二十八話「薄る郷愁」
〝これは、とても昔のお話。古くからある国と、持たざる者と言われた者達の出会いと確執の軌跡。
魔人域のとあるところに、至高神****を祀った小さな国がありました。
その国は出来た当初から精霊王を嫌悪しており、災害が起こる度に精霊王や精霊のせいにして、神に許しを請う者達を勧誘しては入信させておりました。
そうして着々と領土も国民も増やしていたある日。
奴隷商人に連れられてある男がその国へとやってきました。
自分達とは明らかに違う顔立ち。
この世界の知識も殆どなく、文字が書けなければ魔力もない。
そんな奴隷は、はした金にもならない値段で、とある商人に買い取られました。
来る日も来る日も、黙々と荷運びなどの雑役に勤しむ奴隷。
魔力こそなくとも奴隷は真面目で勤勉で、一年も経たない内にその現場の奴隷達の纏め役になりました。
これだけ勤勉なら、と。
主人である商人は奴隷に文字の読み書き、算術を教えました。
魔力がなくとも、この勤勉さと最低限の読み書き算術が出来れば何処かへ奉公へ出せる。
そうなれば自分の懐も潤うだろうと、商人は高揚した気分で毎晩仕事終わりに家へやってくる奴隷に読み書き算術を教えました。
すると、商人の予想通り、奴隷は一年程で教えられる範囲のものを全て覚えただけでは飽き足らず、気まぐれに与えた難しい本も読了していたのです。
もう教えられる事はないと、商人は土埃で汚れて泥だらけの奴隷を綺麗にして、翌朝、早速とある屋敷へ売り込みに行きました。
「過酷な現場でサボる事なく、二年真面目に働いた奴隷達の纏め役にございます。とても勤勉で、一年で一通りの読み書き算術を覚えたばかりか、与えていた本を自分で解読して読了しておりました。魔力を使えないという欠点こそございますが、それでも補って余りあるものを持っております。是非、雑役夫にいかがでしょうか?」
話をさせてもらえるのは、どの屋敷に行っても門番や使用人ばかり。
中々屋敷の主人には取り次いでもらえません。
そんな事を昼夜、毎日続けて10日程。
諦めかけた商人の目にこれまで訪れたものとは格の違う、大きな屋敷が目に留まりました。
これだけの屋敷に住む人物。
もしかしたら不敬と言われて奴隷ともどもここで果てる事になるかもしれない。
ですが、元より長く我慢の出来ない性格だった商人は、半ば自棄になりながら門番に奴隷を売り込みました。
何の反応もなく、処刑か門前払いのどちらかだろうと諦めかけた商人でしたが、あれよあれよという間に、門番、給仕長、屋敷の主人と取り次がれ、見た事もないような煌びやかな部屋で奴隷を雑役夫として住み込みで奉公をさせるという段にまで至る事に成功していました。
屋敷の主人の名は、アムド・D・フェリア。
いつの間にか国の反対側まで来ていた商人は知りませんでしたが、フェリア家はこの国で一、二を争う資産家の家だったのです。
それと同時に、好奇心旺盛で変わったものばかりを集める変人だとして実しやかに噂されていましたが、奉公する際の給与を聞いた商人は、そんな噂など聞いても靡く様子などないように、何度も首を縦に振りました。
奴隷の給与が入ればあれをしよう、これをしよう。
帰り際に一人で馬に跨った商人は口角を分かり易く吊り上げます。
奉公の給与が入って懐がかなり潤ってきた数年後のある日。
商人の元へと奉公先のフェリア家から文書で通達がありました。
〖奉公奴隷の主人に話がある。直ちに出向せよ〗
折りたたまれた紙にたったの一文だけ。
そう書かれてありました。
商人の頭に嫌な予感が過ります。
奉公先で何か粗相をしたのだろうか。もう使いものにならなくなったのだろうか。
あれこれと嫌な考えを巡らせていつの間にか辿り着いていた奉公先で、商人は数年前振りに見た豪奢な部屋でフェリア家当主と向き合います。
以前会った時より老けて、貫禄のある顔になっただろうか。
あれから数年。
時が経ったというのは人の見た目の変化を見ればすぐに理解する事が出来る。
「入れ」
アムドの声で、部屋の奥にある扉から一人の男が入ってきます。
あれから一度も会っていない奴隷の男。
間違えようもない。
小綺麗になりこそすれ、全く見た目が変わっていないのだから。
(ん、、、?全く変わっていない、、?)
