六十一話「継ぐ思惑。手に入れたるは支配の力」
「猊下!サイフォン・ドルナード以下二名、只今帰還致しました!」
ディベリア神聖国、ヌ―メン大聖堂横の宮殿兼教皇宅。
天窓から陽光が注がれる静謐で神秘的な部屋で、シルム王国から脱走してきたドルナードを含む計三名と向き合っているのは、豪奢な椅子に深く腰掛けた、教皇クラムド・D・フェリア。
その左右には、揃いの衣服に身を包み、美麗な装飾を施した短剣を抜き身の状態で切っ先を天に向けて構える聖魔術士が五人ずつ、クラムドへの道を作るように向き合って並んでいる。
発せられる雰囲気は、害される事はないだろうと信じて疑っていないドルナードでさえ、背筋を張り、脂汗を全身に掻いてしまうほど、緊迫したもの。
まるで、首元に全方位から鋭利な剣先を押し当てられているかのようにも錯覚させられる。
ゴク───。
狭まった視界を埋め尽くす赤い絨毯を見たまま、何も声を掛けられない事に不安を覚え、口内にあるなけなしの唾を吞み込むドルナード。
同じく片膝立ちでクラムドの言葉を待つ後ろの二人も生唾を飲んでいたが、そんな些末な事に気付く余裕はなかった。
ただ静謐な空間で、毛穴という毛穴から滲み出る脂汗の感覚を肌で感じる。
この部屋に時計はない。
あろうとも、許可なく顔を上げる事の出来ないドルナードら三人は見る事が出来ない。
分厚い壁、扉で外の音を遮断するこの部屋では、永遠とも思える何の変化もない時間が流れ続ける。
実際には名乗りを上げた後数十秒しか過ぎていないのだが、ドルナードら三人にはとうに限界が訪れようとしていた。
それ程までに、この張り詰めた空気の中で、周囲の状況が分からずに身動きすら取れないというのは過酷なものだった。
「顔を上げよ」
漸く声を掛けられた事で胸中を安堵で満たし、頬を緩める。
だが、三人はすぐに表情を引き締め、短い返事とともに顔を上げた。
三者ともに額には脂汗。
そのせいで下した前髪が貼り付いてしまっている。
表情の無いクラムドと三人の心情が正反対と言ってもいい程違うものである事は、火を見るより明らかだ。
「報告はこの書類の通りか?」
クラムドが三人を見下ろして、横に置かれた小さな丸テーブルの上にある冊子を人差し指でトンと叩く。
それは、シルム王国での潜入調査の記録を纏めたものだった。
「はッ!全て書き記した通りにございます!」
代表してドルナードが返答し、音の切れ目で再び空間は静寂に支配される。
クラムド以外、誰も声を発する事など出来ない。
確約された静寂。
書類に不備はなく、シルム王国内で行ってきた事にも問題はないと分かっているのに、緩く閉じられたクラムドの口から何が告げられるのかと、三人は固唾を吞んだ。
「長きに渡る任務、ご苦労だった」
クラムドから与えられた短い厚情に、自然、三人の緊張も緩む。
母国を離れ、異国の地で気を張りながら続けてきた任務が漸く終えられたような、そんな感覚で満たされた。
「カイデン」
「はッ!」
クラムドに名前を呼ばれたのは、聖魔術士が一人、アガディ・カイデン。
胸の高さに構えていた剣を鞘に納めクラムドへ礼をした後、一歩下がって列を抜け、三人の元へ向かう。
「立て」
視界の端に見えるカイデンの冷ややかな目に身を硬直させながらも、三人がほぼ同時に立ち上がる。
散大した瞳孔を持つ目で見据えるのは、クラムドの頭上周辺。
クラムドの話が終わっている以上、顔を真っすぐに見据える事は許されない。
だが、許可なく視界を切り変える事も許されない。
三人に出来るのは、体の向きと視線を固定させ、次の指示を待つ事のみ。
「〝風刃〟」
ザンッ───────ドッ──。
「カイデン様、、、な、、ぜ、、がはッ!」
風で模した凶刃が、抵抗する間もなく三人に振るわれ、一人の例外もなく体を上下に二分させた。
