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死ノ国  作者: 月島 真昼
終章
109/110

ラ・シン=ジギ=ナハル 23


「けほっ。けほっ」

 なにが起こったんだろう? ライは突然沸き起こった霧の中であたりを探るように見渡す。草の国の兵士同士が殺し合いをしていた。翅の国の兵士同士が殺し合いをしていた。ライの周囲だけ霧がなく、代わりに白い粉が舞っている。これはなんだろう?

「キ・ヒコ」

 粉に紛れて近くにいたはずのキ・ヒコの姿が見えなくて、名前を呼ぶ。

 少し歩くとキ・ヒコの姿はすぐに見つかった。全身に槍が突きたてられてキ・ヒコが死んでいた。周囲では多くの兵が死んでいた。ライを庇うようにして戦って、力尽きたようだった。

 うつ伏せに倒れた死体を見下ろす。致命傷は喉に刺さった一刺し。瞳がぐるりと回って地面の方を向いている。腕は取り落とした槍をもう一度拾おうと伸ばされていた。

「キ・ヒコ……」

 かつてこれわもののに触るように優しく自分を抱いた手を思う。腕を思う。自分を好きだと言ってくれたことを思う。ライは女性が好きだから、キ・ヒコの思いに応えることはできなかったけれど。ライにとってキ・ヒコは決していい人ではなかった。性的な欲求の乗った視線で見られると背中が粟立った。けれど悪い人でもなかった。思惑がどうであれ自分によくしてくれた。

 倒れ伏しているキ・ヒコの体にふれかけて手を止める。これは戦争なのだ。火蓋を切って落としたのはライなのだ。たくさんの人間が死んでいる。身近な人だけが死なないなんて都合のいいことは起こりえない。振り返ると自分が切り開いた戦端に膨大な数の死が続いていて、ライはそれを直視できなかった。押し潰されてしまいそうな重圧を感じた。

 一瞬、ユーリーンは無事だろうかと考えかけたが、いまはなにも思わないことにした。最悪を考えると足を止めてしまう。いまここで立ち止まってしまってはいけない。ユーリーンが死ぬはずがない、と自分に言い聞かせる。

「ライさん」

 城門の隣で真っ白な髪の女が蹲っていてその周囲に何人かの兵が彼女を護るように立っている。

 見覚えがあった。河の国で会ったはずだ。ライの泥を防いだ魔法の使い手だ。

 きみは、と言おうとして声が出なかった。

「キテラと言います」

 さきほどから舞っているこの白い粉は、どうやら周囲の麻薬成分が彼女の魔法によって「塩」に変わったものらしい。『塩』の魔法。魔法の無力化という能力を持つ彼女とその周囲のわずかなものだけが、死の霧の中で正気を保っていた。

 ライは顔をおさえて揉み解した。なるべく平然と聞こえるように「どうして僕を助けたの?」と尋ねる。震える声を一度吐き出してしまえば体まで動かなくなってしまいそうな気がした。

「死にたくなかったからです」

 キテラが城壁の上を見上げた。つられてライも上を見る。

 ほぼ真上に変貌したシンの姿がある。

「私の魔法は永続的なものではありません。あれを止めなければそのうち私は死ぬ。そして私にはあれを止める力はありません」

 塩の魔法が効果範囲を変えた。ライの周囲を覆うようにして、だけどライ自身は効果範囲の外になる。ライは城壁に手を当てる。

「君はシンの配下なんだよね?」

「服従か死か。富か貧困か。選べたらどちらを選びますか。私は嫌いな人の靴を舐めてでも生き残る方を選びました。飢えよりも飽食を選びました」

「なるほど、そりゃそうかもしれない」

「戦闘が始まれば私たちは逃げます」

「うん、そうしていて。巻き込まない自信がないや」

 それからふと「助けてくれてありがとう」と付け足した。

 キテラがこくりと頷いた。

「いくよ」

 ライが城壁を崩した。足場を失ったシンが一瞬怯む。ライは壁を構成していた泥をそのまま剣や鎌の形に変える。

 シンが尻から生えた尾を伸ばしてまだ無事な城壁の端を掴んだ。残る八本の尾でライが放った泥の剣や鎌を打ち払いながら、ゆるりと降りてくる。「生きていたか」口端を歪めて笑みを作る。

「悪運が強いみたいでね」

 互いにそれ以上の言葉はなかった。

 ライは泥の鎌でシンの首を刈り取ろうとした。金色の尾が鎌を打ち払う。さらに放たれた剣に向けてシンが飛び込む。引き付けて寸でのところで躱す。間合いが詰まる。金色の尾がライをめがけて放たれる。逃れようとしたライの左肩を貫く。痛みを無視してライも前進する。遠くから鎌や剣を放つだけでは振り払われて埒があかない。左腕がぼとりと地面に落ちたが元より屍であるライは手足を落とされた程度では死なない。泥が傷口を覆い、出血を防ぐ。

 無数に増えた鎌と剣が四方八方からシンを襲う。「ちっ」九本の尾がそれらの武器を弾き飛ばすがすべてを迎撃することはできなかった。幾つかがシンに届く。高速で流動する泥の粒が肌に擦傷を作る。頬に。手足に。胸に。腰に。背中に。ライの泥の剣や鎌が掠めて擦り傷ができる。が、幼少からテン・ルイに鍛えられたシンは致命傷となりうる攻撃はすべて躱して見せる。

