魂コーディネーター
一
「角谷さん、奥様の病状は最終段階であると言わなくてはなりません。症状の改善は期待できませんし、血栓の影響で、これから内蔵各器官の機能も著しく低下していきます。正直言って、大学病院の先進医療が効果的な段階は過ぎてしまいました。今後は、看病に行くにも、ご自宅から近い方が負担が少ないでしょうし・・・。
新厩橋駅前の新厩橋病院なら、ご自宅からも近いですし、院長も知っていますので、紹介状を書けますが」
沙都子の主治医は言いました。
「もう打つ手はないということでしょうか?」
と隆行が聞くと、主治医は、
「そう解釈して頂いて構いません」
との返答でした。
医者から匙を投げられた、ということなのでしょう。
診察室を出て、沙都子の病室へ向かって歩きながら、主治医の話をどう話そうか、考えていました。転院の時期については、主治医から「師走は、緊急以外の転院はどこの病院も受け入れないので」とのことで、年が明けてからということになりました。
妻の沙都子は、結婚して間もない二十六歳の時、子宮筋腫の検査を受けたことがきっかけで、本態性血小板血症という病気が見つかりました。
骨髄の異常で、血小板の数が異常に多くなってしまう病気で、通常二十万個のところ二百万個以上となってしまうのです。
それによって血流が妨げられ、血栓により、臓器等に様々な機能障害が引き起こされるというのです。
二十万人に一人の希少性難病だそうです。
一生治らず、子供を生むことは無理、ということも医師から告げられました。
治療は対象療法として、抗癌剤を飲み続けなければならないということでした。
隆行は沙都子から離婚の申し入れを受けました。周囲からも、円満な離婚をした方が良いと、親身になって助言してくれる声もありました。
しかし、隆行は離婚しませんでした。隆行は、沙都子と出会い、恋に落ち、結婚したのも運命なら、沙都子の病気と向き合い、最期まで沙都子と一緒に病気と闘うのも運命だと思うことにしたのです。
以来、隆行は沙都子と一緒に、沙都子の病気と闘い続けてきました。副作用が避けられない抗癌剤を止め、漢方医の指示に従って、免疫力を高めるための、食事療法や生活習慣改善を続けてきました。絶食療法や砂浴療法等、病気に効くと思われる情報を知れば、全て一緒に試してみました。毎日、沙都子と一緒に、主食の玄米と野菜中心の食事を続けたところ、一定の効果はあり、血小板数が百五十万個以下に下がった状態を一年以上保ったこともありました。
しかし、東洋医学や自然療法にも限界があるのでしょう。今の沙都子は全身が痩せ細り、腕や脚は骨と皮だけという位の細さで、下膨れだった顔も、げっそりと頬が痩けてしまっています。
隆行と沙都子は、ともに厩橋市役所職員であり、職場のテニスクラブで知り合い、交際を始めて、結婚に至りました。
沙都子は闘病生活に入ってからも、仕事を辞めませんでした。治療が最優先と思い、隆行からも退職を勧めたのですが、これも沙都子の信念で、病気休暇を取りながら、仕事を続けました。今になって思えば、もっと強引に沙都子を退職させるべきだったと後悔しています。
沙都子は十一月の末に、勤務中に倒れ、救急車で運ばれて以来、この厩橋大学医学部付属病院に入院していたのでした。
二
ユウキは「カドヤサトコ」のプロフィールを読みながら、さて、自分が霊界スタッフとしての初仕事をいかに進めようか、あれこれ思案した。
今朝、霊界本部から、魂コーディネーター養成所を卒業して初の仕事を受けた。クライアント名「カドヤサトコ」本態性血小板血症という難病で、肉体寿命はあと二ヶ月弱の見込み。
このクライアントの肉体が死ぬ前に、クライアントが希望する条件の胎児を見つけ出し、胎児が生まれる直前に魂の移転を完了しなければならない。
これが、魂コーディネーター、ユウキの任務である。
クライアントにどうやって接触し、趣旨を説明し、メリットとデメリットを理解させ、承諾を取り付けるか、成功事例は養成所で教わったが、当然、同じやり方が誰にでも通用するとは思えない。
あれこれ考えるより、とにかくクライアントに会ってみるしかない。
まずは、教科書どおり、クライアントの夢の中で接触を持つことにした。
三
「沙都子、今、先生と話して来たんだけど、病院、家の近くの新厩橋病院に転院できるよう、紹介状を書いてくれるって。お義父さん、お義母さんの家からも近いから、こまめにお見舞いに来てもらえるね」
隆行は病室に入って、沙都子にこう切り出しました。
沙都子は、ちょっと窓の外に目をやってから、隆行の方へ顔を向け、微かに笑顔をつくって、
「分かったわ、もう最期の時が近いってことね。この病室から見える景色が気に入っていたのにな。でも、医者が病院を替われと言うのなら、言うとおりにしましょう」
と答えました。