最後の抵抗とばかりに意識を保ち言葉を発したドルナードだったが、向けられる視線は冷ややかなもののみ。
その場の誰も、慈悲など向けようともしていない。
「どちらの情報をも持つお前達を、生かしておくわけがないだろう。せめてもの手向けとして、神への祈りは捧げておいてやろう」
「げい、、、か、、」
ドルナードが血溜まりに伏し、先程とは質の違う静寂が場を支配する。
シルム王国へ潜入していた三人が期待に応えられなかったわけではなかった。
クラムドがカイデンへ手を掛けるように指示をしたのは、あくまで自国の、延いては己が利益の為。
この結末は、三人を潜入させた頃から予定されていたものだった。
主君の為、信仰する神の為と異国の地での任務に励んでいた約十年に渡る忠誠の対価は、形ばかりの厚情のみ。
死の間際に約束した神への祈りさえ、片肘をついて瞑想するばかりで、捧げられる事はなかった。
「カイデン。私はこれから幻霊林へ行く。戻ってくるまでに、それをシルム王国の街道、魔物の出没地点にでも捨ておけ。この部屋に汚れは残らぬように、な」
「はッ!!」
溜め息を吐いたクラムドが、血溜まりを見てそう零す。
血溜まりだけでなく、切り口から噴き出した鮮血は、赤い絨毯の至る所へ飛び散り、その色を濃く染めていた。
死体を移動させようとも、この場で人死にがあった事は隠せそうもない程の惨状。
その有様は、無残に散った三人の残した、己が生きた証のようにも見える。
「ベクラディン、イースト、ロットル。回収した腐愚民を連れて付いて来い。向かうぞ、幻霊林へ」
「「「はッ!!!」」」
ほんの数時間前、この場に姿のない聖魔術士からクラムドへ報せがあった。
幻霊林最奥で、求めていたものを見つけた、という報せが。
これから得るものに期待し、嫌らしい笑みを浮かべるクラムド。
その表情からは、尽してくれた臣下へ対する思いなど微塵も感じる事は出来なかった。
「猊下、お待ちしておりました」
幻霊林の入口。
侵入者を拒むように密集して木が生えた場所で、二人の聖魔術士が腐愚民を乗せた数台の馬車を引き連れてやってきたクラムドに傅く。
魔人域全土から集められた腐愚民の数は、およそ五百。
その殆どが奴隷として虐げられ、商売の道具にされていた者達だった。
勿論、何の対価もなく商売道具を連れて行かれた事に元の持ち主達からの反発はあったが、圧倒的な権力を持つクラムドの前では小さな反発は無いに等しく、そのどれもが騒ぎにすらならずに収められた。
ディベリア神聖国に連れてこられた後の腐愚民達に待ち受けていたのは、当人らの予想と反して元よりも格段に良い待遇。
牢に入れられ、出会う人全てから蔑みの目を向けられるが、仕事を与えられるわけではなく、質は低くも今までとは比にならない程の量の食事を与えられる。
自ら命を絶つ事も出来ず、終わりの見えない地獄を体験してきた彼らにとって、ディベリア神聖国へ来てからの生活は天国と見紛う程のものだった。
それらが家畜を肥え太らせる為の行為と相違ない事に気付けというのは、束の間の至福を噛み締める腐愚民達にはあまりにも酷な希望というものだろう。
今まで隠れて平穏無事な生活をしてきたごく一部の腐愚民の中には、自分達の扱い、おおよその思惑に気付いている者もいたのだが、その者達は皆一様に、余計な発言が出来ないよう猿轡を嵌められている。
猿轡を嵌められる一部の仲間を見て、向いて来た天運を手放さないように、自分達を救った者達に害悪と認定されないようにと、殆どの腐愚民は警戒心を即座に瓦解させ、与えられる指示に従順になるようになった。
過酷な環境に長く置かれた者ほど、少ない享受で従順になる。
全てが自分の思い通りになっている事に、クラムドはまた嫌らしく笑みを浮かべた。
