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臨界線のインフィアリアル  作者: 中田滝
五章
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四十三話「Start of Livi」



どこにでもある幸せな家庭。

夫婦での国籍の違いはあれど、今年中学に入る一人娘も居て、全員が揃う事は中々ないが家族の仲は悪くない。

そんな家庭に、一人娘が中学校入学を控えたある日、悲劇が訪れた。

一家の大黒柱、父親の死去だ。

仕事で忙しく中々帰ってこないが、そんな中でも家族を大事にする、誰が見ても立派だと言うような人物だった。


死因は過労死。

家族を養う事で精一杯の給金だというのに労働時間は長く、無理な労働のせいで過労死をしたというのに、言葉でも金銭でも、謝罪はなかった。

そんな中で憤慨したのは、妻である雪芽クリスティーナ。

会社へ直接電話をし、役所や警察へ駆け込み、身を粉にして働いていた夫を死なせた事を認めさせ、謝罪させようと奔走した。

そんな最中、今まで家庭を守る事しかしてこなかったクリスティーナは、自分が置かれている状況を初めて理解した。

先進国と呼ばれるまで成長した日本で、未だ外国人に対して排他的な思想が抜けないこの田舎町では、クリスティーナの味方をしてくれる者が一人としていない事を。

会社では公的機関へ掛け合ってくれと言われ、役所や警察では迷惑な外国人が来たと煙たがられる。

近隣住民に助けを求めれば、力になると言ってくれる人は数人居れど、それはあくまで少数。

大多数という暴力に、すぐに飲み込まれてしまう。


18歳で母国を飛び出し、19歳で旦那と出会って子供を産んで、それから言葉を覚え文化を覚えながら、必死で子育てをしてきたクリスティーナ。

漸く言葉もある程度話せるようになり、読み書きも出来るようになって、子供も大きくなってきてあまり手が掛からなくなってきた。

だが、この町からあまり出た事のないクリスティーナには、外の世界の知識はほとんどと言っていいほど無い。

外国人に排他的な感情を持たない地域など山ほどあるという事も知らずに誰にも取り合ってもらえない現状は、異国から来たクリスティーナにとって絶望にも等しいものだった。








「お母さん?大丈夫?」

「うん。大丈夫よ」


街が静まった夜更け。

旦那が残してくれた遺産と、これから先の生活費用を計算して頭を抱えているクリスティーナに、トイレに行く為に起きてきた娘、理美が心配して声を掛けてきた。

どう考えても、何度計算しても。

二人で生活していくには、節約したとしても一年が限界だろう。

その一年という数字も、あくまで生きていく事だけを考えた場合。

理美を中学へ通わせ、制服や教科書を買い、学校行事にも参加させるとなれば、、、。

おそらく半年も持たないであろう事を、クリスティーナは既に理解していた。


(理美に心配を掛けるわけにはいかない。俊之(としゆき)にの分も理美を守らないと、、、)


理美が寝静まった後、数字をいくつも書き殴った紙を見て、殺されたと言っても過言ではない旦那にクリスティーナは心の中でそう誓った。







「ふわあぁ、、、。おはようお母さん」

「おはよう理美。お母さん今から仕事だから、ご飯食べたら遅刻しないように学校行くんだよ。お弁当は台所に置いてあるからね」

「は~い」


家計が逼迫する前に何としても職に就かなくてはならないと仕事を探し回ったクリスティーナは、面接時にあれこれとグチグチ言われながらも何とかスーパーで青果部門で働かせてもらえる事になり、家事と並行しながら日々仕事に勤しんでいた。

