ラ・シン=ジギ=ナハル 4
ロクトウの軍勢が通り過ぎたあと一刻ほど待ってシンは自身の軍勢を動かした。
あまり早くに軍を動かしてあちらを急かすこともないだろう。ゆるりと、泰然と行く。
「……おい、テン・ルイ。船があるぞ。あれは何に使うものだ」
川幅にそぐわない、百人は乗れそうな大船が岸につけて、錨を下ろしている。柄の悪い船員達がなにか作業をしていた。
「答えかねます。が、装飾や様式を見るに河の国の物です」
テン・ルイの腕の間でココノビが目を輝かせる。身を乗り出そうとするのをテン・ルイの大きな手が押しとどめる。「いじわるぅ」と喚いている。
「接触しますか」
「いいや、ただでさえロクトウの尻についているのだ。あまり遅れをとりたくはない」
船を無視して先を急ぐ。
やがて王の国の都が見えてきた。高い城壁が聳え立っている。門に近づき、名乗る。出迎えの者をしばらく待つ。迎えが現れ、シンは最初興味薄く彼を見た。そしてそれがもう少し近づき、顔の詳細がわかると、慌てて馬から降りた。
「ジ・ガヌ兄様」
意外な人物だった。髪を剃りあげた狐目の中年男。背が高く、細い体つきながら肉付きには無駄がない。朝服を着ていて、腰には剣を差している。覇王の二番目の子、ジ・ガヌ=アズ=ナハルだ。最初の王子が従軍の末に命を落としているため、いまとなっては彼が長兄にあたる。そしてライやシンなどは腹違いの兄弟だが、ガヌは皇帝ガ・レンと同じ母を持つ。弟を強力に皇帝の地位へと推挙した人物であり、本人は政に参加することをあまり好まなかった。(役職は、確か近衛を纏めていたはず) とシンは自分の記憶を探り当てる。
他の兄弟達が父の財を食い潰す中で、シンはこの人とガ・レンのことだけを評価していた。
「よくきたな。草の国の王、ラ・シン=ジギ=ナハル」
挨拶を交わし、握手をする。
「使い走りにされる身分の方ではないでしょう、あなたは」
「他王子がお前に害をなさないための配慮だ。私が一緒ならやつらもやりにくかろう」
「俺には不要な心配ですよ」
シンは笑った。テン・ルイが傍らについている。精鋭の騎馬に、壊獣の数もある。覇王が相手でも戦える、とシンは己の軍勢を振り返る。
「馬鹿め。やつらの方を心配してやっているのさ。刺客を放った六人の兄弟を、お前が“食い殺した”ことをレンは忘れておらんよ。迂闊にお前に手を出させて、ようやく落ち着いてきたこの街が再び乱れるようなことがあってはたまらんからな」
「なるほど」
「もっとも少しは暴れてくれたほうがやつらにとっては灸になるやもしれんがな」
ガヌはひとしきりシンの精悍な顔を見まわした。一度だけ吊っている左手に視線を落とす。
満足して、その鋭い瞳が次にシンの背後に立つテン・ルイを見る。
「久しぶりだな。先生」
テン・ルイは目を閉じて「先生はよしてください」とだけ言った。それからさりげなく槍に触れていた手を離す。ガヌはそれを見落とさなかった。「相変わらずか」と低く笑った。「ご無礼をお許しください」テン・ルイが口先だけで言う。
もしシンに害を為そうとすれば、テン・ルイはガヌを突き殺している。
それは自動的な防御機能であり、本能に近いものだった。テン・ルイは相手が皇帝であっても同じことをしている。その後の展開がどうなるかは彼にはわからない。相手が皇帝と血の繋がった兄であることなど関係がなかった。テン・ルイはただシンの道から万難を払うだけだ。実際にテン・ルイは十余年前に皇族の一人を斬殺している。
「惚れた相手が男とは。先生らしいといえばらしいか」
宮廷の武芸指南役を長く務めたテン・ルイは、ガヌにも武術の指南を行っている。
テン・ルイはかつての弟子を見て、控えめに頷く。彼が与えた武の技はその血となり肉となっているようだ。
「では、行こうか。レンが待っている」
ガヌが馬車を呼び、自分とシンが乗り込む。ガヌの近衛兵が周りを固める。テン・ルイがそれを押し退けるようにして傍についた。
「しかしお前がこの国を飛び出した時には、本当に驚いた」
「へえ」
「俺はレンを皇位につかせるための最大の脅威を、お前とみていたからな」
そして、いまでもそう思っている。ガヌが懐の短刀の鯉口を切ろうとした。「やめてください、兄上」と、シンが落ち着いた調子で言う。その声のあまりの静けさに、ガヌの手が止まる。シンの手首。裾のあたりから這い出しくる七つ星の模様のある銀色の蛇を見つけて、ガヌは身を竦めた。シチセイ。広所を苦手とするそれは、シンの服の中にずっと潜まされていて、機嫌が悪かった。しゅうううう、と独特の声をあげて蛇の喉から吐息が漏れる。近距離では無類の破壊力を持つその壊獣に、馬車の中で振るうことのできるような短い刃物では太刀打ちできない。
「ぼんくら揃いの王子達の中で、レン兄とあなたのことだけはそれなりに評価しているのです。そしてもう少し生かしておいてやってもいいと思っている。晩節を汚すなよ、ジ・ガヌ。笑い種だぞ」
あくまでも落ち着いた声でシンは言う。
ガヌは懐の短剣を、鞘に戻した。
「それでいいんですよ、怯えて縮こまっていれば気長に飼ってやる。いつか俺の気が変わるときがくるかもしれない。なあ、テン・ルイ」
ガヌがシンから視線を外しなにげなく小窓を見上げると、儀礼的に槍を掲げたテン・ルイの両眼が馬車を覗いていて、いよいよ彼は肝を潰した。