「幻霊王はどこだ」
「ご案内致します」
一行を先導するのは、聖魔術士のフュージ・ゼットン、モック・セドナ。
メヒトとケイトが幻霊林で目撃した聖魔術士の内の二人。
目撃した五人の内残る三人は、クラムドの言う幻霊王を探す任務の途中、免れる事の出来なかった腐王との戦闘で命を落とした。
自らの側近とも言える聖魔術士三名の死すら、クラムドを感慨に耽らせるまでには至らない。
目的へ辿り着く為の、必要な犠牲。
どれだけ自分に近しい者の死であっても、クラムドにとっては塵芥の死となんら変わらないものだった。
「この辺りからは木々も少なくなってきますので、地上を走行しても問題ないかと思われます」
馬車が通れない程に木の密集していた地点を飛び越え、腐王により草木の殆どを消失させられた地点へ降り立つ一行。
馬車に約二十名の魔術師を同乗させているとはいえ、五百もの腐愚民と数十頭の馬を浮かせての移動は、クラムドが想定していたよりも数段困難だった。
目的地への迅速な到着を目指すのであれば、馬の脚力に頼る事なく最後まで飛んで移動したほうがいい。
だが、それでは魔力が持たず、想定外の襲撃に耐えられそうもない。
「どれ程掛かる」
「これだけの大所帯ですので、三日は見ていただいたほうがよろしいかと、、」
「帰りの事は考えなくてもよい。魔力水もある。二日で着け」
「で、ですが、、」
「二度言わせる気か?」
「も、申し訳ございませんッ!!」
ゼットンが発言しようとしていたのは、近道をすればほぼ確実に腐王と遭遇してしまう、というもの。
動きこそ鈍重な腐王だが、触れる事すら出来ないという危険性、体の大きさ故の射程距離の長さを考えれば、避けて通ろうと考えるのは自然。
そう考えこそすれ、優先すべきは自らの意思よりクラムドの指示。
強大な不安を抱えつつもゼットンは指示に従い、一行を率いた。
その先に、腐王の累が及ばぬ事を願って。
「ここから地上を走り、二時間程で到着するかと思われます」
「漸くか、、」
幻霊林での移動を開始して二日目の夕方。
もう間もなく日没というところで木の密集地帯を宙を行く事で抜け、ぬかるむ地上に降り立った。
持ってきていた魔力水は、度重なる飛翔で使い切っている。
馬車に乗せている魔術師達の魔力残量を考えれば、もう飛ぶ事は出来ない。
ここからは、地上での移動のみ。
それでも二時間で目的地まで到着するのだが、クラムドには一つ気掛かりがあった。
それは、現在地の木々や地面の腐り方。
今までのものとは全く違い、腐り果ててから大した時間の経過をしていない。
それは、近くに腐王がいるという事を意味していた。
魔力水を切らした状態での腐王との遭遇は、大きな危険を伴う。
クラムドが逃げ遅れる事は無いとはいえ、幻霊林の最奥まで腐愚民を届けなくては今回の目的は果たせない。
表情を変えずとも、クラムドは内心、焦りから来る苛立ちを募らせていた。
「ッ!?誰だ!?」
揺れる馬車内で、クラムドが誰何の声を上げる。
声を向けたのは突如感じた視線の主。
そう。
メヒト、ケイトが感じたものと同じ、どこからともなく向けられる嘗め回すような視線だ。
クラムドはそれ以外にも、変わらず向けられ続ける視線に怒りのような感情が乗せられている事を感じ取っていた。
明らかに人のそれではない。
即座にそう判断出来る程、刺さる視線には埒外のものを感じられた。
⦅去れ・・・⦆
一行の頭の中に、怒気の込められた短い言葉が響く。
音として届いたわけではない。
声の届く範囲に、発言をした者は見当たらない。
視覚外からこれだけの人数の頭の中に、直接語り掛けている。
その事実が、全員の背筋を凍らせた。
脅威として恐れられる腐王でさえ、おそらくこのような芸当は出来ない。
そこから導き出されるのは、声の主が腐王以上の存在であるという答え。