「気付いたか?」
それが奴隷の見た目が変わっていない事に対するものだと、聞かずともすぐに分かった商人は、小さく首肯した。
神授川の水を飲めば若返るなどと言われているが、あの噂は完全な眉唾物。
それに、手に入れるだけで大変なあの水を、わざわざ奴隷に使うとは思えない。
それなら何故、この奴隷は購入した時から容姿が変わっていないのだろうか。
「単刀直入に言おう。この奴隷を50年分の給与を一括で買い取りたい。勿論何があろうと返品をする事もなく、返金を求める事もない。どうだろうか?」
お金が欲しい商人からすれば願ってもない申し出だった。
もう充分過ぎる程に奴隷購入分の元は取れているし、それに加えていつまで生きるか分からない奴隷を返品無しの先払いで購入してくれるというのだ。
これ以上無い好条件に、商人は間髪入れずに首を縦に振り、契約書にサインして、大金を持って満面の笑みで屋敷を去った。
家に着く頃には、奴隷の容姿が変わっていなかった事などすっかり忘れて。
「あの男がこの奴隷の価値の分からない阿呆で良かった」
商人の居なくなった部屋で、アムドはそう独り言ちた。
好奇心の塊のようなこの男にとって、不老である奴隷は恰好の研究対象だった。
神授川の水が若返り効果を持っているという噂が嘘である事は実際に実験してもう分かっている。
それならば、一向に老ける気配のないこの奴隷はどうやって若さを保っている?
生涯を掛けて探求出来そうな対象を見つけた事にアムドは笑みを溢す事を我慢出来ず、奴隷を外に出した後、一人部屋の中で高笑いをしました。
あわよくば、自らにも不老の力が宿る事を願って。
「次はこれを読め」
晴れてアムドの側仕えに抜擢された奴隷は、様々な本を与えられ、体を隅々まで研究され、色々な話を主人であるアムドにしました。
度重なる研究と会話の末にアムドが辿り着いた一つの結論は、奴隷が別の世界から来た異世界人であるというもの。
確証こそないものの、死にかけたところで目の前に現れた赤黒い空間に入ると、突然景色が変わって別の場所に居た。という話は、異世界人であるという事を疑うに充分な内容だった。
代々フェリア家に伝わる洗脳術で、主人に嘘は吐けないようになっている。
それならば、奴隷が言っている事に偽りが無い事は確か。
忌み嫌う精霊の転移魔術によるものの可能性も考慮したが、転移魔術に赤黒い空間が出るものは、アムドが知る限り存在しなかった。
(異世界人であるというのなら、もしかするとあの古代語らしき文字で書かれた本が読めるのでは、、?)
奴隷を異世界人と仮定したアムドは、就寝前に書斎で一つの本を思い浮かべた。
古今東西様々な知識を身に着けていると自負している自分が、ついぞ解読出来なかったあの本。
一定以上稼ぎのある家には必ずといっていい程置いてある馬鹿げた普及率の本。
古代語で書かれていると一度は断定したアムドだったが、あれはもしかして異世界の文字で書かれたものなんじゃないかと考え付き、居てもたってもいられずに、書庫で眠るその本を引っ張り出した。
被っている分厚い埃が、解読を諦めてからの長い年月を思わせる。
「起きろ」
「ご、ご主人様!夜更けにいかがなさいました?」
夜遅く。
使用人達が眠る敷地内の建物の一室で、突然起こされた不老の奴隷が、扉から入って来た主人の姿を見て慌てて飛び上がります。
この場所にアムドが来る事はまずありません。
何かあったのかと立ち上がり息を呑む奴隷に、アムドが本を差し出して一言。
「読んでみろ」
(夜更けにわざわざ訪ねて来て、目的が本を読ませる事、、、?)
奴隷は不思議に思いましたが表情には出さず、恭しく受け取って後、本へ目を通します。
書かれているその文字は、数年振りに見るもの。
そう、異世界の文字で書かれていたのです。
本のタイトルは〖世界の成り立ちと 英雄達の物語〗
待ちきれないといった様子で座って足を揺らすアムドに、奴隷は膝を着いた状態で本を読み進めます。
物語調で書かれたその本は、創作であろう巨人と、巨人が立ち向かった神との物語。
なんでこんな本がこの世界と全く関係ない日本の文字で?