給料は高くなく、家事の合間の殆どを仕事に費やしても、節約に節約を重ねて漸く二人分の生活費を賄える程度の稼ぎ。

だが、長時間働いても少ない稼ぎしかなかった旦那を見ていたクリスティーナは、今の稼ぎが少ないと理解する事すら出来なかった。

数々の面接で落とされ、漸く拾ってくれた職場。

そんな職場へ恩義すら感じていて、同僚達より低賃金で働かされている事すら気付かないまま、クリスティーナは働き続けていた。



「ちょっとあんた!ゴミ掃除終わってないじゃないの!」

「す、すみません」

「全く、、、。これだから外国人は嫌いなのよね。綺麗好きな日本の国民性を少しは見習ったらどうなのかしら、、」

「すぐに掃除してきます」

「ええそうしてちょうだい。終わったら事務所まで声掛けにきて」

「あ、あの!橋本さん!急ぎでほうれん草の袋詰めをしないといけなくて、出来ればそれを、、」

「はあ!?あんたが私に指示するの?へぇ~、、。偉い身分になったもんだねぇ。で?なんだって?よく聞こえなかったからもう一回言ってごらんよ。初歩的な!ゴミ掃除すら出来ない!能無しの外国人さん?」

「い、いえ。すみません、、。何でもないです」

「くすくす。また怒られてるわあの人」

「いい年してノロマよね~。職場の雰囲気も悪くなっちゃうわ」

「ほんとほんと」



隣町にあるスーパー。

住んでいる町と同じく排他的な考えを持つ町民ばかりのこの場所でクリスティーナが喜んで受け入れてもらえるわけもなく、人一倍真面目に仕事を熟しているにも関わらず、同僚達の態度は酷いものだった。

仕事を押し付けられるのは当たり前、罵詈雑言を浴びせかけられるのも当たり前。

同僚の失敗も全てクリスティーナに押し付けられる。


(理美の為理美の為理美の為、、、)


辛い時は娘の顔を思い浮かべれば少しは気分が楽になる。

暴言を浴びせられている時も、終わりそうのない仕事に追われている時も、大好きな娘の顔を思い浮かべて、クリスティーナは必死に働き続けた。

日本で仕事に就く事すら初めてなのに、そんな言い訳など一度もせずに。









「品出ししてきます」

「待て」


包装した野菜を売り場に出しに行こうとするクリスティーナに声を掛けたのは、青果部門トップの伊賀新造。

最近別部署から移動になり、クリスティーナのほうが青果部門の仕事を出来ているにも拘らず、初めから横柄な態度を取り続けている。



「お前が品出しに行ってお客さんが買うのを止めたらどうする?残った野菜、全て買い取れるのか?ああ?」

「買取は、出来ません。でも今までも私が品出しを───」

「口答えか?ああ?外国人風情が上司であるこの俺になぁ」

「申し訳ございません。撤回致します」

「そうだよなぁ!?」



この時、クリスティーナが働き始めて三年。

押し付けられてきたせいで殆どの仕事を覚えていたが、それでも最近入った新人よりも低い扱いを受けていた。

新人から馬鹿にされようが、新しい上司に暴言を投げつけられようが、娘の事を思い出して怒りを抑え込む。

そんな事を繰り返しているせいで、未だ分かりにくい日本語がある中で、謝罪の言葉ばかり流れるように口を吐くようになってしまっていた。

(せめて理美が大人になるまでは、、不自由なく暮らせるようにしてあげたい、、、)











全ては娘の為。

そんな考えの下、給金が一向に上がらず状況も改善されない職場で働く事約六年。

朝から雪が降り積もる中、高校卒業を来月に控えた理美が誕生日を迎えた。

ただの誕生日ではない、クリスティーナの母国ではその日を境に成人として扱われる18歳の誕生日。

旦那が亡くなってからの六年、一度も立ち止まらずに前を見て進み続けてきたクリスティーナは、娘が成人する今日を一つの区切りとして考えていた。



クリスティーナはいつも以上に朝から張り切って仕事へ向かい、昼休憩の間にケーキ屋でケーキを買って職場の職員冷蔵庫に隠して、忙しい中でも準備を万端にした。

家では理美の好物であるシチューを用意してあるし、ずっと買ってあげられていなかった携帯もプレゼントとして用意してある。

後はいつも通り仕事を終わらせて帰るだけ。


(最近はあんまり口を聞いてくれないけど、今日は沢山話してくれたら嬉しいな、、、)