絶望とも取れる答えにも拘らず、クラムドはにやりと笑った。
「去るわけがなかろう、幻霊王よ。待っていろ」
⦅粋がりよる。弱き者の分際で⦆
声と視線に、先程よりも強い怒気が乗せられた。
それらは間違いなく、挑発するクラムドへと向けられたもの。
およそ一人で太刀打ち出来る相手でない事は、クラムドも理解している。
それでも尚、恐れて尻尾を巻いて逃げるという選択肢はなかった。
己が悲願を、信仰する神の悲願の達成を望むが故に。
「げ、猊下!!」
「腐王をも操るか、、、」
現れたのは生ける災禍。
先行していたセドナの示す方向に、周囲を腐敗させながら真っすぐに一行へと向かってくる腐王の姿があった。
まだその巨躯の射程範囲ではないが、間違いなく、幻霊王の下へ辿り着く前に交戦する事となるだろう。
迎撃態勢を整え全員で戦おうとも、魔力水の切れた現状では腐王に傷を負わせる事が関の山。
討伐など、出来ようもない。
そんな状況にも拘らず、クラムドが下した決断は前進。
迎撃もせず、撤退もしない。
あくまで目的地へ向かって突き進むという決断。
とても、英断と言えるようなものではなかった。
「ゼットン、イースト、ロットル。御者以外の魔術師を引き連れ、腐王の進路をずらせ。命懸けでな」
「「「はッ!!!!」」」
腐王に少ない人数で立ち向かう。
それも、一定以上の実力を持つ者は経ったの三人。
魔力水もなく、魔装に充填してきた魔力の残量も心許ない。
間違いなく、全員が命を落とす事になるだろう。
日の目を見る事のない、無意味な特攻。
死体が母国へ還る事もなく、誰も立ち入る事のない幻霊林で跡形もなく腐敗させられるのみ。
それでも三人の聖魔術士は文句を言う事なく、馬車に乗る魔術師達を連れて勇敢に立ち向かっていった。
死の象徴とも言われる、腐王の下へと。
「猊下!こちらです!」
人数を大幅に減らして辿り着いたのは、大陸の端にある濁った三日月型の池。
その向こうには、幹が直径50mはあろうかという巨大な木が聳え立ち、背後には雲海が見える。
ジュッ───
沼に落ちた一枚の葉が、熱した鉄に触れた水滴のような音を立てて消失する。
それだけで、沼の水が有害なものである事は容易に理解出来た。
「道を作れ」
「はッ!」
判断は迅速に。
行動も迅速に。
そうしなければ、差し向けた戦力を御した腐王が追い付いて来る。
追い付かれれば、前方の幻霊王、後方の腐王。
最悪の挟み撃ちをされてしまう事になる。
その状況に陥れば、例え一人でも逃げ切る事は困難だろうとクラムドは考えていた。
急いで沼を渡り、目的を果たさなくては。
クラムドの頭の中にあるのは、その一点のみ。
「お気を付けください」
クラムド、セドナは橋を使わずに対岸まで飛び、腐愚民を乗せた馬車は一台ずつ、即席の橋を渡る。
聖魔術士であるセドナが作製した橋の安定感は抜群で、例え全ての馬車が同時に渡ったとしても揺れる事すらないと思える程の安定感を持っていた。
「私一人で行こう。ここで待っていろ」
「はッ!」
馬車が渡り切るのを待たず、クラムドは一人大樹の元へ向かう。
近付けば近付く程、大樹は木ではなく、圧倒される程巨大な木造の壁と変貌していった。
実際は形を変えてはいないのだが、クラムドには、眼前に広がるものが一本の木であるとは、とうに思えなくなってしまっていた。
変化を感じるのは木の圧力だけではない。
近付く程に、一度感知してから途切れる事のない怒気を含んだ視線が強さを増しているのを感じた。
だが、その視線の主であろう幻霊王の姿は、触れられる程大樹に近付こうとも見えない。
「裏か?」
上下左右、大樹を舐めるように見回しても幻霊王の姿を視認する事は出来ない。