沙都子の言うとおり、九階の病室から見える、赤城山、榛名山などの雄大な眺めは素晴らしいです。特に、冬は空気が澄んでいるので、くっきりと鮮明な大パノラマが広がっています。病院の建物は頑丈で、嵌め殺しの大きなガラス窓も厚く、外を吹き荒れているはずの空っ風で建物が揺れたり、ガラスが音を立てることもありません。街路樹の揺れや送電線のばたつきで、外に強風が吹いていることが分かる程度です。
「縁起でもないことを言うなよ。気持ちを強く持たなきゃだめだろう。退院したらドライブがてら、伊香保か草津の温泉でも行こうよ」
と話題を変えようとしました。
「自分の体のことだから、分かるわよ。食べ物もほとんど喉を通らないし、血圧も大分下がってるし、この冬を越えられるかどうかだと思うわ。
それに、角谷君が来るまで寝ていたんだけど、変な夢を見たの。死神が出てきて、もうすぐ死ぬから、死ぬ前に魂を売らないか、みたいなことを言われたの」
沙都子は、隆行と二人だけの時は、相変わらず結婚前と同じ呼び方、すなわち「角谷君」と呼ぶ。
沙都子は勘が鋭い。医者や看護師の態度で、あるいは、やはり自分の体のことだけに、死期が近づいていることが分かるのかもしれません。それで夢に死神が出てきたりするのでしょう。
「疲れているんだよ。この寒さじゃ、ベッドに寝ていても冷えて眠りが浅くなるから、怖い夢を見るんだよ」
と言って、慰めを言うしかありませんでした。
「弘之さえ、会いに来てくれたらなぁ、もういつ死んでもいい」
と沙都子は言いました。
「弘之君には、今度手紙を送ってみるよ。インターネットでライブスケジュールは分かるし、もう少し暖かくなって退院したら、横浜まで弘之君のライブを見に行こうよ」
「こんな状態じゃ無理。ジャズクラブなんてとても行けないわよ」
弘之君は、沙都子の七歳年下で二十八歳になる弟です。県下一番の進学校を卒業し、横浜市内の国立大学を卒業したまではよかったのですが、学生時代に入ったジャズ研究会がきっかけとなり、ジャズにのめり込んでしまい、大学卒業後も就職せず、横浜市内や川崎市内のジャズクラブに出演していますが、音楽だけで一本立ちという訳にはいかず、アルバイトをしながら生活しているのです。
親が反対したのは当然で、半ば勘当状態です。現住所は分かっているので、沙都子はこまめに手紙を出すのですが、返事が来たためしはありません。インターネットで「清水弘之」を検索すると、横浜市内のジャズクラブがヒットし、ライブスケジュールの中に出演者として、「piano清水弘之」と出ているので、健在であることは分かるのです。
隆行が弘之君と顔を合わせたのは一度だけです。それは隆行と沙都子との結婚披露宴の時でした。弘之君はまだ大学生で、ぶっきらぼうに挨拶されたのを覚えています。そして、余興としてピアノを弾いてくれました。その時の曲は「アメイジング・グレース」のジャズバージョンで、隆行はジャズのことはよく分からないながらも、初めて生演奏で聞くジャズに、素朴に感動しました。
沙都子は少し年の離れた弟を可愛がり、弘之君はいつも沙都子にまとわりついて離れないような、べったりの仲良し姉弟だったのだそうです。それが、弘之君が中学生、高校生と成長するにつれ、だんだんと喋らないようになり、今では勘当状態で音信不通になっているのです。
沙都子は、この弘之君のことが心配で、気掛かりでならず、弘之君の行く末を見定めたいということだけが、最期の望みのようになっていました。
逆に言えば、弘之君を心配に思う気持ちが、沙都子を生き長らえさせているのかもしれません。
その夜は、面会時間終了の午後八時に病室を出て家に帰りました。
四
ユウキは、サトコの夫が病室を出るのを待って、入れ替わりに病室に現れた。
「こんばんは、初めまして。魂コーディネーターのユウキと申します」
サトコは、驚きと警戒心を露わにした顔つきでユウキを見、やがて、ハッと思い出したように、
「あなたは、もしかして夢の中に出てきた死神?・・・私は今晩もう死ぬってこと?」
とサトコは答えたので、ユウキが、
「いいえ、今晩死ぬわけではありません。それに、私は死神ではありません。霊界本部から派遣された魂コーディネーターです。今日こうやって初めてお会いする前に、昼間寝ている間に夢の中にお邪魔して、簡単に自己紹介をしたつもりだったのですが、死神と受け取られても仕方ありませんね」
と説明した。
「もう死ぬことは覚悟してます。それで、あなたは死ぬと決まった私に何の用?」
「霊界本部では、今、死期が迫った人に対して、魂の生前エクスチェンジを推奨しています。肉体の死を迎える直前に、クライアント様の要望に沿った条件を持つ、出生直前の胎児の肉体に魂を移転させるのです。私たち魂コーディネーターは、クライアント様の要望を聞いて、なるべく条件を満たすことができるような胎児を見つけ出して、魂の移転までお世話させていただくのが任務です」
「魂の生前エクスチェンジって・・・・」
サトコが言いかけた時、消灯前の巡回のため看護師が病室に入ってきた。ユウキは一旦、狭い病室の窓際に下がった。
「角谷さん、おかげんはどうですか、どこか痛いところはありますか」
「大丈夫です」