そんな希望的観測を持ちながら、いつも通り押し付けられた仕事外の雑用を片付けたクリスティーナは、着替えを済ませてケーキを回収しに行った。

待ち受けているのは幸福だけだと、微塵も疑わずに。










「そんな、、、なんで、、、」









職員用冷蔵庫に入っていたのは、見え易い位置に移動させられていた無残に潰されたケーキ。

箱の隙間からクリームがはみ出ていて、開けずとも用意に中の様子を想像する事が出来た。




「くすくすっ。お疲れ様~♪」




ケーキの惨状から目を逸らしたくて冷蔵庫の扉を一度閉めたクリスティーナの後ろを、青果部門のお局的存在である橋本誠子が上機嫌で通り過ぎる。

その様子は、誰が見てもケーキを潰した犯人と断定出来る程、分かり易く愉悦に浸っているものだった。

振り返らずとも、ケーキを潰した犯人が愉悦に浸っている事を理解したクリスティーナ。


その瞬間、今まで張り詰めていたものが、あまりにもあっさり切れて失われた。


娘が独り立ち出来るまでは、一つの区切りとして考えていた18歳の誕生日を迎えるまでは。

自分がどれだけ酷い扱いを受けたとしても我慢しよう。

全ては娘の為。

大好きな旦那との間に授かった大好きな娘の為なら、、、。

そう考えてクリスティーナは今までどんな扱いを受けても、反抗せずに大人しく、六年間働いてきた。

そんなクリスティーナでさえ、今回の仕打ちは許容出来なかった。

いや、娘を何より大事に考えてきたクリスティーナだからこそ、許容出来なかった。

娘の為に働いて来たのに、その想いを形にしたケーキが潰されている。

それだけは自分の中での許せる一線を越えていた。


(私に向けられる分は全て我慢出来た。だけど、これは、、、。理美の事を考えて、好きな果物ばかりを盛り付けてもらった理美だけの為のケーキなのに、、、)


わなわなと震えながら冷蔵庫をもう一度開けて拉げた箱を開け、改めて惨状を確認したクリスティーナは、ケーキはそのままに静かに扉を閉めて、ゆっくりとその場を去った。

行き着いた先、青果部門の作業場で、いつも使っている刃渡り30センチ程の包丁を何の淀みもない動作で手に取る。

不気味な程に表情が抜け落ちたクリスティーナはそのまま、包丁を持った手をだらんと下げながら、従業員用出口へと幽鬼のようにふらふらと歩きながら向かった。


考えるのは一点。

この包丁の使い道と、その対象の事。

今まで頑張ってきた事、片時も忘れた事の無い娘の事、これからの事。

その全てを忘れて、ただ一点のみに頭を使って、必要以上の時間を掛けて従業員出口へと向かった。


(もう全てどうでもいい。これまで積み上げてきたものも、これから得ようと思っていたものも。もうどうでもいい、、、)