二日も空気の悪い場所へ居た事によるストレス値の上昇、腐王に追い付かれるかもしれないという焦りから、クラムドは自らの体を浮かせ、徒歩の何倍もの速さで大樹の裏へと回り込んだ。
貴重な魔力を消費するリスクなど、微塵も考えずに。
⦅何をしにやってきた、弱き者よ⦆
大樹の裏。
そこには、洞の中で体を丸めた状態で大樹の枝で雁字搦めにされ、体の自由を奪われた巨大な狐の姿があった。
体躯は目算で腐王の倍程。
その威圧感からも、普通の獣や魔物の類と同列に扱う事など、出来そうもなかった。
巨大な口から紡がれた声、身が竦むような視線を見るに、間違いなくこの狐がクラムドの求めていた幻霊王。
支配の魔術、俗にいう契約の魔術を持つ精霊だ。
「どちらが弱き者か。無様だな、幻霊王よ」
⦅安い挑発よの⦆
淡々と言いながらも、確実に幻霊王の視線に向けられる怒気は強まっていた。
見られているだけにも拘らず、物理的な圧力を感じる程に。
それを一身に受けるクラムドが無事なわけはなく、辛うじて虚勢を張るのが精一杯の状態だった。
とはいえ、恐れを成して一度退避して再度幻霊林に入ろうとすれば、その時は初めから腐王を差し向けられるだろう。
となれば、これからする交渉の為に多少無理をしようとも、強気で出なくてはいけない。
その一心で、クラムドは必死に幻霊王の目を見据え続けた。
⦅ほう。我の視線に耐える程の気概はあるか⦆
「動けぬ者の威嚇など、恐るるに足らん」
⦅ふん。内に秘める別物の手柄であろうに⦆
「その程度は見抜くか、、、」
幻霊王の言葉を受け、クラムドが右手に嵌めた指輪を逆の手で押さえる。
それが何を意味するのか知る事が出来るのは、歴代のフェリア家当主のみ。
あのメヒトですら、確かな情報を持ち得ない。
⦅何をしにやってきた。内容によっては、腐王の進行を止めてやってもよい⦆
クラムドは知らない。
幻霊王に操られた腐王が、差し向けた戦力をとうに屠っている事を。
その後すぐ移動を開始し、もう既に逃げる事が出来ない程近くまでやって来ている事を。
「望むのは、私との契約だ」
⦅ほう。我の力を望むか?⦆
「そうだ」
⦅それは出来ぬ。忌まわしき精霊王によって、我は権能の殆どを封じられておるからな。大樹の封印が解けぬ限り、契約を結ぶだけでなく、ここを離れる事すら出来ぬだろうよ。少なくとも、貴様の寿命が失われるまでには成し遂げる事は出来ん⦆
「魔力があれば、契約を結べる程度には回復する事が可能であろう?」
⦅質と量による。少なくとも、貴様一人程度の魔力では、何度足を運ぼうと快方に向かう事は無かろうな⦆
「それくらいの事は理解している。セドナ!腐愚民を一体寄こせ!」
クラムドが声を張り上げ、そう叫ぶ。
大樹の向こう側から聞こえてきたのは、セドナの返事と、猿轡を嵌められてまともに話せない腐愚民の唸り声。
言葉にもならない程度の低い音声にも拘らず、伝えようとしている感情は手に取るように分かってしまう。
恐怖。
そこからくる怯え。
命乞い。
肥え太らされた意味を分からされる時が来てしまったのだと、腐愚民は理解していた。
「連れて参りました。猊下。腐愚民なんぞを一体何に、、」
「余計な勘繰りは必要ない。腐愚民を置いて持ち場に戻れ」
「はッ!出過ぎた真似を失礼致しました」
「ゔー!ゔー!」
「騒ぐな」
ここに置いて行かれたら最後。
もう助かる術は無い。
大樹の洞に見えた巨大な狐を見てそう悟った腐愚民は、クラムドに首根っこを掴まれながらも縛られていない足をバタつかせ、必死にもがいた。
幻霊林に入ってからの二日間で計一食しか与えられていない腐愚民の抵抗力など、たかが知れているのだが。
ドサッ───
複雑に絡む木の枝の隙間を縫い、幻霊王の口のすぐ側に腐愚民を投げ入れるクラムド。