 ライとシンの差は体格だった。

 まだ十五歳に過ぎないライの肉体は完成していない。手足が伸び切っていない。思い通りに体を動かすことができない。今年で二十三になるシンの肉体は一先ずの成長を終えている。このときのためにシンは肉体の充実まで待ったのだ。ライにそれを待つだけの時間は与えられなかった。

 シンは腰の剣に手を掛ける。抜き払うと同時に目の前に迫っていた泥の剣を弾く。

「ぐぅぅ」

 残った右手でライは額をおさえた。ヤツマタとの戦いの際に全力を行使して、続けざまに魔法を使い続けて、限界が近かった。鼻や眼球から出血している。毛細血管が破裂しているのだ。「ああああ」ライはもう一度全力で泥の魔法を操る。左右両面から巨大な手が立ち上がる。両掌をシンに向けて叩きつける。「タンガン」とシンが呟いた。

 手近にいたタンガンが『喰』の魔法によって操られて。手近にいた兵士たちが麻薬成分によって操られてシンと泥の掌の間に割り込んだ。泥の質量を一瞬食い止める。すぐに叩き潰される。その一瞬でシンは掌をすり抜けてライの間近にやってくる。ライは頭痛によって朦朧としながらシンを見上げた。泥の剣や鎌が形を失っていく。限界を超えたライの体がシンの前で頽れる。ライは敗北した。シンが勝利した。

 シンは笑みを浮かべた。

 邪悪な笑みだった。真っ黒な笑みだった。

 勝利の喜びと同時にほんの一握りの失望を感じた。ライ、おまえはおれを殺せないのか? おれはこのままバケモノの王としてこの大陸に君臨するのか? ——君臨するのだ。死を振りまくのだ。失望感を塗り潰すように歓喜がシンを満たした。

 剣を振り上げる。ライの遥か後方で何かが光った。シンは九本の尾を重ねてそれに備えた。

 ギ・リョクの手によって放たれた本当に最後の一発の砲弾が九本の尾のうち五本を貫いて残る三本をへし折って勢いを失う。ヤツマタほどの強度を持たないこの肉体はもしもあれが連射されていれば耐え切れなかっただろうなとシンはどうでもいいことを思う。これの次はあれの操り手を殺しにいこうか、と考える。

「シン」

 誰かがシンの名前を呼んだ。

 空から少女が降ってきて、ライとシンから少し離れたところに降り立つ。

「スゥリーン。無事だったか」

「うん」

 スゥリーンが周囲を見回す。無数の死体。満ちている死の霧。

 空に逃れていた彼女以外を等しく襲う狂瀾。未だに周囲では味方が見方を殺す凄惨な殺戮が続いている。

「どうだ。すばらしい眺めだろう」と、シンが言う。

「これから俺は大陸の全土をこれに変えるのだ。ついてこい、スゥリーン。おまえだけは俺の傍においてやる」

 シンがライの首に剣をあてる。

 ライの右手がほんの少しだけ持ち上がったが、抗うだけの力はもう少年の体には残っていなかった。

「ほんとうに、シンはもうシンじゃないんだね」

 スゥリーンがぽつりと呟いた。

 黒紫色に変貌したシンの髪を見る。深い闇のような瞳を見る。面影は残している。でもこの人はシンじゃないとスゥリーンは思う。だってシンは世の中をよくすることを考えていた。そのために邪悪を用いることはあっても、目的そのものは善なるものだった。握ってくれたシンの手のあたたかみはまだ彼女の中に残っている。いつか戻ってくれると信じていた。でももう決して元には戻らない。シンはこれに殺されてしまったのだ。ココノビに。彼自身の邪悪に。

 スゥリーンは顔をくしゃくしゃにして泣き出しそうな顔で微笑んだ。


「ねえ、シン。

 私を助けてくれてありがとう。

 私の手を握ってくれてありがとう。

 私を離さないでいてくれてありがとう。

 私を暖めてくれてありがとう。

 私を護ってくれてありがとう。

 私を愛してくれてありがとう」


「……スゥリーン?」

「さよなら」

 『蹴』の魔法を使った。泥によってぬかるんだ地面など、この少女の魔法にはまったく影響がなかった。そして咄嗟に構えようとしたシンは泥のぬかるみに足を取られてよろめいた。ならば尾を操って迎撃しようとしたがその尾は砲弾によって大半が力を失っていた。シンを守るものはなにもなかった。剣がシンの首を斬り取った。残された胴体が血を噴き出しながらぱたりと倒れる。

「さよなら、シン。おやすみなさい」

 スゥリーンがシンの首を抱きしめて言う。

 かつて不安で眠れなかった夜にシンがそうしてくれたように。

 シンの髪と瞳から黒が去っていく。髪は枯草色に。瞳はあざやかな緑を取り戻す。

 唇がわずかに動いた。頬からこわばりが抜けて安らかな顔つきになる。

「ああ、おやすみ、スゥリーン」


 死の霧が晴れていく。

 大陸を覆っていた死の嵐が過ぎ去っていく。



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