従業員入り口の近く、自販機の前で何やら悩んでいる誠子が、クリスティーナの視界に入る。

その瞬間、失われていたはずの感情が一瞬に沸点に達して、幽鬼のようだったクリスティーナの足取りを確かなものにしてその速度を速めた。

一歩、また一歩と、確かな足取りでも音を立てないように近付いて行く。

全ては目的を実行する為に。









「あら?ケーキはいいのかしら??」



ブスリッ───。








クリスティーナの手元で、小さく鈍い音が鳴る。






「え、、、?かはっ!なにして──」



ブスッ──。

ブスッ──、ブスッ───。



「や、やめておねがッ!痛い痛い痛い!!!!も、、、やめ、、、」






鈍い音が何度も鳴って、やがて誠子は声を上げなくなった。






ドッ──。


血溜まりに沈む誠子のすぐ側に、力なく下げられたクリスティーナの手元から包丁が落ちる。

柔らかいマットが敷かれたこの場所では落ちた包丁が跳ねる事はなく、一度音を立てただけでその後は静かに血溜まりに飲み込まれていった。



「何も感じない、、か」



血溜まりに沈む誠子を見下ろして、クリスティーナがぽつりとそう零した。

初めてした人殺し。

包丁を用いて思いのままに何度も刺したから、死にゆく感覚はまだ手に残っている。

それでも、クリスティーナの心には罪悪感も恐怖も達成感も、何も浮かんでこなかった。

ただ、人を殺した。

それだけの事。

それ以上でもそれ以下でもない。

クリスティーナは何の感慨も湧かないまま返り血の付いた上着を脱ぎ、手を洗って、いつも通り車を運転して家に帰った。



















「そっか。私、人を殺したんだ、、、、」


帰り道、ホワイトアウトする視界の中で、クリスティーナはそんな事を独り言ちた。

その途端、何も感じていなかったはずの心は、反転したかのように一気に焦燥に包まれた。



「人殺し、、?私が?なんで?理美の為に用意したケーキを潰されて、、今までされた行為が一気に思い起こされてそれで、、、」



あれこれ頭を巡らせながらも、体に染みついた感覚でクリスティーナはいつの間にか自宅アパートの駐車場に辿り着いていた。

思考は、間欠泉のように一気に沸き上がってきた感情達に埋め尽くされている。

エンジンを切る事もシートベルトを外す事も忘れ、クリスティーナは車の中で自分のしでかした事に呆然とした。

あの時間に残っていた従業員は多くない。

凶器を見つければ、すぐにでもクリスティーナが犯人だと断定されるだろう。


そうなれば、、、、。


自分が捕まった後の事を考えて、クリスティーナの背筋に冷たいものが駆け抜けた。

刑務所に入る事になるのは確実だろう。

それはまだいい。

罪を犯せば刑務所に入るのは当然の事。

クリスティーナが危惧したのは自分の事ではなく、娘の理美の事だった。


理美はハーフだ。

それも、母親であるクリスティーナの顔立ちや髪色、目の色を受け継いでいる。

今でも話を聞く限り学校で良い思いをしていないというのに、母親が犯罪者という事が知れ渡れば、肩身が狭いどころでない思いをするのは明白だろう。

クリスティーナと同じように、酷い罵声を浴びせられるかもしれない。

自分が受けて来た仕打ちの惨さを一番理解しているクリスティーナにとって、娘が何より大事な母親にとって、その可能性は何よりも耐え難いものだった。


(逃げるしか、、、。でもどこへ、、、?)


逃げるとすれば絶対に見つかるわけにはいかない。

住んでいる家を出なければいけない事は勿論、見つかる心配のないような遠くへ逃げる必要がある。

この六年間、殆ど職場と家の往復しかしてこなかったクリスティーナと、学校と家の往復ばかりだった理美の二人でどこか遠くの見知らぬ土地へ。

そんな考えが現実的とは、到底思えなかった。


そもそも、卒業式を控えている理美を連れて逃げるわけにはいかない。

だからといって一人で逃げたとしても、理美に迷惑が掛かる事は明白。



「どうすればいいの、、、」


コンコンッ。


「お母さん?中入らないの?」



車の中で項垂れているクリスティーナの耳に届いたのは、運転席の窓をノックする音と、理美の声。

声に反応して上げた視界で窓越しに見えたその顔は、歳を重ねるごとに過去のクリスティーナに似てきていた。


(もう避けられない未来なら、いっその事自分の手で、、、)


纏まらない考え達を放棄して、心の中でそう零すクリスティーナ。

その目は虚ろで、とても感情を持つ人間のようには見えない。



ウィィィィィン──。



音を立てて運転席の窓が開く。

車内には、雪を乗せた外の寒い風が入ってきた。



「理美。今からちょっと行きたいところがあるから、車乗ってもらっていい?」

「いいけど、、、」



明らかにいつもと違う表情、それでもいつも通りの口調で話すクリスティーナを理美は訝しみながらも、素直に従って後部座席に座る。

誕生日だから何かサプライズがあるのだろうと推測した理美は、道中無言の母親の明らかに不審な様子も、緊張しているだけだろうと納得する事にした。


(きっと慣れない事をしているから。何をするつもりか分からないけど、気付いてないフリをしておかないと。その後に、お母さんに用意しておいたブローチを渡して驚かせるくらいは、対価としてもらってもいいよね)