奴隷は疑問を抱きながらも最後まで本を読み上げ、頭を下げたままアムドの言葉を待ちました。
「よもやこんな方法で、、、」
「ご主人、、、、様?」
声に乗せられた不穏な雰囲気を感じ取り、奴隷は失礼に当たると分かっていながら、アムドの顔を見上げます。
すると、そこには奴隷の事など視界に入っていない様子で頭を抱えたアムドと、自分の周囲に軋む音を上げながら中空を佇む幾本もの氷柱が。
命の危機を感じた奴隷は慌てて立ち上がり逃げようとしますが、その努力は虚しく終わり、立ち上がる寸前で氷柱に体の至るところを串刺しにされてしまいました。
「がッ、あッ、、、、。ご、、、主人様、、、何故、、、」
「恨むなら、愚王を恨むがいい」
即死をしてもおかしくない傷を負った奴隷が絞り出した言葉はそれだけ。
アムドの去り際の一言が、死にゆく奴隷に聞こえていたのかどうかは、誰にも分かりません。
「ア、アムド様。いかがなさいました、、?」
「側仕えの奴隷が不敬を働いてな。部屋に死骸が転がっている。所持している本と一緒に燃やしておけ。明日までにな」
「は、はい!畏まりました!」
奴隷の声に気付いて起きてきた使用人は部屋から出てきたアムドの指示通りに、血の匂いが立ち込める部屋で溶け出した氷柱が串刺しになっている奴隷を外で燃やす為に、布袋に入れて窓から外に放り投げました。
部屋は一階。
音で誰かが起きてくる事はありませんでした。
(見た目の変わらない不気味な人物だと思っていたが、あの真面目な青年がアムド様に不敬を、、、?)
使用人達の間でも、勤勉で優秀、それでいて謙虚と好感度の高かった奴隷が主人に不敬を働くとは、フェリア家の屋敷に努めて二年になるこの使用人には到底信じられる事ではありませんでした。
それでも、秘密裡に処理する事が主人の命であるならばその通りに執行しなくてはなりません。
使用人は、主人に気付かれないように黙祷を捧げた後、血塗れの奴隷と、奴隷が持っていた本を荼毘に付しました。
それからひと月後。
実質的国王の権力を持つ教皇からの布告で、〖世界の成り立ちと 英雄達の物語〗は国中から徹底的に排除される事となりました。
広場に集められて火をくべられ、纏めて燃やされる。
自主性に任せるだけでなく、各家庭に国の兵士達が捜査に入り、一つの漏れもなく排除されていく異世界の文字で書かれた本達。
国側からその理由についての説明はなかったものの、元より読む事の出来ない本。
嵩張るだけの存在は、長い時を待たずして国民の記憶から消えていく事となりました。
それと同時に布告されたのは、魔力を持たない不老な人間の存在。
国内で数件確認されていたその人物達は、城下町の広場で処刑され、城門前に暫く晒し首にされました。
無碍の民を手に掛けるのかとの暴動も少なからずあったものの、いつしかその暴動は減り、ほどなくして少しも見なくなる事になります。
それが民衆が受け入れて大人しくなったのか、国が強制的に大人しくさせた故なのかは、当事者達にしか分かりません。
ただ一つ大きく変わった事は、異世界人というのがこの事件をもって魔人域全土に広く知れ渡った事。
存在が確認された当初と違い、知れ渡ってからは不老という有用性を生かした永遠の奴隷へと姿を変えていく事になり、同時に、異世界人という呼び名は酷く醜いものへと変えられ、その存在は嫌悪されるものとなっていきました。
その名は腐愚民。今尚続く嫌悪の対象、異界の民。〟
「ここまで、、、か」
読んでいた分厚くない本をぱたりと静かに閉じて、そう独り言ちる。
もしかしたら日本語で暗号化された文字が何処かに散りばめられていて、腐愚民にしか分からない何かがあるのかもしれないと身構えていたが、全くそんな事はなかった。
全編こちらの世界の文字で書かれていて、読めないところは前後の文章を読み解きながら脳内で補完した。
まだ大して読み書きを習得出来ていない俺でも九割方は読む事が出来て知りたい内容も載っているものを教えてもらえた事、あの謎の人物に感謝しなくては。
それに、物語の長さも丁度良かった。
