる。間諜が言うには宗教的な思想も関わっているらしい。キ・シガは「“スポンサー”がいる」と言っていた。広義での資金提供者という意味だそうだが、シンにもその言葉の正確なところはわからない。キ・シガにしては珍しく、憎悪を吐き捨てるような言い方だったのが印象に残っている。
「ただの農民反乱じゃないのかい?」
ユ・メイが言う。シンは頷く。
蒼旗賊の乱は“ただの農民反乱”ではない。だがいまの王の街には、“ただの農民反乱”を鎮める力は残っているのだろうか。シンは痩せ衰えた皇帝を見る。愚昧蒙昧の揃っていた兄弟の中では珍しく、辛うじて聡明さを残していたその顔つきは疲労によって肉をこそぎ落され濁っていた。その下につく文官の顔を見る。どいつもこいつも肥満体で、傲慢な顔つきをしているように見えた。彼らの多くは商人上がりだ。この国では官位を金で買えるからだ。この王の国においては、権限を持つものが地位を金で売り捌いている。それが当然のことなのだ。例え能力があれど、地位を買う金がなければ重要な事柄が任されない。金があるだけの豚が高い官位を独占する。
シンが自身の国の身分制において、商を最も下位に持ってきたのもそこに理由がある。
金の力は絶大だ。大抵のことは金によって解決することができる。そして農や工よりもどうしても商人のほうが扱う金が巨額になる。自身はなにも作り出しはしないにも関わらず、商人は莫大な金を動かす。キ・シガは「付加価値を作り出しているのです」と言っていた。「その意味での貢献を認めなければなりません、商は何も作り出さないものではありませんよ。一方であなたの考えもまた正しい。再分配は必要です。大きな偏りは正さなければならない」……あれの言葉は呪いに似ている。あまりあいつのことを考えるのはやめようと思う。
草の国では身分の順に税が軽くなる。
兵が最も軽く、商が最も重い。扱う金が大きいほど税が高くなるように作った。商人が力を持ちすぎないためだ。また戦のための兵糧を確保し、戦線を広げるために農を、それから兵を優遇した。「事実上の自民族優遇制度となっている」ちっ。キ・シガの評に舌打ちする。
「なぁ、根掘り葉掘り聞いたオレが悪かったが、そこまで機嫌損ねることはないだろ」
「ああ、悪い。お前のことではないのだ。別のことを考えていた」
「ところでよ、つまりあれか。皇帝陛下がさっきから小声でぶつぶつと仰ってるのは、オレらの兵を使って、蒼旗賊とやらを討伐してくれ。つまりはあっちの失態の尻拭いをしてくれ、って言ってるのか?」
「そうだ」
ユ・メイはしばらく唇に指をあてて、考えを巡らせていた。それから「わりい。俺は帰るわ。皇帝陛下には謝っておいてくれ」と言った。シンは内心で噴き出した。
「なぜだ」
大声をあげて笑いだしそうになるのを堪えてどうにか尋ねる。
「そいつはようするに人の褌で相撲を取ろうってことだろう? 金はいくらかくれるのかもしれないが、俺たちはやりたくないことはやらない主義でねえ。蒼旗賊とやらに個人的に恨みもないことだし。俺は別に皇帝陛下さんの恩寵に賜った覚えもないからなぁ」
「一言の挨拶もなく帰るのは礼を失することじゃないか」
シンはユ・メイを引き留めた。
が、ユ・メイはそれをそのままの意味で捉えた。
「おう。そうだな。気づかなかったぜ。助言ありがとよ。そうするわ」
ユ・メイはシンの隣をすり抜けて前に進み出た。
あまりにも自然な動作だったので、その場にいる全員の反応が遅れた。
ようやく護衛の兵達が道を阻むようにユ・メイの前に立つ。ユ・メイは小さく息を吸い込んだ。
「わりいな、陛下。俺たちはその話から手を引くぜ! こっちのことは俺らでやるが、そっちのことはてめえらでやってくれや! じゃあな、あばよ」
酒焼けして罅割れていながらも、大きな声が響いた。皇帝ガ・レンが口元を半分開いて呆気に取られていた。
シンは思わず喝采を送りそうになった。これほど痛快な気持ちになったのはいつぶりだろう。ユ・メイ、お前には皇帝の声さえ傾聴に値しないのか!