とサトコは言いながら、驚いたように看護師とユウキを交互に見比べた。
「何かあったら、ナースコールを押して下さいね。おやすみなさい」
と言って、看護師は布団の裾を手早く直すと、病室から出て行った。
サトコが口を開き、
「ユウキさん、でしたっけ。看護師さんにはあなたのことが見えないのですか?」
「普通は、人からは見えません。私が意識を向けて話しかけている人にだけは姿が見えます。それと、程度の差はありますが、いわゆる霊感の強い人は私達のことが見えるようです」
「あなたは幽霊なんですか?」
「死神でもなければ、幽霊でもありません。霊界スタッフの魂コーディネーターです」
「今日は自己紹介だけするつもりで来ました。夜も遅いので、失礼させて頂きます。また、お伺いします。おやすみなさい」
と言って、ユウキは姿を消した。
五
年明け早々、沙都子は新厩橋病院に転院しました。
この病院は、家からも歩いて行ける距離にあり、沙都子の実家からも車で五分位の近さです。
転院して、初めての診察を受けた後、医師のところへ行って説明を受けました。医師から、終末医療としての措置方針を告げられました。前の病院からの紹介状にそのように書いてあったのかもしれません。
病室に戻ると、
「角谷君、やっぱり、家から近所だと思うとホッとするね。窓の景色はイマイチだけど。外出許可がとれたら、すぐに帰れるね。私、残りの日々を、なるべく家で過ごしたいと思っているの。本当は、死ぬ時も、家にいたい」
と沙都子は言いました。
「この冬が過ぎて暖かくなったら、退院して、家でゆっくりしよう。今日は午後から仕事に行かなければならないから、行くよ。夜また来るから。それと、昨日電話で、お義父さん、お義母さんが昼過ぎに来ると言っていたよ。それじゃあ」
と言って、病室を出て、職場に向かいました。
六
ユウキが新厩橋病院の三階にある、サトコの病室に行くと、病室から老夫婦が出て行くところだった。老夫婦は口々に、
「それじゃあ、また明日来るからね。お大事にね」
「夜になったら、角谷さん来るんだろう、暖かくして寝るんだよ」
と言いながら病室を出ていった。
「ありがとう、気を付けて帰ってね」
とサトコが答えた。
ユウキはサトコの前に姿を現し、
「こんにちは。今の人はご両親ですか」
「ユウキさん、来ていたんですか。いつからいたの」
「たった今、ご両親が出て行く時です」
「そう・・・。私の不幸な父母です。親にとって、子供が先に死ぬことほど辛いことはないでしょうね」
「人は誰でも死ぬ日に向かって生きているんです。本当は、恐れることでも悲しむことでもないんですよ。
ところで、先日ご提案した、魂の生前エクスチェンジの件、ご検討頂けたでしょうか」
「私の魂が、私の望む条件の赤ちゃんの肉体に宿るっていうこと?」
「そうです」
「この前から、そのことを考えていたのだけれど、興味深い話ね。私、子供の頃からずっと、今度生まれ変わる時は、男の子に生まれたいと思っていたの。男と女じゃ絶対男が得で女が損だと思っていた。それに私、子供の頃から体が弱くて、風邪を引きやすく、生理不順で、すぐに貧血を起こして倒れたんです。健康な男の子に生まれ変わりたいといつも思ってたの。それに、子は親を選べないって言うけど、子が親を選べるみたいな話ね。
ところで、霊界ってどういうところなの、人は死ぬとどうなるの?」
「人は死ぬと、肉体に宿っていた魂が抜け出し、葬式やらが一段落するまでは、遺体や親族の近くに寄り添っていますが、その後は天に向かって昇り、ずっと上空、大気の外周を取り囲むように存在する、魂の層の一部となって、次に生まれ変わって地上に降りる時を待っているのです」
「魂の層って、目には見えないんでしょう?」
「もちろん、生きた人間の目には見えませんし、科学的に魂の存在が証明されてもいません。
人間の五感で認識できるか、あるいは五感で認識できなくても、放射線や超音波のように、写真に印画したり機械装置によって表示させたりして、目に見えるようにすることで認識できれば、現実に存在するものとされますが、人の五感で認識できず、機械装置によって画面に表示することもできないが、現実に存在するものというのは、まだまだ沢山あるのです。
魂の存在もその一つなのです」
「それなら、私の魂も死んだら天に昇り、魂の層に入るのでしょう?」
「原則的には、そうなります。しかし、最近、魂の層で問題が起きていまして・・・。まず、転生のメカニズムについて説明します。」
ユウキは説明を続けた。
「魂の層に到達した魂は、しばらくの間そこで充電期間のような時期を過ごした後、霊界本部が、その魂の練度、個性、民族性そして血縁関係を考慮してマッチングを行い、生まれ出ようとする胎児に降下させ注入します。その際、前世以前の記憶には封印を必ず施します。そして、個性と人格を持った赤ちゃんが誕生するのです」
「信じられないような話だけど、上手いシステムね。死んだらパソコンをシャットダウンするみたいに、何もかも真っ黒になってしまうっていうのも、何か違和感を感じていたの。それで、何が問題なの?」