白く塗り潰された外の景色を見ながら、理美はそんな事を考えていた。

母親が大変な環境で働いている事は、その一端であるが理美も知っている。

ハーフである自分でさえ、学校で良い扱いは受けないんだ。

日本語を話せるとは言っても見た目は外国人そのものの母親が置かれる環境が過酷でないわけがない。

そんな中でも女手一つで必死に働いてくれて、何不自由ない生活をさせてくれている。

最近は怒りっぽくなってしまい、何かと母親に当たってしまっていた理美だったが、自分を育ててくれた感謝は昔からずっとしていて、18歳の誕生日にその気持ちを伝えられればと、この日の為にプレゼントを用意していた。


時折大きく揺れながらも目的地に向かい続ける車中で交差するのは、偶然にもお互いを想う気持ちだった。












「お母さん?この道で合ってるの、、、?」


理美が不安気にそう零した原因は、マシになった視界に見えてきた景色。

揺れが増してきてはいたが、まさか山道を走っているだろうとは予想をしていなかったが故の驚きから発される言葉だった。

いくらサプライズとは言っても、こんな場所に用意するような大掛かりなサプライズを出来るとは思えない。

何より、忙しい中そんなものを準備する余裕なんてなかっただろうから。

そう理解しているからこそ、理美の不安は進む事をやめない車中で増していった。



「お母さんってば!!!」



何の返答もしてこない母親に、我慢が出来ずに声を張り上げる理美。

その表情は不安に憑りつかれて、目元には涙が浮かんでいた。

喧嘩をしながらも大好きな母親が別の何かに変わってしまったようで、大人しく見ているだけではいられなかった。



「理美、、、」



止まった車の中で、肩越しに理美の姿を見るクリスティーナ。

出発してから初めて、二人の視線が強く絡み合う。

だが、今から自分がしようとしている事のせいで理美の強い眼差しに耐えられなくなったクリスティーナは、すぐに目線を外して何もない前方を見据えた。



「ごめんね、ちょっと運転に夢中になっちゃってた」

「ううん。大丈夫。ぐすっ」



我に返った母親を見て、理美は溢れ出そうになっていた涙を引っ込める。

ほんの少し零れ落ちていたが、声が届いて安堵した理美にとって、そんな些細な事は気付くまでにも至らない程どうでもいい事だった。



「雪にタイヤが嵌まっちゃったみたいでね、外に出て後ろから車押してくれない?寒い中ごめんね」

「分かった」



バックミラー越しにそう言うクリスティーナに従い、外に出て車の後ろに立つ理美。



「いつでもいいよ───」


ブォォォォォン───


「え、、、?」



思ってもみなかった事態に、理美は口をポカンと開けたままその場で立ち尽くした。


タイヤは、雪に嵌まっていなかった。


それでも母親の言葉を信じて後ろから押そうとしたら、何の躊躇いもなく母親が運転する車が立ち去って行った。

車が猛スピードで白靄の向こうへ消えて行っても尚、理美は立ち尽くしたまま動く事が出来ない。


(なんで、、?なんでこんな山奥に、、?なんで、、、)


そう心の中で吐露する事で精一杯だった。

それ程までに、雪が降り積もる山奥で独り取り残されたという事実は、思考を占領するには充分過ぎるものだった。






ヒュゥゥゥ───






冷たい風が、立ち尽くす理美に容赦なく吹き付ける。

上着を車内に置いてきてしまった状態では、冷たい風はあまりにも酷だった。



「追いかけ、、、ないと、、」



ドッ────ボンッッ!!!!



漸く動き始めた理美の耳に、何か大質量の物が地面に勢いよくぶつかる音と、それを掻き消すほど大きな爆発音が届いた。



「え、嘘、、、。まさか、、、」



何の根拠もないが、理美にはその音が母親の車が発したものではないかという考えが過った。

こんな山中であれだけの爆発音。

さっきまで乗っていた車によるものだという答えに辿り着く事は容易に出来そうだったが、理美の頭に過った考えはそんな理論的ではないもの。

ただ直感で、今のはさっきまで乗っていた車が爆発した音だと、そう思わされた。



「お母、、、さん、、、お母さん、、」



体力が奪われる事など厭わず、母親の安否を確かめる為に雪を掻き分けながら力強く前進する理美。

途中何度も足が取られそうになりながら、体の震えで強制的に歩みを止められながらも、少しずつ、少しずつ進んでいく。

心をじわじわと侵食する不安から、目を逸らすように。






ドサッ───






暗闇に包まれた静かな山道に、そんな音が響いた。

寒さで凍え、思う様に前へ進めなくなった理美が倒れ込んだ音。

足も手も、体の至るところが一つの例外もなく、感覚が失われていっている。

それでも理美は、自分の感覚だけを頼りに母親の姿を探す事を諦めなかった。

ずりずりと、体を引き摺って少しずつ前へ進む。

生死はどうであれ、母親の姿を見る為に。


(寒い、、、痛い、、、体が思うように動かない、、、。なんで、こんな事になったんだっけ、、?)