ユ・メイは朝服を翻して、宮廷を去ろうとした。思い出したように「シュウ、帰るぜ」と副官の名を呼ぶ。テン・ルイの横から、人波を掻き分けて小柄な痩せた男が一人這い出した。いまにも泣き出しそうな顔でユ・メイに並ぶ。
「こ、殺せ!」
近衛を操るジ・ガヌが叫んだ。号令を得て、ようやく兵士達がユ・メイに襲い掛かる。
ユ・メイは宮廷に登るために武器を預けている。隣のシュウと呼ばれていた副官も同じだ。「あん。やんのか」間の抜けた声でユ・メイが呟き、左掌を天に向けた。そこに向かって、水柱が落ちてきた。大きな池ほどの水量が掌から腕を伝い、水柱が歪んでユ・メイの胴体に巻き付く。頬を舐める。ユ・メイの右手があやすように、その太く長い胴を持つ水成る龍の頭を撫でた。
「いいぜ、帝室が御せなかった俺の『水龍』。相手にしてみろよ」
——水の魔法
龍の視線が兵士達へと向く。鎌首を擡げる。いまにも襲い掛かろうと身を縮ませる。近衛兵たちが竦むのがわかった。弱兵。その実力を見切ったユ・メイの目が彼らから興味を失う。ぐるりと辺りを見渡す。テン・ルイや他の王たちの副官を見る。
ジ・ガヌの目がシンを見た。シンは首を横に振った。いまこの場を治めることができるような壊獣を連れてきていない。シチセイは広所を嫌っていて動こうとしないし、そもそもシチセイの刃ではあの水龍を斬ることはできないだろう。ココノビの力はこの場で扱うには影響が大きすぎる。あれの力はともすればこの国の全土を滅ぼし兼ねない。もう一つ、シンはリクコンという壊獣を連れてきていたが、これはシンの身を守るためのものでユ・メイに通じるかは怪しい。
ジ・ガヌの目がアゼルを探す。アゼルは王の国が有している最も強力な魔法使いだ。この国の戦力の中で唯一ユ・メイの水の魔法に対抗できるだろう。だがアゼルは適当な理由をつけて欠席している。ジ・ガヌが舌打ちするのが遠目にもわかった。
テン・ルイの隣からココノビが不安そうにシンを見ている。手を向けて、制止を促す。テン・ルイにも動く必要はないと伝える。テン・ルイならばあるいはユ・メイとも戦えるかもしれない。しかしテン・ルイを使ってこの場を治めるつもりは、シンにはなかった。こんな場所で五分の勝機しか伺えない戦いに放り込んで使い捨てるには、テン・ルイの存在は大きすぎる。他の王たちも似たような考えで副官を動かさないのだろう。
それは同時に帝室への忠誠をその程度には失っていることを如実に示していた。
「なんだ、誰もこねえのか」
おもしろくなさそうにユ・メイが言う。
「勘弁してくださいよ。これじゃボクらまるっきり朝敵じゃないですか」
ユ・メイの隣でシュウが嘆いた。
「あん? そうなのか。まあいいじゃねえか。いつも通りなんとかしてくれや」
かっかっか、と高く笑って、ユ・メイは歩き出す。宮廷を出て行く。無人の野を行くが如く、悠然とした歩みだった。隣のシュウがおそるおそるこちらを窺っていた。ぺこぺこと頭を下げている。
ユ・メイのあまりの堂々とした様に、シンは半ば見蕩れていた。
彼女が出て行ったあと、しばらく場は静まり返っていた。くくく、と、はじめて声を漏らしたのはガ・レン=アズ=ナハル、その人だった。「見、見たか、ジ・ガヌよ。あの女のこの俺を顧みない様を。あれは実に、くく、よい女だな」腹のそこからの笑いをどうにか堪えようとして、レンが溢す。
同感だ、とシンは思う。こんな場でなければ求婚したいほどだ。身震いを抑えきれずに自分の肩を抱く。
「た、ただちに追撃を」
「よい、どうせ捉えられはせぬよ」
ユ・メイ達はこの国から雷河に向かう支流の一つに逆らい、「船」でこの国にやってきていた。おそらくはそれも水の魔法の力。帰りはただ流れに乗ればそれで済む。そしてその進行速度は群を抜いて速い。
もっとも諸侯が押並べて協力してくれるのなら捕捉も可能なのだろうがな。そういう目でレンが国々の王たちを見渡す。手をあげて合図をすると、でっぷりと太った文官が鈍間な足取りでシン達に正式な書状を手渡した。レンが口元を手で押さえて咳をした。口元を覆ったままの掌に赤いものが付いたのを、シンは見逃さなかった。
「場が乱れてしまったな。これまでとしよう」