「はい。問題とは、最近、魂の層にある各々の魂が、転生したいという意欲を持たなくなってしまっているのです。
今の世の中は、平和で豊かで治安も安定し、医療の発達や社会インフラが整備されたおかげで、病気や事故や犯罪に突然見舞われて死ぬかもしれない、という危機意識を常に働かせながら生きている人は殆どいません。また、今日食べる物にありつけるかどうか分からず、場合によっては餓死するかもしれない、という危機意識を持ちながら生きている人も殆どいません。
人は、死なないのが当たり前、生きているのが当たり前、という毎日の中で生活していると、そのうちに生きる気力が薄れていくのです。
それでも、現世に生きている人は、家族や友人との情や、様々な欲望や趣味娯楽等、生へのインセンティブの中で、そして何よりも、死への計り知れぬ恐怖から、普通は一生懸命に天寿を全うしようとします。
しかし、魂の層に浮かぶ各々の魂は、死も経験し、前世以前の記憶を持っています。その目線から見ると、今の世で生きて死ぬことが茶番劇のように映る嫌いがあるのです。
飢饉の恐怖に絶えず晒されている世の中では、餓死しないで生き延びているだけでも勝ち組であり、達成感も喜びも得られるでしょう。しかし、今の世の中で、餓死せずに済んだと喜ぶ人はいませんよね。会社勤めのサラリーマンなら、昼休みに誰と昼飯に行こうか、あの人から昼飯に誘われたら何と言い訳して断ろうか、昼飯くらい一人で食べたいけれども変わり者と思われて評価を下げることにならないだろうか等と、下らないことが悩みの種になって、ストレスを蓄積させているのが関の山です。
明日の食糧にありつけるかどうかの心配もない、用心を怠ったらすぐに盗賊に襲われて命も持ち物も全て奪い取られてしまうという心配もない。そんな、結構な世の中で、普通に生まれて死ぬまでの間に、日々生起する、喜び、楽しみ、困難、苦しみの何とちっぽけな下らないことか、そんなことなら、こんな世の中に始めから生まれない方がましではないか、と多くの魂が考えるようになってしまったのです」
「天上の霊界にも社会問題があるのね。でも、魂の層に居続けたいっていう魂が沢山いて何が悪いの?」
「問題は、最近分かってきたことなのですが、魂の層での、魂が再び生まれ出たいという欲求、すなわち転生需要が、地上の人々の性的な発情を促すらしいのです。つまり天上の魂が生まれ出たいと思わなければ、地上の人々がセックスをしたいという欲望も起こらない、よって、子供を妊娠することもなくなる、という関係があるらしいことが分かってきたのです。
結婚しようとする人が減り、離婚が増えることにも関係が出てきます。
このまま世の中が安定すればする程、天上の魂は転生への意欲を減らし、地上では子供を生み育てようとする意欲が減って、子孫が先細って行くという、皮肉な悪循環が起こり始めているのです。
そこで今、霊界本部では、データーベースから抽出した、死期が間近に迫った人の元へ、私のような魂コーディネーターを送りこんで、魂の生前エクスチェンジを推奨しているのです」
ユウキの説明を聞いて、サトコが言った。
「さっきも言ったように、私は男の子に生まれ変わりたいと昔から思っていたの。死期が近いことは、自分の体のことだから良く分かっているつもり。それに、どうせ生まれるなら良い家庭環境に生まれたいと思うのは当然だわ」
「サトコさんにとっては、とてもメリットのある話だと思います」
「でも、何か落とし穴、というかデメリットはないの?」
「大きなデメリットについては、二つあります。
一つ目は、肉体から魂が離脱した後は、肉体は心臓が動き続けて内蔵等の器官が働き続けたとしても、心の抜け殻状態であり、目蓋を開けて目の前の親族を見たとしても、それを映す心は最早ありません。
二つ目は、魂が離脱後、残された肉体は急速に生命活動の停止に向かいます。よって、魂の生前エクスチェンジにより、確実に死期が早まります。
以上二点のデメリットは、了承して頂かなくてはなりません」
「いずれ近いうちに死ぬのですから、大して重要な事とも思わないわ。ところで、私はいつ死ぬの?」
サトコは唐突に自分の死期を尋ねた。
「あくまで目安ですが、霊界本部からは、二月の始めに死亡する見込みと聞いています」
「二月、意外と長いのね。毎晩、もう明日の朝は目覚めることはないような気がしているのに」
「サトコさん、私に魂の生前エクスチェンジをお任せして頂けますでしょうか?」
「ぜひお願いしたいところだけれど、一つ条件、というかお願いがあるのだけど、聞いてもらえるかしら?」
「私にできることなら、できる限りのことは致します」
「私には七歳年下の弟がいます。今、横浜に住んでいて、今年の誕生日で二十九歳になるのだけど、ジャズピアニストを目指していて、横浜や川崎のジャズクラブに出演したりしているらしいの。本人はこれから有名になって、CDを出して、テレビにも出演するような大物になるつもりなのだろうけど、そう簡単になれるものじゃないと思います。