単語を思い出しながら読み進めなくてはならない俺が夕方までの時間で読み終える事が出来るのは、数千字程度のこの本が限界だったのだ。
(そこまで考慮してお薦めしてくれていたら凄いよな、、、)
心を読まれているのかと疑う程に。
まあきっと、偶然なんだと思う。
「んぅ、、、」
閉じた本の表紙を無為に一度撫でて、座ったまま伸びをした。
部屋の中には時計がなく時間が分からないが、体感としてはここに来てから2~3時間は経っていると思う。
同じ机で読書をしているリビィとセナリは、俺が伸びをした事にも気付かない程に読書に集中している。
リビィは各種結界についてまとめた本を、セナリは精霊大図鑑を読んでいる。
精霊と契約した人に取材して、話を聞きながらその精霊の姿を絵に収めたのだろう。
聞こえは悪いが、各ページに描かれた精霊の姿は、警察が捜査に使う人相書きのようなものに見える。
(おっと。セナリの精霊図鑑を覗き込んでる場合じゃなかった)
集中している二人には悪いが、そろそろ声を掛けておかなくては。
「リビィさん」
静かなこの部屋で何度も声を掛けて目立たないように、肩を軽く叩きながら声を掛ける。
これくらいなら、ウルに怒られないはずだ。
「どうしたの?」
「そろそろ宿に戻っておいたほうがいい時間じゃないですか?」
「そっか。集中してたから分からなかった、、。セナリ」
「はいです!」
突然声を掛けられて驚いたセナリが、いつもと同じような声量で返事をしながら立ち上がる。
静かな部屋では、当然その声は響き渡った。
慌てたセナリが全方位へ高速で頭を下げながら回っているのを見ているのは可愛くて楽しいが、そろそろ助け船を出したほうがいいだろう。
「セナリ。落ち着いて」
「そろそろここ出るから、本片付けておいで」
「、、、はいです」
セナリが読んでいたページは、およそ半分くらいに位置する箇所。
しっかりとした分厚さのある本だったから、全部読もうと思えばまだかなりの時間を要するだろう。
でも、最後まで読めなくて落ち込むセナリの為に、出来る事なら何とかしてあげたい。
闘技会の優勝賞金をいくらかレミリア王国貨幣に換金したから、あの図鑑を買い取る事は出来ないだろうか?
(そういえば、、、。あの人は本を持ったまま外に出てたな、、)
頭に思い浮かんだのは、本を薦めてくれた赤茶色の髪をしたあの人物。
もしかしたら、買い取りか貸し出しをしてくれる制度があるのかもしれない。
そう思い見取り図の施設案内の欄へ目を通すと、、、。
「セナリ、ちょっと待った」
「どうしたのケイト?」
「本を持って出口付近にいる職員に声を掛けると、複写した物を貰えるらしいです。そこまで時間が掛からないようなので、1~2冊なら僕の手持ちのお金で出来ますよ」
「そ、そんな申し訳ないです!」
「セナリはその本の続き読みたくないのか?」
遠慮して本を戻しに行こうとするセナリへ、少し意地悪な尋ね方をしてみた。
セナリの目線が手に持った本と俺の目を行き来して、やがて手元の本へと落とした状態で固定された。
「、、読みたい、、です」
意外だった。
もう数回やり取りがあるかと思ったが、セナリは遠慮しながらも我儘を言ってくれた。
少しずつではあるが、気を許してくれているのだとしたら嬉しい。
「よし。じゃあそのまま持って行こう。リビィさんのその本も複写してもらいますか?」
「うん。自分の分は出すから大丈夫だよ」
「いえいえ。少しくらい恩を返させてください」
「、、、そう?」
「はい」
「じゃあお言葉に甘えようかな」
本を俺に手渡したリビィが朗らかに笑う。
美女のこんな笑顔が見られるなら、少しくらいの出費は痛くない。
ちなみに、本の複写はその厚さによって値段が変わり、銅貨三枚~金貨一枚まで。
出口近くの職員に案内された部屋で複写をしてもらった二冊の合計金額は、20リア、銀貨四枚に収まった。
「さて。それじゃあ帰りましょうか」
夕暮れの茜に影の線を引いて、三人で馬に乗って風を切る。
豪胆なイメージのコーミィの香り亭の主人が読書をする場所を紹介するという違和感こそあったが、中々有意義な時間になった。
