ラ・シン=ジギ=ナハル 3
同じころ。ラ・シン=ジギ=ナハルはテン・ルイを連れて王の街へと向かっていた。皇帝ガ・レン=アズ=ナハルに謁見するためである。留守はキ・シガに任せている。そのことに不安を覚えなくもなかった。能力においては信頼している。キ・シガの軍略は、シンにとって得難い財産の一つだった。しかしキ・シガには好奇心がありすぎた。「こうしたらどうなるのか試してみたい」。キ・シガのそれはしばしばシンの掌を離れて、制御不能に陥った。ハリグモの一件のようにシンの肝を冷やさせたのは一度や二度ではなかった。
「テン・ルイ。俺は選択を誤ってはいないだろうか」
馬の上から草の国を振り返りながら、シンは複雑な表情で傍らのテン・ルイに幾度目になるかわからない問いを発する。背後に続く自身の率いる精強な騎馬隊などまるで目に入っていないようだった。
「今更でございます。腹をお括りください」
テン・ルイは冷めた声で答えた。
「ええい、貴様。随分辛辣になったではないか」
「あれの登用自体に私は随分反対しました。それを押し切ったのはあなたでございます。シン王」
「ぐ……」
「それほど心配ならば、わたくしが都へ戻り、キ・シガの手綱を握りましょう」
「それは困る。あのハリグモ=ヤグが道中に奇襲をかけてきたら、俺は今度こそ受け切れん」
シチセイは強力な壊獣だが一つだけ欠点がある。それは明るく、広い場所を好まないことだ。主に屋内、あるいは薄暗い森林の中でしかシチセイは力を発揮しない。そもそもシチセイによってハリグモを退けることができたのは、それが初見だったからという要因が大きい。シチセイの存在を既知としたハリグモに同じ手段が通じるのかどうか、シンにはわからなかった。そして「通じる」と考えるのは慢心であろうということはわかっていた。
シンはテン・ルイの腕の間に収まり、瞼を擦っている幼い女子を見る。頭部からぴょこんと動物のそれに似た耳が立ち上がっている。切れ長の目だが、まだ幼さがあって鋭くはない。黒紫色の髪が肩まで垂れている。適当に見繕った紺色の着物を着せてあるが、これがなかなかよく似合っていた。隠すように言っておいたしっぽが尻からはみ出ている。「ココノビ」という壊獣だ。万が一のときに、シンの切り札となる。
しかしこれはおそらくハリグモとは相性が悪いだろう。
あれにはこれさえ通じない可能性が高い。
「ならば諦めてください。シン王。大丈夫、キ・シガとてあなたの不利益となるようなことは早々しますまい」
「果たしてそうだろうか」
正直にいってしまえばその点において、テン・ルイにも自信がなかった。あれがなにを考えているのか、その脳髄になにが詰まっているのかなど知る由もなかった。忠誠などという言葉が一番似合わぬ輩であることは薄々と気づいている。あれはただ自分の能力が発揮できる場所を求めてシンの傍らに辿り着いただけだ。他にもっと良い場所を見つければ明日にでもシンを裏切りかねない。そういう危うさがキ・シガにはある。
しかし自らの手による大陸の再統一という野望を秘めるシンの隣の他にキ・シガの能力を十全に生かす場などない。あれの居場所はシンの隣にしかありえない。
ただしこのことについてテン・ルイには一つだけ懸念があった。それはキ・シガが「大陸の再統一」に釣り合いが取れるだけの価値を「ラ・シン=ジギ=ナハルの打倒」に感じてしまうことだ。そしてその価値は実際に拮抗するものとなりえるだろう、とテン・ルイは予感している。
(あの狐、どこかで排除するのがシン王のためかもしれん)
テン・ルイは冷めた瞳の奥で考える。彼は今年で四十六歳にあたる。シンの隣で槍を振るうことができる時が、いったいあと何年残っているだろうか。老いた体から身に着けた武技が去っていくのを、テン・ルイはひしひしと感じていた。若い勇者達の台頭がテン・ルイを脅かす。ハリグモの凄絶な技を思い出す。