大学を出てから就職もしないで、ジャズを続けていることを、両親、とくに父は絶対に認めず、勘当状態なのです。
この弟が最期に会いに来てくれたら、私はもう思い残すことはありません」
サトコは、最期の願いを語った。
「弟さんは、サトコさんが死の淵にあることを知っているのですか?」
「手紙だけは時々出していて、もう長くはないだろうと書いています。しかし、一度もお見舞いに来てくれたことはありません」
「弟さんの住所と名前を教えて下さい」
「今、書き掛けの葉書があるので、ここです」
と言って、サトコは宛名が書かれた絵葉書をユウキに示した。
葉書には、横浜市内の住所と、「清水弘之」という名前が書かれていた。
翌日の午後、ユウキはヒロユキの住所であるワンルームのアパートに現れた。ヒロユキと思われる男は、電子ピアノに向かい練習をしていたが、ユウキが現れると顔をこちらに向け、
「何の用? 用がないなら出ていけ」
と平然と言った。霊感が強いらしい。
「ヒロユキさんですね。サトコさんからの言伝で来ました」
「姉さんからの、・・・言伝。君は幽霊だろう。・・・姉さんが死んだの?」
「私は幽霊ではありません。霊界スタッフのユウキといいます。サトコさんはまだ死んでません。しかし、もうすぐ最期の時を迎えます。サトコさんはヒロユキさんに会いたがっています。ぜひ病院にお見舞いに行ってもらいたくて、こうしてお願いに来ました」
「姉さんは、そんなに悪いの? あとどれくらいもつの?」
「あと半月もつかどうか」
「そんなに・・・、悪かったなんて」ヒロユキは言葉を詰まらせた。「今週は土曜日までライブ出演だし、日曜日は一日バイトで・・・」
「アルバイトを休むことは出来ませんか、サトコさんと最期の別れなんですよ」
「来週月曜日なら、ライブもバイトもないので行けます。朝一番の電車に乗ります。昼過ぎには厩橋に行けると思います。それで間に合いますか」
「なんとか大丈夫だと思います。病院の場所は分かりますか」
「新厩橋病院でしょう、手紙に書いてありました。場所は知ってます」
「それでは、来週一月二十三日月曜日、お待ちしています。私は病院の正面入口で待っています」
ユウキがヒロユキに対して為すべき仕事は、これで終わったはずだった。が、ユウキは、一つの魂として、興味が湧き起こった。魂の記憶が呼び覚まされたと言ってもいい。ユウキはヒロユキに、
「ところで、今夜はライブですか、私もちょっと見に行ってもいいでしょうか」
と聞いた。
「どうぞ、断る理由なんてないし、勝手にどこでも出入りできるんでしょ。幽霊からライブチャージ取ることもないだろうし」
横浜市内にあるジャズクラブ『クレッセント・ムーン』はテーブル席が二十席、カウンターに五席、こじんまりしたジャズクラブだった。ヒロユキはサックス、ピアノ、ベース、ドラムのカルテットでピアノを弾いていた。
午後七時からライブがスタートした。
スタンダードナンバーを中心にライブが進んでいく。テーマを演奏して、各パートが順番にアドリブソロを演奏する。
ヒロユキの演奏は、凡庸だった。
ジャズは自由奔放に演奏されているように見えて、実はコードやスケールの厳格な理論に基づいて演奏されている。感情の赴くままに弾きまくっているように聞こえるアドリブフレーズであっても、特定のスケール内の限られた音を上がったり下がったりしながら並べているだけなのである。
理論をマスターし、定番的なアドリブフレーズを幾つかマスターしてしまえば、ジャズらしく聞こえる演奏をすることは簡単にできる。もちろん、最低限の楽器の演奏技術が必要であることは言うまでもない。
ユウキは前々世において、ジャズピアニストだった。日本のジャズの草分けと言われた程のピアニストであり、ドラム、ベースを加えたピアノトリオを率いて活動していたが、四十七歳の時に癌で死亡した。
そのような経歴を持つユウキに言わせれば、ヒロユキのアドリブソロは、初歩的な理論に従って、単に決まった音をなぞっているだけにすぎない。スケールやフレーズのレパートリーは少なく、少ない持ちネタを何度も繰り返して一曲を乗り切るといった感じで、独創性のようなものは皆無である。プロというより、大学生のジャズ研サークルの延長のようなレベルだった。
それでも、演奏は凡庸なりにまとまっていて、素人のようなミスタッチもない。客にとっても、生バンド演奏を聴きながらバーで飲むという雰囲気を味わうことが目的で、質の高いジャズを求めて来ているわけではないのだろう。
八曲たて続けに演奏して、休憩に入ったところで、ユウキは姿を消した。
消灯前の看護師の巡回が済んだ後、ユウキがサトコの病室に現れた。
「ヒロユキさんに会ってきました。来週の月曜日、お見舞いに来てくれるそうです」
「ありがとうございます。じゃあ約束通り、魂の生前エクスチェンジをお願いします」
「希望条件は健康な男の子であることだけですよね。もちろん、家庭環境は最も良いものをデーターベースから探してまいります」
