ハリグモ=ヤグ 3
はぁ、とハリグモは何度目になるかわからないため息をついた。ライの目がハリグモを見る。ハリグモはうなだれている。馬に乗っていなければ地面にはりついて突っ伏していそうに見える。見るからに気落ちしていた。痩せた気がする。一回り縮んだようにさえ見える。堂々たる美丈夫の姿はどこにもない。
「大丈夫?」
見かねて言う。
「大丈夫じゃないです」
嫌にしおらしい声が返ってきて、なんだかぞっとする。
雰囲気が違いすぎる。
「偃月刀が、あれがないと俺ダメなんです」
ハリグモの目の端には涙が溜まっている。
「きみ、雰囲気変わりすぎじゃない!?」
ハリグモの目がライとユーリーン、それから私兵団を見渡して、曖昧に微笑む。
そこにはハリグモの配下は一人もいない。すべて草の国の都に置いてきた。
「将校らしい演技が必要なくなったもので」
自嘲するような表情だった。
「俺なんて武器がなかったらただの筋肉達磨なんだ。何の役にも立たないでかいだけのでくのぼうなんだ。うどの大木なんだ」
「でくのぼうはいまの貴様より役に立つぞ?」
ユーリーンがとどめを刺した。的確にハリグモの心を抉る一刺しだった。ハリグモの目から涙が落ちる。両手で顔を覆う。
「ユーリーン!?」
「え、い、いや、別にいま我々の役に立ってもらう必要はないとだな。貴様はロクトウの剣だろう? 無暗に振るわれる必要はないし、必要な時にだけ敵に達すればいいではないか。武器などすぐに代わりが手に入る」
「ううん、それはどうだろう?」
ライが小首を傾げた。
「ハリグモの偃月刀って、すんごく強いけど重たいでしょう? 並の人間には振ることもできない。少なくとも草の国では、槍が主流であんな超重武器の類を持ってる人は知らないね。もしかしたらこの国では生産されてないんじゃないかな」
「そ、そうなのか」
「ていうか最大の理由はね、あの武器、人間に対しては明らかに威力が過剰なんだよ」
「……ああ、そういうことか」
ユーリーンにはライの言わんとしていることを理解するまで、少し時間がかかった。ライが頷き「あれ、対壊獣兵器の一種なんだよね。だから壊獣と争わない草の国では、作ってるはずがない」と言う。
とさり、となにかが落ちる音がしてそちらを見る。
ハリグモが落馬していた。「もうだめだ。鬱だ。死のう。このまま土に還ろう」地面にへばりついたままぶつぶつとぼやいている。ユーリーンが冷たい目でそれを見下ろした。ライがハリグモのあまりの変貌ぶりに苦笑した。
行く手のもう少し先の山の麓に集落を見つける。後ろを振り返る。追っ手の姿はない。撒いたのか、なにか事情があって追いかけてくることができなくなったのかはわからないが、とにかく追撃はかわすことができたらしい。
「今日はあそこで一休みしようか。それから今後の方針を決めよう」
ユーリーンが指示を出して、“召使”が他の兵と協力してきぱきとハリグモの体を馬に乗せる。力なくだらりと下がった体を紐で括り付けた。
集落を目前にして、ライがユーリーンの裾を引いた。
「ちょっと迂回しよう」
山に入る。山中に簡単に穴を掘って、私兵団の持っている武器を埋め隠す。「武器を持って突然押し入ってきたら、元居た人たちはびっくりしちゃうよね」こともなげにライが言う。
「存外気が回りますね、きみは」
ハリグモが暗い目でライを見る。
「えへへ、もっと褒めていいよ」
ユーリーンが穴の前で、自分の剣を見つめる。先代の皇帝に彼女の父が下賜され、ユーリーンへと譲られた宝剣だ。断じてこんなところで土に埋もれさせていい品ではなかった。ユーリーンは長い息を吐いた。鞘に戻し、土の中に静かに剣を横たえた。上から土を被せて覆い隠す。
別にそれはなくても問題はなかった。ユーリーンは服の下に数々の暗器を身に着けている。護身用の短剣もある。『毒龍』たる彼女にとって長剣など敵の目を引き付けるためのものに過ぎない。ただ感傷があった。彼女の誇りが土の中に埋もれていく。装飾のついた鞘が土に覆われて、完全に見えなくなった。
夕暮れ時になって、ライ達は集落に辿り着いた。井戸のある広場を中心に木造の家々が並ぶ。切り倒された木が干されている。木材を都に向けて出荷して生計を立てている村なのだろう。
「こんばんはー」
と、ライが大きな声で言う。返事はなかったが、どこからか視線を感じる。
「警戒されてるのかな?」
