ラ・シン=ジギ=ナハル 22
泥の魔法の力を受けた大地が、ライを中心に50メルトルほどの円を描いて泥へと変わる。それが一挙に持ち上がり、鎌の形を作る。ヤツマタの首がライに向けて襲い掛かる。幾つかが泥の鎌に切り取られたが、二つの首が首尾よく泥の隙間をすり抜けてライに迫る。後方から放たれた88ミリメルトル戦車砲の砲弾がシュウの計算の補助を受けて発射される。一秒で1500メルトルを進むその砲弾がヤツマタの首を粉砕する。続けざまのもう一発がもう片方の首を引き千切った。
「ああああっ!」
膨大な量の泥で作られた鎌が砦にも似た壊獣の巨体を両断する。
毒の血をぶちまけてヤツマタが死ぬ。
「っ……、サンロウ!」
シンは次の手を繰り出そうとして保持していたサンロウの群れを解き放った。戦力としてはさほどではないサンロウだが速度と強襲能力を攪乱のために使えば戦場を大きく乱すことができる。敵の砲も尽きた頃合い。ヤツマタは倒れたが兵とタンガンはまだ敵と五分以上の戦力を残している。戦いの趨勢は決していない。むしろ深く切り込んできたライを討ち取ることができればこちらに一気に傾けることができる。そのために温存していた最後の手札、突撃兵たちを用いる。
だが、サンロウはシンの呼びかけに答えなかった。驚いてシンが城壁の背後を振り返る。自分の築いた街々を。そこには無数の狼の死体が転がっている。武装した市民が次々にサンロウを殺している。罪人を主な出自とする突撃兵たちが市民に弄り殺されている。
ああ。そうか。
シンはいつか考えたことをもう一度思う。
――邪悪であれば、シンが冠を頂くことを望む人間よりも、それを望まない人間の方が多くなる。
――そのうち誰かが大勢の人間を引き連れて、シンを殺しにやってくる。
シンは目を閉じた。
「そうか、ライ。俺はおまえよりもむしろ、自分自身の邪悪に敗れたのだな」
反旗を翻したのは、草の国の多くの民だった。
キ・シガが健在であればこんなことは起こらなかっただろうと思う。政情に通じて民情に通じるあいつならばすぐにこれを察知して要所を操って別の流れに誘導したはずだ。欲求を多少は満足させるような法案を作って不満を軽減しただろう。だけどシンはキ・シガを殺してしまった。
それがギ・リョクの策略によるものだとシンは知らない。
ニ・フガから他の諜報員の情報を。そしてまた別の諜報員から更なる情報を芋ずる式に引きずりだしたギ・リョクが草の国の内情を知り、捕らえた諜報員を逆に用いて、頭を失ったキ・シガのネットワークを乗っ取って民の不安を煽り立てた。翅の国に協力するように仕向けた。キ・シガを殺させることからすべて一繋ぎの一連の策略だった。
そしてシンの力の象徴であるヤツマタが倒されたのを見て草の国の民はついにシンを見限った。シンを排除して翅の国という勝ち馬に乗ることを選んだ。より早く裏切ったものが、よりよい席につけることを見越して。
後衛の兵士たちが鎮圧にあたっているが協力者の一部は軍の内部にもいて混乱が広がる。
「どうにもならんな」
と、シンはぽつりと溢す。
すべてがシンの手から去っていく。
テン・ルイ。
ナラ。
キ・シガ。
ローゲン。
多くの将兵が。壊獣が。
手の中から滑り落ちていく。
シンは弱い笑みを浮かべた。
なあ? もういいだろう? おまえにできることはやらせてやったじゃないか。
これ以上おまえに打てる手は残っているのか?
シンの内側で声が響く。シンはまだ何かできることを考えようとした。酩酊したような感覚があって、考えが纏まらなかった。体から力が抜けて膝を突いた。立ち上がれないほどの無力感が、絶望がシンを覆う。シンの顔から理性が剥がれ落ちる。
そろそろ俺にやらせろよ?
「ココノビ」
と、シンの口が独りでに呟く。
シンの枯草色の髪が黒紫色に変わってく。瞳の色があざやかな緑から吸い込まれそうな深い黒へと変わっていく。着物の隙間から九本の金色の尾が這い出す。
その尾からヘロイン、コカイン、アンフェタミンなどといった各種麻薬成分がまき散らされた。戦場を飲み込む。国を飲み込む。甘い匂いがした。コカインやアンフェタミンの興奮作用が兵から思考力を奪う。シロシビンが幻覚を見せる。ジメチルトリプタミンがトランス状態を誘発する。ヘロインの精神刺激作用にあてられてそこかしこで殺戮が始まる。元より平常ではなく、戦場という場で大きなストレスがかかっていた兵士達に各種麻薬成分はよく馴染んだ。
シンの邪悪が望んだ地獄の光景が広がっていく。
真っ白な全能感がシンを満たした。
阿鼻叫喚。血肉の匂い。
己に蹂躙されるべき、か弱く美しい世界。
ここにはすべてがある。
殺す。大陸の人間のすべてを殺す。俺の愉しみのためだけに殺す。
一握りの残った理性が邪悪に食われて失われる。
邪悪の化身が世界を見下ろす。
ライがシンを見上げた。