もう少し時間があればディベリア教徒の見分け方なども学んでおきたかったが、それは言っても詮無い事だろう。
リビィ曰くリネリスにも多く本があるらしいから、こっちで読めなかった分はまた向こうで読む事にしよう。
それまでにまずは、もっとスムーズに字が読めるようにならないとな、、、。
古書塔から帰ってきた俺達は、各々の時間を過ごして就寝の段にまで至った。
俺は今、一人と一匹の部屋で窓から見える月を仰ぎ見ている。
キュイは俺の枕元で寝息を立てながら一足先に眠っている。
この世界では太陽と同じように月も一定周期で見られる方向が変わるらしいが、今日は運よく綺麗に見られる方向だったようだ。
月や太陽、時間や、お金の使い方。
それに、まだまだ拙い文字の読み書きや魔術の使い方。
この世界に来てからまだ日が浅いが、それでも色々な事を学び、覚えた。
魔人全体でも一割未満しか契約者の居ない精霊との契約も済ませた。
腐愚民という事もあって出来るだけ目立たないように、可能な限りは一人で行動しないようにしていたが、ある程度身の振り方を覚えた今、仕事も始めなくてはいけないしそろそろ自立してもいいんじゃないだろうかと思っている。
同じ境遇であるミシェにこそ腐愚民である事はバレたが、それ以外は今までバレた事がない。
それに、ウルに付いて色々な場所に行かせてもらってるが、未だに奴隷化した腐愚民というのを見た事もなければ、聞こえてくる会話に腐愚民への差別的な話が含まれていた事もない。
もう少し、気を緩めてもいいんではないだろうか。
異物であると、自分から卑下しなくてもいいんではないだろうか。
そんな思いが、俺の胸中を満たし始めていた。
(一人での行動を増やすにすれ、働き口を探すにすれ、ひとまずリビィとウルには相談しないといけないけど、、)
コンコンッ
「ケイト、入っても大丈夫?」
この声は、、、リビィ?
とっくに寝ていると思ったが、何か用事があったんだろうか。
キュイを起こさないようにゆっくり起き上がり、小さい声で返事をしてから扉を開けた。
そこに居たのは、肌触りの良さそうなパジャマをボタンを全て留めてしっかりと着たリビィの姿が。
肌の露出はないのに、妙な色気がある。
緩んでしまいそうになる頬を叱責して、色気はあるもののいつもより幼くも見えるリビィを部屋の中へ案内して、ベッドの横へつけた椅子を勧めた。
「私もそっちでいいよ」
柔らかいベッドが、二人分の質量を受けて沈み込む。
二人分は、言わずもがな俺とリビィのものだ。
パジャマ姿でベッドに横並びに座るなんて、これは期待してしまってもいいんだろうか?
一瞬そんな邪な考えが過るも、リビィの物静かで、何か考え込んでいるような表情を見て冷静さを保った。
セナリが就寝したであろうこんな時間にわざわざ部屋まで来るんだ、何か用があるのだと思う。
「ケイト、、はさ」
一つ声を零して、リビィが口篭もった。
聞きにくい事なんだろうか。
「元の世界に帰りたいと思う?」
聞かれてふと考えてみる。
この世界での働き口を探したいと思ったり、色々学んで魔術をもっと使えるようになりたいとも思うが、元の世界をもうどうでもいいと思えているわけではない。
寿命は有限でいいし、文明の利器に頼った自堕落な生活はまたしてみたいと思う。
でも、元の世界に戻りたいという感情は、もしかしたらもう殆ど薄れてきてるのかもしれない。
それほど、この世界での生活は楽しいし、出会う人々は一緒に居たいと思う人が多い。
日本なら、リビィを始めとした綺麗な人達と気軽に話したりする事も出来なかっただろうし、、、。
人死にが身近にあるという恐怖心はあるが、日本へ戻っても人死にのリスクはあるし、現に俺は死にかけたからこの世界へ来た。
(いや、確かあれは生まれた時から決まっているシナリオ通りの結末だったか、、、)
人死にのリスクが日本では比較的少ないと考えても、ストレスを抱えてそれでも尚働き続ける大人達を知っている俺からすれば、決して戻る事が正解だとは言い辛い。