腐愚民は体を強く打ち付けながらも急いで立ち上がりその場からの脱走を図るが、後ろ手に縛られた状態で複雑に入り組んだ枝の迷路を切り抜ける事など、出来はしない。
⦅何の真似だ?⦆
「そいつを食え。大量に魔力を内包している」
⦅見る限り、魔力は無いようだが?⦆
「死ぬ間際に内包された魔力が全て放出される」
⦅ふむ、、。まあよい。従ってやろう⦆
「ゔー!ゔー!!」
ぐしゃっ。
ばりっ、ごきっ、ばり。
ぐちゃ、、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ───────ごくん。
長い舌に巻かれ、幻霊王の口内に運ばれた腐愚民は、断末魔の悲鳴を上げる事なくむごたらしい音を立てて命を落とした。
バキ───バキバキバキバキ──
⦅むっ?⦆
幻霊王が噛み砕いた腐愚民を飲み込むのと同時に、複雑に絡んだ枝の内数本が砕け散る。
途方もない数である事を考えればたかだか数本、大した事のないように思えるが、今まで幻霊王がどれだけ力を込めようとも割れる事の無かった枝だ。
ゼロとイチでは、大きく意味合いが変わってくる。
⦅弱き者よ。これはなんだ?⦆
「腐愚民だ」
⦅腐愚民、とな?⦆
「異界の民、と言ったほうが分かり易いか?」
⦅ほう。聞いた事がある。世界の隔たりを越えてやってくる、魔力も持たぬ異界の民がいると⦆
「魔力を持たないというのは間違いだが、概ね合っている」
⦅確かにの。嚥下をした瞬間、内包されていた膨大な魔力が流れ込んできおったわ⦆
枝が数本折れたのは、幻霊王へ流れ込んだ膨大な量の魔力が、精霊王が施した封印の力を弱めた為。
生命活動を維持する以上の魔力を蓄える事が出来ないようにされていた事が影響して、幻霊王の体内に入りきらずに漏れ出た魔力が封印の枝を折ったのだ。
そして、封印が弱まったという事は、その分幻霊王が蓄える事の出来る魔力量も増えたという事。
これを繰り返していけば、、
⦅数があれば、我が権能も取り戻せるだろう⦆
求めていた答えに、クラムドは目を見開き、幾度目かの嫌らしい笑みを浮かべた。
おそらく、魔人域全土から集める事の出来た腐愚民のみでは、封印の半分程を解くのが限界だろう。
だが、クラムドの目的は幻霊王の封印を解く事ではない。
あくまで、支配の魔術を手に入れる事が目的。
⦅だが、問題もある⦆
「なんだ」
⦅一日に食せるのは十人までだろう。それ以上は、膨大過ぎる魔力のせいで我が身が滅びかねん⦆
魔人は一日に魔力水を一本までしか飲む事が出来ない。
何故ならば、高密度の魔力を体内に流し込むというのは、本来であれば睡眠を摂らなければならない程に疲れてしまった体を、薬で無理矢理起こすような行為であるから。
魔力量の少ないものであれば、一本の摂取でさえ数日寝込んでしまう事もある程。
高密度の魔力というのは薬にもなり、劇物にもなる。
そしてそれは、魔人だけでなく精霊にも当て嵌まる事。
魔力を体内に蓄える事が出来るという同じ性質を持つ精霊も、許容量こそ魔人より遥かに多いが、摂取のし過ぎは身を滅ぼす毒となる。
腐愚民十人の魔力を一日に摂取すれば、それぞれの魔術のトップ以上の精霊でなければあっという間に魔力が飽和して破裂してしまうだろう。
いち魔術のトップであっても、おそらく、途中で限界が来る精霊のほうが多い。
つまり、それに耐えうる体を持つ幻霊王は、精霊の中でも指折りの強者であるという事。
その事実を、クラムドは己が肌で感じていた。
「十人食せば、契約を結べるまでに回復するか?」
⦅おそらくの⦆
「物は試しだ。セドナ!追加で九人腐愚民を連れてこい!!」
「はッ!」
ぐしゃっ。
ぐしゃ。
ぐしゃっぐしゃ。
ばりっ、ごりっ、ばり。
ばりっ、ばりっ。
ぐちゃ、、
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ───────
