プロローグ
「ああ、生まれたのか。それで、どちらだった?」
白い毛皮の中に埋めた体を起こして、美しい少年が微睡から覚める。長い睫毛が揺れて、若草色の瞳が輝く。口元に笑みが浮かぶ。少年の名はラ・シン=ジギ=ナハル。広大なユウレリア大陸を統一した覇王の、二十二番目の王子である。
シンの背後で、彼の身の丈の三倍もの体躯を持つ狼が口の端から人の足をはみ出させていた。ぐちゃぐちゃ、にちゃにちゃと、唾液と肉と体液が入り混じる嫌な音がする。喰われているのはシンの兄にあたる人物だった。
シンの前で膝をつく男、テン・ルイは緊張した面持ちで「男児でございました」と言った。
「よしよし、そうか。そいつはおもしろくなりそうだ」
テン・ルイの表情がわずかに弛緩する。産まれたばかりの赤子を、狼の餌にするのは忍びなかった。
覇王が大陸を統一して三十年の時が経っている。彼が遣わせた執政官は善政とは言えないまでも悪政とも言えない政治を行い、覇王の王国はそれなりの安定を見せた。少なくともこの三十年の年月は、覇王のカリスマと武力と政治力の範囲内で納めることができていた。
だがすべての人間がそうであるように、彼にも遂に寿命が訪れたのだった。
覇王は後継者を選ばなかった。いや、選べなかった、というべきか。彼の息子たちがあまりにも愚鈍で愚昧で、取るに足らなかったからだ。それでいて息子たちの権力に対する欲求だけは立派な物だった。それら愚物の中にあって、覇王が唯一これだけは、と思える王子がただ一人だけいた。ただ彼はあまりにも幼すぎた。彼、ラ・シン王子はわずか八歳の少年だったのだ。
これを後継に、と指名すれば彼の兄達はシン王子を暗殺しようと躍起になるだろう。それはあまりにも忍びないと覇王は考えた。覇王はシン王子の才覚をまったく見誤っていたと言えるだろう。
この王子が正当な覇王の後継の座につけば、二十八人いるすべての王子を排除してその地位を盤石のものにしたはずだ。
「テン・ルイ。俺が弟を殺さないことがそんなに意外か?」
「正直に申し上げますと」
「俺は愚昧か賢帝かの判断もせずに人を排斥しないよ」
愚昧ゆえに排除された彼の兄を振り返る。白狼の頭を撫でる。狼は目を細めて、血の匂いのする舌で彼の頬を舐めた。朱の色がべたりと頬に張り付く。
「そうだ。名は? 俺の弟はなんと名付けられたのだ?」
「はい、ニ・ライでございます。ニ・ライ=クル=ナハル王子と名づけられました」
「そうか、ニ・ライ。ライ王子か」
鈴の鳴るような美しい声で、その名を呼ぶ。
くくく、と低く笑う。聞くものによっては妖艶に。別のものにとっては哄笑に聞こえただろう。また別のものにとってはただの子供の含み笑いに思えただろう。
「テン。国はしばらく兄上に預けよう。俺は野に下る」
「はっ。よろしいのですか。シン王子ならば玉座もすぐそこかと思われますが」
「俺はもとよりこの腐った玉座など欲してはいないよ。俺がこの国を盗るときは、もっと拵えのいいやつに座るさ。なぁに、心配はいらない。すぐに国を自滅させかねないアギやクイ、それからもう何人かは排除したのだ。後継は次第にレン兄に纏まるだろう。あの人ならば、この腐った国をしばらくは持たせるさ。再建させるほどの手腕はないにしろ、ね。せいぜい長持ちさせて弱らせてもらおう。きれいに壊さなければ新しいのが美しく建たないからなあ」
テン・ルイは寒気を覚えた。
この子は、世が平和ならば賢君として民に愛されただろう。
だが覇王の死と同時に、大陸は長い混乱に包まれることになる。
その乱世の中では——
「さて、心配事といえば、俺の弟は馬鹿兄貴や阿呆姉貴に殺されやしないだろうか。幾らか歳を食っていればそれで終わるまでの愚弟と見限れるのだが、さすがに産まれたての赤子ではなあ」
シン王子は転がっていた兄の腕を白狼に向けて放り投げた。口で受け取った狼がそれを弄ぶ。シンが窓から身を乗り出し、下を見下ろす。慌ただしく武官達が走り回っている。情報が錯綜しているらしい。テン・ルイのような信頼できる部下を持たぬ間抜け共が踊っている。
「まあそれで死ぬようならば、それもまた弟の天命か」
それからしばらくして一頭の馬とそれに乗った大きな体格の男が王都から脱出していった。背に矢傷を受けており血痕がどこまでも続いていた。ニ・ライ=クル=ナハル王子は行方不明となり、かの王子は兄王子達の暗殺の魔の手をかわすことができたのだった。