「よろしくお願いします。
ところで、ユウキさんはなぜ魂コーディネーターという仕事をやっているのですか、保険のセールスマンみたいだけど、契約を一件まとめたら何かご褒美がもらえるの、そもそも、ユウキさんも普通の生きた人だったのでしょう。生きてた時は何をやっていたの、この世に遺してきた家族もいるんでしょう」
「私は前世では、不動産会社の社員で、営業をやっていました。三十一歳の時、オートバイ事故で死にました」
ユウキは事故の時のことを思い出した。
愛車のナナハンに乗って、いつもの峠道を走っている時だった。走り慣れた下りの緩いカーブで、いつもどおり時速八十キロ位だった。いつもと違ったのは、路面全体に砂利が浮いていたことだった。少し後輪が滑ったのでブレーキを掛けたら前輪がロックして転倒した。倒れたバイクが先に道路を滑って行き、ユウキが後から追うように道路を滑って行く。一瞬の出来事のはずなのに、スローモーションでバイクもユウキも滑っていく。前から対向車線の大型ダンプが迫ってくる。
ユウキは大型ダンプに轢過されて即死した。断末の痛みの中で、生まれてから死ぬまでの様々な出来事が走馬燈のように映っては消えた。
救急車が到着した頃には、完全に死んでいたのだろう。ユウキは、救急隊員が倒れたユウキの肉体を取り巻いている場面を、傍観者のように眺めていた。ヘルメットを外されると、耳と鼻から鮮やかなピンク色の血が流れ出ていた。腰と腹が潰れたようになっていた。
「その時、家族はいたの?」
「結婚して二年目で、妻のお腹には臨月の子供がいたんです」
「それじゃあ、死んでも死にきれなかったでしょう」
「その通りです。私は、自分の葬儀が終わった後も、天上に昇らず、妻の近くにいました。そうやって地上にいた時、霊界本部からヘッドハンティングを受けて、魂コーディネーターとなったのです」
ヘッドハンティングを受けた、というのは厳密に言えば嘘だ。実際のところとは大分違う。
ユウキの死後、妻はユウキと住んでいたアパートを引き払い、東京近郊の実家に帰り、お産を迎えることにした。妻が産婦人科に通院するため電車に乗っていた時だった。ユウキは妻が座った優先席の前に立ち、妻は雑誌を広げて読んでいた。電車のドアの脇に黒いジャンパーと黒いズボンという黒ずくめの男が立って、ユウキの方をじっと見ているのに気付いた。男の目付きは鋭く、人から見えるはずのない自分の姿を見ているので、急に怖くなった。
黒ずくめの男は、ユウキの方へ歩み寄り、
『この人は、君の奥さんだったのかい?』
『そうですが』
ユウキが答えた。妻は目の前で会話をしている二人には全く気付く様子もなく、雑誌を読み続けていた。
『この人のお腹にいる子供は、君の子供なんだろう。気持ちは分かるが、もう君は死んでしまったんだ。いつまでも地上に残っていれば、魂が歪み、荒む一方だ。俺と一緒に、天上に行かないか』
と言って、男はユウキの腕を掴んだ。
否も応もなかった。掴まれた腕に、強烈な力が掛かったと思うと、電車の天井を突き抜け、一気に天上に昇り、霊界本部に連れていかれた。
黒ずくめの男は霊界本部の特務員で、地上に居残っている魂を探し出して天上に連れて行く任務を持っているのだと後で知った。
霊界本部の中は、柱のない広大な大部屋の中に整然と机が並び、人々が机に向かって黙々と仕事をしていた。
ここでユウキは、適性検査のようなペーパーテストを受け、面接を二回受けた後、魂コーディネーター候補として養成所に入ることになった。
「奥さんはお元気なんですか?」
サトコが聞いた。
「妻は再婚して、再婚相手との子供が一人います。私との間に出来た子供は女の子で四歳になり、時々様子を見に行くのですが、家族四人で幸せそうに暮らしています。
そうそう、私が魂コーディネーターとして得る報酬のことですが、保険のセールスマンのように契約一件につき幾らというわけではありません。私は霊界本部との契約で、私の娘が結婚して最初に生まれる子供の魂として宿ることになっています。その時まで、私は魂コーディネーターとして、魂の回転促進すなわち転生を促進させ続けるのです」
「四歳の女の子でしょ、子供が出来るまでには何年かかるかしら。でも、何十年でも待つ価値はあるわね」
と言うサトコに、ユウキは言おうか言うまいか迷っていたことを口にした。
「ヒロユキ君が、これからライブに出演しに行くと言うので、ついでにライブも見に行きました」
「どうでした?」
「あくまで私の主観ですが、ヒロユキ君はジャズピアニストとしての才能は無いと思います」
「それは、どういうこと?」
と聞くサトコに、ユウキは、前々世でのジャズピアニストとしての経歴や、ヒロユキの演奏がなぜ凡庸なのかについて説明した。
ジャズのコード理論、テンション、スケール、ブルーノート、ヒロユキが何度も使ったアドリブフレーズ「ファソレファドレラドソラファ」を歌い、このフレーズがジャズ的に聞こえる理由を説明して、神業のように聞こえるアドリブソロも、実は意外と簡単なルールに従って音を並べたものである、という話をした。