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ────
ぐちゃ──────ごくん。
バキ──バキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキ─────
新たに九人の命が犠牲になり、その対価に封印の枝が幾本も音を立てて折れ、地面へと音もなく落ちる。
何故か一人当たりの折れる本数が増え、幻霊王の胴回りには明らかに隙間が出来ていた。
それでも尚、思うままに動くには至らない。
「どうだ?」
⦅近う寄れ⦆
胡乱げな視線を向けつつも、素直に従って幻霊王へと歩み寄るクラムド。
対面したばかりの時のように怒気を孕んだ視線は向けられていないが、それでも近付くごとに大きく見えてくる幻霊王の目からは威圧感が漏れ出ている。
強者故の威圧感が。
見て分からない程度に及び腰になりながらも、クラムドは何とか幻霊王の顔のすぐ側まで辿り着く。
絡まる封印の枝のせいで襲われた際にすぐ逃走を計れないが、そもそも幻霊王は口を大きく開ける事すら出来ないのだから、その心配はする必要がない。
⦅ 〝契約を〟 ⦆
クラムドを淡い光が包み込む。
それと同時に、契約した精霊の情報が流れ込んで来た。
支配の魔術を持つアルフレリック・ロード・インペリウム。
そして───
「腐王、、?」
そう。
契約出来る精霊には、腐王の名があった。
正確には名ではない。
クラムドに流れ込んで来たイメージは、腐敗の魔術と腐王の姿のみ。
精霊の中でも上から数えたほうが良いほどの強者の部類に入るにも拘らず、腐王には名前がなかった。
⦅ここまで辿り着き、封印を解く光を差した褒美だ。大人しく受け取っておくといい⦆
「くっく、、、。はーっはっは!!!!!」
予期せぬ力を得られたクラムドが、天までも続くような暗い洞の中で高笑いをする。
全てを腐敗させる力を得た。
それが有機物であれ無機物であれ、魔術であれ。
精神に干渉する魔術の内、視覚で捉える事の出来ないものを腐敗させる事は叶わないが、それ以外に関しては絶対的な力を誇る。
この力があれば、ウルやメヒト、バオジャイにすら勝つ事が出来る。
それを成し遂げるには魔術の扱いに長ける者でなくてはならないが、クラムドであればその点は心配無用。
だが問題は、魔力保有量。
クラムドは魔術大学入学当初、陰で魔人もどきと言われていたほど、平均よりも圧倒的に魔力保有量が少ない。
魔装に充填しておけばその欠点は補えるが、魔装に充填する魔力を捻出する事が出来ない。
圧倒的な力を持つ腐敗の魔術を使うには、自然、大量の魔力を必要とするわけだが、、、
「ふっふっふ」
それを理解した上で、クラムドは笑みを零す事を止めなかった。
まるで、そんな事は事前に想定していたかのように。
⦅これで契約は完了であるが、最後に問おう。貴様は何の目的を持って動いている?⦆
笑みを抑え、その場を去ろうとするクラムドに幻霊王がそう話し掛ける。
向ける視線には、敵意の欠片も見られなかった。
「それは───」
私から話そう。
「御意に」
クラムドの脳内にのみ声が響き、短い返事の後、クラムドは首をカクンと落とした。
力を抜いて項垂れる様子は意識を手放しているようにも見える。
だが、全身が脱力してその場に倒れるわけではなく、幽鬼のようにゆらゆらと体を揺らしながらも立ったままの姿勢を保っている。
自然、幻霊王から胡乱げな視線が向けられた。
『初めまして、だな。幻霊王よ』
クラムドの口から紡がれたのは、同じ声だが全く質の違うもの。
別の何かが乗り移っていると、初見で見破れる程の変化を一瞬で成し遂げた。
乗り移ったものの正体は───