肩を竦める。「人の往来がそれほどない村なのだろうな」ユーリーンが視線を感じる方をそれとなく見渡す。
小さな集落ではよそ者は目立つ。それも十人近い集団なのだから警戒されるのも当然かもしれない。野盗かなにかを疑う方が自然だ。
「とりあえず一番大きなお屋敷を訊ねてみようか」
ライがその大きな屋敷の戸を叩こうとしたのを、ユーリーンが首根っこを引っ掴んで止めた。「頼む」「はい」召使が戸を叩いた。ライが不満げな目でユーリーンを見る。
どこからどうみても子供のライや、まだ年若いユーリーンでは、まじめな交渉ごとには不向きだ。
白髪の老婆が顔を出した。瞳の色は濃い茶色だ。(ジギ族じゃない……?) ライはユーリーンの後ろから老婆をよく眺める。どこにでもあるような安い麻の服を着ている。少し険しい顔つきは奇妙な闖入者達に対する警戒によるものだろう。年月に負けて腰が曲がり、頬はくぼみはじめていたが、目には未だ十分な胆力が感じられる。
召使が「我々は旅の一座です。一夜の宿を求めて参りました。雨風を凌げさえすればどこでも構いません」と言う。
老婆が召使を、それからその背後の私兵達を見る。ユーリーン、ライ。それからハリグモへと視線が移る。「……」老婆はしばらくなにも言わずに黙ってライ達の一団を見ていた。召使が「少しならばお渡しできます」と付け足し、老婆の掌に金を押し付ける。
「納屋を使いな」
不機嫌そうに言い、隣に立つ小さな建物を指してから、戸を閉めた。
門前払いではなかったことに一先ず安堵する。納屋は九人が寝泊まりするには、狭かった。農工具などが雑に放り込まれてあるのを隅に退ける。何に使うのかわからない汚れた古布から埃を払い、丸めて枕の代わりにした。先に兵を休ませて、ライとユーリーンは納屋の外に出た。ハリグモがすっかり消沈して座り込んでいる。傍らには鋤があった。納屋の中から持ち出してきたようだ。ハリグモの目が一度ライを見て、その視線がなにげなく外れ、隣の林を泳ぐ。
「ハリグモは、これからどうするの? ロクトウのところに戻るの?」
「いいえ、ごみくずのような私が今更ロクトウ様の元に戻ったところで、灯の国の立場を悪くするだけです。私はこのままシン王の後方に潜もうと思います」
警戒の手を前だけに割けばいいのと、後ろにも割かなければならないのは随分違う。ほとんど単身のハリグモに対してシンがどれだけ脅威を感じるかはわからないが、いま一度関所を越えて灯の国に戻ろうとするよりは現実的な方針だろう。
そもそも灯の国に戻ったところで、暗殺に失敗したハリグモに居場所があるかどうかも怪しい。元々彼は養父の失態で放逐同然にこの任務に割り当てられたのだから。
「きみはどうするのですか」
ハリグモがライに尋ねた。
「んーとね、僕は蒼旗賊に会ってみたいなって」
「蒼旗賊に?」
ハリグモとユーリーンが揃って怪訝な顔をする。
「うん、五国に跨る十万人規模の農民の蜂起。どうなるか気にならない? 各国の軍隊は内輪揉めでだいぶ衰退したとはいえ、全然健在なんだ。彼らはそこに喧嘩を売ってる。どうしてそんなことをしたのか。そこにどんな問題があって、どんな目的があったのか、僕は知りたい」
「単なる暴走では?」
「暴走なら暴走で、それが行き着く先を見てみたいな」
「彼らに接触するあてはあるのですか」
「それがないんだよね」
ライが長い息を吐く。
いや、本当はあったのだ。ライはキョウの顔を思い浮かべる。夫を徴兵に取られ、北方民族との騒乱の中で失った未亡人。風邪気味だったけれどハクタクの治療を受けて完治したと言っていた。蒼旗族の長、ハクタクの。けれど彼女は灯の国にいる。ここにはいない。
「ダメ元でいろいろ試してみようかな」
屋敷の方を横目に見る。適当に雑談しながら時間が過ぎるのを待った。ハリグモに灯の国の内情を訊ねる。ユーリーンにこの集落の印象を訊く。そのうち夜が更けていく。交代で休息をとった。ユーリーンとハリグモを休ませて、ライは一人で屋敷を訊ねた。老婆が戸を開ける。「こんばんは」とライが屈託のない笑顔で言った。
「なにようだ」
「蒼旗賊に会いたいんだけど、方法を知らない?」
「なんのために」
「興味があるから。場合によっては手を貸すかもしれない」
「なにを言っている」