前世では楽器に触れたこともなかったが、いまだに正確な音感が変わらないことに、ユウキは我ながら驚いた。
サトコは元々、熱心なジャズファンであり、定番的な名盤というものは一通り聴いていた。また、自身も小学校を卒業するまでピアノを習っていたこともあり、ユウキの説明を大方理解したようだった。
「お話は良く分かりました。ジャズのことまでアドバイスしてもらえるなんて、ユウキさんって多才で意外性のある人ね。
弘之も来年で三十路だし、いつまでも実現可能性のない夢を追いかけていてもねぇ。父親と衝突したこともあって、意地になっている面もあると思います。最期によく言って聞かせます」
七
「沙都子、厩橋市役所の採用案内もらってきたよ。それと、厩橋市消防局の採用案内も一緒にもらってきた」
「消防局! 弘之は運動音痴だし、集団行動も苦手だから、消防官は無理じゃないの」
と沙都子は言いました。今朝、沙都子からメールで、市役所の採用案内をもらってくるように頼まれたのでした。
「人事課の人が言っていたけど、これからは民間の景気が良くなるので、市役所としては採用難らしいよ。ぜひ、よろしくお願いしますって言われた。就職するにはチャンスかもしれないね」
「別に市役所じゃなくても、就職してくれるなら民間でもいいけど。弘之がお見舞いに来てくれたら勧めてみるつもり」
「弘之君は来てくれるかな」
「きっと、来てくれそうな気がする」
沙都子は、妙に確信を持って言いました。
八
一月二十三日、ユウキが新厩橋病院の正面入口で待ち受けていると、約束どおりヒロユキがやって来た。
「こんにちは、来てくれてありがとうございます。早速、病室にご案内します」
「お願いします」
ユウキは病室の入口まで一緒に行き、外で待った。
小一時間程して、ヒロユキは出てきた。目が赤く腫れていた。
ヒロユキは振り向いて、入口横に掲げられた『角谷沙都子』の表示を見てから、
「全く別人のようになっていて、姉さんだと言われてなければ、分からなかった。でも、声も、しゃべり方も、話の内容も、確かに姉さんだった」
サトコは全身がげっそりと痩せていて、顔でさえ、頭蓋の上に顔の皮だけという状態だった。
「今日は、ヒロユキさんが来るというので、朝から念入りに、時間を掛けて化粧をしていました」
「化粧なんかしなくていいのに。別人のような化粧をした顔より、素顔が見たかった」
と言って、ヒロユキは廊下を歩き出した。
「もう横浜に帰るのですか? サトコさんの寿命はあと一週間位の見込みです。会えるのはこれが最後になると思いますよ」
と、ユウキは後に付いて歩きながら言った。
「分かってます、もう大丈夫です。・・・いろいろと厳しいことも言われました。音楽のこととか・・・」
「サトコさんが亡くなってしまえば、ご両親はヒロユキさんだけが頼りでしょうから、心配に思うのでしょう。
でも、ヒロユキさんの人生は、あなたにとっては一度きりの、あなただけのものです。 サトコさんに何を言われたか知りませんが、ヒロユキさんは自分でよく考えて、納得できる道を選べばいいと思います。
今日は来てくれてありがとうございました」
「ユウキさん、あなたが何者で、何で姉さんのために働いてくれているのか知りませんが、姉さんのことを最期までよろしくお願いします」
ユウキとヒロユキは、病院の正面入口前で別れた。
ユウキには、ヒロユキにジャズの才能が無いことは良く分かっている。しかし、だからといってヒロユキがジャズを断念するべきだとも思わない。
人の人生に、正しい生き方も、誤った生き方もない。成功した人生も、失敗した人生もない。そんなことは霊界で働くユウキが一番よく分かっている。魂を鉄道に喩えるなら、終点が有るのか無いのかも分からない各駅停車で、一つ一つの人生なんて、ごく短時分停車するだけの途中停車駅のようなものだから。
九
今日の昼間、沙都子の病室に弘之君が見舞いに来てくれたそうです。
沙都子は弘之君に、ジャズを諦めて、厩橋で就職して、両親の傍にいるように説得したそうでした。
沙都子は久し振りに化粧をしていました。夜、隆行が来るまで化粧を落とさずにいたのでした。
痩せて、顔色の悪い、生色を失っていた沙都子の頬に朱が差し、唇に紅を塗り、とても綺麗でした。
沙都子は、最後の気掛かりだった弘之君に会えたことで、生への執着は最早なくなったと思います。医者も、あとは本人の気力次第と言っていました。もう、沙都子は永遠の眠りへと向かって行くしかないのかもしれません。
十
ユウキは、サトコの魂について、移転先と移転日を霊界本部に報告して承認を得た。その後、サトコの病室に現れた。
「サトコさん、魂エクスチェンジの日が決まりました。二月一日です」
「二月一日、丁度あと一週間後ね、相手は教えてもらえるの」
「サトコさんが宿る胎児は、宮城県に住む、ある夫婦の間に出来た男の子です。父親は小児クリニックを開業している三十五歳の医師です。母親は二十五歳。この夫婦の間の初めての子供です」