キ・シガやハリグモについての考えを巡らせていたテン・ルイに反して、シンの思考はすでにそこから離れていた。それらをどうしようもないものとして隅に放り出しておくことにした。シンの若草色の瞳がココノビを見る。ココノビが「なぁに?」と小首を傾げて微笑む。
シンは日に日に人間じみてくるココノビの動作に、感情のざらつきを覚える。不快感がある。この壊獣の能力はシンの邪悪な欲望の本質とも言えるほど凶悪なものだ。それが人間に似た皮を被っている。だいたい他の壊獣は特性のために他の機能を削ぎ落した作りになったのに、どうしてココノビだけがこうなったのだろうか。
開けていた道が山々に囲まれて狭まっていく。
シンは北側からやってくる軍勢の姿を遠目に認めた。戦意はないらしく、ゆるりと馬を進めてくる。あちらからの使者が一騎出されて、シンの元で馬を降りて跪いた。
「ラ・シン=ジギ=ナハル殿の軍勢とお見受けしますが」
「そうだ。そちらは?」
「灯の国の王、ロクトウ=ヤグ=ジジュよりの使者にございます」
シンは口元に微笑を浮かべ、なにげなくテン・ルイに視線を送った。テン・ルイは諫めるように厳しい視線を返した。口の中だけでシンが舌打ちする。
シンはここで一戦交えるのもおもしろいのではないかと、テン・ルイを誘ったのだ。なにせロクトウが射程の最中にいるのだ。硬い殻の中に引きこもるロクトウをこの場で討つことができれば、その後の混乱と混戦はシンの得意とすることとなるだろう。
だが今回シンとロクトウ、二人の実力者を引き寄せたのは皇帝ガ・レン=アズ=ナハルだ。皇命に背いて無用の戦を起こせば、シンは国賊として追われることとなるだろう。ロクトウもシンもいまのところはあくまで皇帝の後ろ盾を受けて国を治めているに過ぎない。
(それがわからぬ方でもあるまいて)
テン・ルイは薄くため息を吐いた。好奇心に任せて軍事や政を執り行うのは、なにもキ・シガだけではなかった。むしろあちらを反面教師にしてシンのそれは幾分ましになったものだが。
「さて、貴君がここを尋ねてきたのはこの隘路をどちらが先に通るか、といったところかな」
「いえ、左様ではございません」
「ほう?」
シンは口元を綻ばせた。
「わが軍の先遣がすでにこの隘路を通過しております。シン王の軍勢を先に渡らせればわが軍がシン王の軍勢を前後で挟撃する形となってしまいます。それはいたずらにシン王の軍勢を刺激する結果となるでしょう。ゆえにそれを避けるために、我が軍が先行することの了承を得に参りました」
「ふっ」
楽しげに息を漏らす。
本来ここは皇帝の血族であるシンが先をいくのが筋だ。だがロクトウは理屈を連ねてそれを曲げて自分に先に行かせろと言っている。シンの頭を踏みつけている。つまりロクトウはこう言っているのだ。「俺にはお前と事を構える準備が整ったぞ」。
「いいだろう。その程度の些事で俺の格は下がるまい」
元より虚より実を取るのが、このラ・シン=ジギ=ナハルという人物だ。
強行軍で疲労の溜まった人馬をしばし休ませるついでに、ロクトウを見送る程度のことは訳のないことだった。
「寛大なお心を感謝いたします」
使者が下がっていく。
テン・ルイが全軍に停止の指令を出した。シンの前をロクトウの軍勢が横切っていく。テン・ルイの目がそれを観察する。豪奢な鎧兜を身にまとった大将軍フェイ・ロフの姿を認める。その傍らの大きな馬車に、おそらくはロクトウの肥満体が押し込められているのだろう。
「どう見る?」
「練度の高い、完全な騎兵隊です。壊獣を最大に用いても撃破するのは容易ではないでしょう。ですが不可能ではありません。お望みとあらば」
テン・ルイが即答した。
「敵の真実の姿が見えるのは数多いお前の美点の一つだな」
シンは南の空を見上げた。鉛色の雲が起こり始めていた。雨が降るかもしれない。
大陸全土を覆い尽くすような、長く激しい雨だ。シンはそれを心地よく思う。竜の子は雨を得て、池中より天へと登るという。嵐がこなければ、天へ登る道は開かれないのだ。