「急がないと手遅れになるよ。いくら内輪揉めで磨り減ってるって言っても、王の街の軍隊はそんなに甘くない。満足な武装もできてない民衆の蜂起なんて、殲滅されるのは時間の問題だ。ましてやここはシンのお膝元、人間の兵隊になんとか抵抗できる程度の戦力じゃあ、壊獣を退けることはできない。僕なら力になれるかもしれない」
「……」
「あれ。外れかな。もしくはカマを掛けてるだけなのがバレてる?」
「おまえになにができる」
「さあ」
ライは泥の魔法を使って、やわらかい土で玉座を作り上げた。それに背を預ける。
「なにができるんだろうね、僕には。僕にもわからないや」
空を見上げる。よく晴れていて、満天の星空がライを見下ろしている。三日月がやわらかな光を跳ね返している。風はわずかで、雲が静かに流れている。いい夜だった。
シンは壊獣の他に、国という鎧に守られている。本当にシンを殺そうと思うならば、まずこの鎧を砕かなければならない。それは硬く、分厚い鎧だ。対抗するための鋭く、重い矛が必要だ。その矛を振るうだけの力がいる。そのどちらも、ライの手にはない。
「……ここより南、翅の国との国境の町にいるギ・リョクという人物を訊ねるがいい」
「ありがとう」
「どうして我らが蒼旗にゆかりのものだとわかった」
「さっきも言ったけど、カマをかけただけなんだ」
「……」
「見張られてる、って最初に気づいたのはハリグモだったよ。戸口の警備を買って出てくれた。茂みの中に何人か潜ませてたんだよね。僕らがシンの手先じゃないかって警戒してたのかな。いくら僕らがあやしいって言っても、村の総出で警戒するほどじゃあないでしょ? だったら、なにかあるんだろうなって」
「貴様は」
「武器を置いてきたのが正解だったのかは、あやしいところだね。問答無用で戦闘になることは避けられたけど、おかげで僕が休めないや」
泥の魔法をもってすれば集落一つを壊滅させることなど容易にできる。
だけど寝込みを襲われれば一溜りもない。ライはよく知らないが、ユーリーンが仕込んでいる暗器はきっと複数人を相手取るには向いていないだろう。ハリグモの武勇だって、手にする武器が納屋に放り出されていた鍬や鋤ではたかがしれている。……ハリグモならばそれでも村人ごとき蹴散らしたかもしれないが。
ライは泥の玉座から身を起こした。ぼろぼろとそれが崩れて元の地面に戻っていく。
「じゃあね、おばあちゃん。夜遅くにごめんね」
納屋に引き返そうとしたライを「まて」しわがれた声が引き留めた。
「明け方に食事を持たせる」
「いいの? ありがとう」
「礼はよい。押し付けられた金貨の半分の価値もない行いだ」
ライはくすりと笑って頷いた。
納屋の近くに泥の魔法で階段を作り、屋根に登って星を見ていた。
朝になって、村のものが運んできた食事を兵士たちが掻き込む。わずかな米と草を煮た粥で、上等なものではなかったが空腹には十分に響いた。毒を警戒したユーリーンは口をつけていない。「おいしいよ?」と隣で言うライを、目を三角にして睨んでいる。
老婆が納屋を訪れた。
「馬にも飼料を与えておいた。無用な混乱を招かぬうちに出て行くがよい」
「うん、ごめんね。急に押しかけて」
老婆は何も言わず、ただライを見た。微笑を浮かべてライはそれを見つめ返す。ユーリーンが昨夜と違う老婆の対応に少し戸惑う。老齢の女まで誑し込んだのか、とライを訝しむ。
「クル族か」
老婆は小さく呟き、踵を返していった。
「んん」
ライが伸びをして、肩の筋肉を解した。一つ大きく欠伸をする。涙の雫があふれる。
「追い出されてしまったが、これからどうする?」
ユーリーンが尋ねる。
「南に行こう」
「なにかあてがあるのか」
「うん、ちょっとお茶を飲みにね」
ライにはまじめに答えるつもりがないらしかった。昨夜一人で話をしに行ったなどと知られれば、またユーリーンが目を三角にして自分を睨むことが分かっていたからだ。ユーリーンはライのその闊達さや奔放さがいつかライを殺してしまうのではないかと怯えている。「弄んでやるな」と言ったハリグモの言葉が思い浮かぶ。気を付けてあげたほうがいいのかもしれない、とライはくすりと笑った。
「まあいいや。行こう」
一人で馬に乗れないライはユーリーンの乗る馬の前に収まる。「ねえユーリーン」「なんだ」「そのうち馬の乗り方を教えてよ」ユーリーンは驚いた顔をした。それからすっと目が優しくなる。「ああ、落ち着いたら」頷く。
太陽の位置を基準にしてライ達は南に向かった。
分厚い雲が浮かんでいて、雨が降りそうだなとライは思う。