こんな事になったのは、母親に突然山中に放り出されたせい。

停止しかけている頭ではそれを理解する事も出来ず、ただ目的のものを探し続ける有機物と成り果てていた。

その姿は、何かに憑りつかれているようだ。

奇しくも、最後に見た母親の姿と同じように。







トサッ──。







奮闘虚しく、理美は志半ばで冷たい地面に倒れ伏す。



「ぅ、、、ぁ、、」



凍えて、もうまともに声すら出せない。

何を目的に這いずってたのかも、理美は徐々に分からなくなっていた。



(もういいかな、、、。何の為に這いずっているのかも分からないし、もう動けそうもない。このままここで、寝てもいいよね、、、?)


〝理美!!〟


「ぇ、、、?」



雪道に倒れ伏して生存すら諦めかけた理美の頭の中に、最愛の母親が自分の名前を呼ぶ声が響いた。

辛うじて動かせる範囲で首を回しても、勿論周囲に母親の姿はない。

だが、、、いや。

だからこそと言うべきか、姿が見えないと確認が出来た瞬間、理美の頭の中で何かが弾けた。

血管が裂けたかと見紛う音が耳に届き、ぼやけていた思考が幾分か明瞭さを取り戻していく。




(そうだ、、。お母さんを探さないと。こんなところで、、、まだ死ねない、、)





ズズ──ズズズッ───





(なに、、、、これ、、、)


母親を探そうと前進を再開した理美の目の前に、赤黒くうねる空間が音を立てて広がっていく。

その大きさ、位置は、理美が這いずりながらでも入る事が出来るもの。



(お願い、、お母さんのところへ届けて、、、)



突然何もない中空に出来たその空間に不信感を抱きながらも、もう自力では母親の下へ辿り着けないと分かっていた理美は、藁にも縋る想いで蠢く赤黒い空間へと、自分の身を埋めていった。




















(ここ、、、は?雪は?山は?お母さんは、、?)


赤黒い空間に飲み込まれて一気に切り替わった視界に見えるのは、自分が寝そべる石畳と、左右にある建物の壁。

それと、遠くに見える灯り。

辺りの暗さを加味すると、時刻はおそらく同じくらい。

それでも、それ以外が元々居た雪山とあまりにも違い過ぎた。


(夢、、、なのかな、、。体の感覚が無くてここがどこかすら確認する事すら出来ないや、、、。何もそんなところまで現実に近付けなくていいのに、、)


手指がほんの少し動く事を確認しながらも、上手くは動けない事を理解して、想像した客観的に見た自分の姿を心の中で笑う理美。

ずりずりと這うその姿は青虫のようだなと、無意識に自身を卑下した。



「ぅ、、ぁ、、」



喉の痛みは消えないながらも、声は辛うじて出せるようになっていた。

そんな自分の体のあれこれを調べながら、無為に這いずる理美。

もう目的など無い。

目指す場所も雪すら降らない温暖な気候のここにはあるとは思えない。

それでも凍死の可能性が無くなった事による希望からか、ただじっと死を待つという選択肢は頭から消え失せていた。












「はぁ、、、腐愚民かよ、、、、。こんな疲れてる時に、、、」












がむしゃらに手足を動き続ける理美の頭上後方から、声が降ってくる。

気だるげな男の声。

分かる情報はそれだけ。

信用出来るかどうかなんて分からない。

それでも一縷の望みを掛けて、理美は錆びたブリキのおもちゃのようにぎこちない動きで首だけで後ろを向いた。

その先に希望が待っている事を願って。

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