「自分でも、よく分かっていないんです。この世界での生活が心地良いのは確かなんですが、元居た世界を完全に捨てられるかと言えばそうでもありません。向こうでもっとしたかった事や、残してきた家族や友達も居ますから」
そう言えば、元の世界と時間の経過は同じ流れなんだろうか。
だとすれば流石に捜索願いが出ている頃だろうから、別の世界へ来て無事に生きている事だけは伝えたい。
仲が良かったとはお世辞にも言えないが、それでも家族は心配するだろうから。
「こっちの世界と向こうの世界。流れる時間は同じなんでしょうか?」
「多分同じなんだろうなとは勝手に思ってるけど、その辺りは解明出来てないみたい。腐愚民の世界に興味のある魔人なんて殆どいないから、研究も熱心にされてないみたいだしね、、」
「それもそうですよね、、」
「だから、、さ。劣世界から優世界に来る事は出来ても、その逆はまだ出来ないみたい」
リビィが一際暗い表情で、ぽつりとそう零した。
部屋に入って来た時からずっとリビィの表情が晴れていなかったのは、おそらくこれが原因なんだろう。
もし俺が元の世界に帰りたいと答えていたら、この事実を突き付けるのは勇気がいる事だったと思うから。
「それなら気ままに探してみますよ。幸運な事に、寿命は無限みたいですし。無理そうだったらそのままこの世界で暮らすだけです」
殊更明るく、そう言った。
リビィを励ます為という名目だったが、もしかすると帰れないという現実を突き付けられた自分を宥める為だったかもしれない。
二つの理由の比率がどれくらいなのか、調べる手段など無いのだが。
「そっか、、、。ありがとう。ケイトはやっぱり強いね」
そう言って俺の顔を見据えるリビィ。
その顔には、無理に作った微笑みが貼り付いていた。
「そんな事はありませんよ。ウルさんやリビィさん。それにセナリやそれ以外にも色々な人のおかげで、元の世界に固執せずに済んでいるだけです」
「ケイトはこの世界でこうなりたいとか、こういう事したい、とかあるの?」
そうだ、元よりその相談をしようと思っていたんだ。
リビィから聞かれなければ忘れるところだった。
「こうなりたいというのは今のところありませんが、そろそろ一人で色々してみたいとは思っています。セナリの手伝いで買い出しに行ったり、魔術訓練をする時にギルドへも一人で行けるようになりたいですし、そろそろ働き口も探さないとな、と思っています」
「腐愚民である事がバレるかもしれないよ、、?」
「楽観的かもしれませんが、そこまで考えなくていいんじゃないかなって今は思ってます。奴隷化した腐愚民も今のところ見た事無いですし、腐愚民である事がバレた事もないですから」
ミシェにバレた事は黙っておいた。
余計な心配をさせたくないという考えと、話せばミシェも同じ境遇だという事を教える必要が出てくるから。
リビィは少しの間返答を黙考した後、ゆっくり声を零した。
「ウルには、もう相談したの?」
「いえ、ウルさんとリビィさんに相談しようと思っていて、丁度良い機会だったので先にリビィさんに」
「そっか。色々と考えてくれてるんだね」
「お世話になりっぱなしですから」
今の俺が貢献してるのは、家事の手伝いくらい。
世話になっている事のほうが圧倒的に多い。
「そんな事気にしなくていいのに、、。とりあえず、ウルには私から話を通してみるね」
「いいんですか?」
「うん。ケイトから話すとウルは素直になれない事が多いと思うから」
俺と話す時のウル。リビィと話す時のウル。
うん。
交互に浮かべてみたが、リビィから話してもらった方が心象は良さそうだな。
「お言葉に甘えさせてもらいます」
「うん!大船に乗ったつもりでいて」
『キュキュイ、、、、』
勢いよく立ち上がったリビィに反応してか、キュイが少し身動ぎした。
「起こしちゃいけないし、私はそろそろ部屋に戻るね。また明日」
「はい。お休みなさい」
リビィを部屋まで送り、自室に戻ってゆっくりとベッドに横になる。
いつもより少し良い匂いな気がするベッドで、キュイを眺めながら微睡みに身を任せた。