「お医者さんの息子なの。お金には困らなそうだけど、とにかく体が健康で、普通の家庭であればいいわ」
「胎児に先天的な異常は見つかってません。それと、お父さんもお母さんも、外見的な印象ですけど、良さそうな人でしたよ」
「会ったの?」
「現地を確認に行った時に、見ただけです」
「分かりました。後は全てユウキさんにお任せします」
「ありがとうございます。それからもう一つ。明日にでも、サトコさん宛に小さな荷物が届きます。差出人はあなたの知らない名前です。受け取ったら、開けずに、なるべく人目に付かない場所にしまっておいて下さい」
十一
沙都子の衰弱は日に日に進んでいくのが目に見えて分かりました。いつ危篤になるか分かりませんでした。平日の日中は、お義父さん、お義母さんが病室に詰め、夜は私が面会時間一杯まで付き添っていました。
沙都子は、自分の死に対する気持ちの整理がついたのか、あるいは弘之君と会うことが叶ったからなのか、体は衰弱していても、声に張りがあって、隆行の方が元気づけられるような気持ちになりました。
この日、沙都子は、
「私が死んだら、気兼ねせず再婚してね」
と言って、隆行に再婚を勧めてくれました。とても、そんなことは考えられませんでした。
十二
一月三十一日、ユウキは、魂エクスチェンジの直前に必ずやらなくてはならない作業を行うために、サトコの病室に現れた。
「サトコさん、先日サトコさん宛に届いた荷物を出して下さい」
「これのこと?」
と言いながら、サトコはベッド横の引き出しから小箱を取り出した。
「箱の中身を出して下さい」
サトコが箱を開け、中から小封筒大の銀色パッケージを取り出した。
「銀色の袋の中身を取り出して下さい」
言われたとおり、サトコは銀色のパッケージを開け、中から白いシートを取り出した。
「熱冷ましのシートみたいね」
とサトコは言った。
「人の脳は、肉体の死が間近に迫っていることを察知すると、脳内のある場所のスイッチが入り、脳の中に記憶されている一生分の出来事が高速再現されます。これによって脳の中の記憶が、魂の記憶領域に移るのです。
魂の生前エクスチェンジを行うと、このスイッチが入らないまま、魂が離脱してしまいます。このシートは、脳を刺激して記憶の再現を促す特別な薬が塗ってあります。
今から、そのシートの片面のフィルムを剥がして、粘着面を額に貼って、そのまま寝てください。最初、頭の中がぐるぐる渦巻くような感じがして気持ち悪くなるかもしれませんが、我慢して、そのままで高速で再現されるサトコさんの一生を眺めていて下さい。数分で再現が終わり、魂の記憶となります。そして、そのまま朝まで寝て下さい。朝になったら、そのシートはゴミ箱へ捨てて下さい」
とユウキは説明した。
「分かりました。このシートの送り主はユウキさんのお仲間なんですか」
「霊界本部の指示を受けて、地上の人に物を届けるエージェントです。私逹は物を運んで受け渡すということができません」
そう説明している間に、サトコは言われた通りにシートを貼り付けた。
「これでいいんですか?」
「そうです。それでは、また明日」
ユウキは姿を消した。
十三
二月に入りました。この日は朝からどんよりと曇って風のない底冷えでした。昼過ぎから小雪がちらつき始めました。
隆行はいつものように仕事を終え、午後六時過ぎに沙都子の病室へ着きました。
雪は本降りになっていました。
沙都子は、急に思い出したのか、子供の頃からの思い出話を語り出しました。
幼稚園の頃の話、弘之君が生まれてお姉さんになった時の話、小学校の時習っていたピアノの話、中学・高校と続けたテニス部の話、テニスの練習中や試合中に何度も貧血で倒れた話、大学受験の話、大学生活の話、厩橋市役所に就職した新人時代の話、そして隆行と知り合ってから結婚するまでの話、二人で行った様々な旅行先での思い出話。
あっという間に面会終了の時間になりました。次々と思い出話を繰り出す沙都子に、時が経つのを忘れる程でした。
その時、沙都子は急に上体を起こしました。
「起きない方がいいよ」
と言って、隆行は慌てて沙都子の背中に腕を回しました。あまりにも軽い背中でした。
沙都子は窓の外を見ながら、
「雪、本降りだね、雪が降ってるから、世界が明るくて、とても静かね」
と言いました。
「雪降って良かったね」
と隆行は答えました。
窓の外は、大粒の牡丹雪がひっきりなしに降り続けて、上から下へと流れていました。まるで、病室全体が天の川の中を飛んでいるのではないかと錯覚するほどでした。
沙都子が生まれ育った厩橋の冬は、乾燥した晴天と冷たい空っ風が吹き荒れる気候で、雪は年に数回しか降りません。そのせいか、沙都子は雪が降ると喜び、子供のようにはしゃぐのでした。病気が発覚する前は二人でスキーにもよく行きました。
「角谷君、どうもありがとう。生まれてきて良かった。幸せでした。
お父さんお母さんや弘之にも、ありがとう幸せだった、と言っておいて。
角谷君すき、角谷君すき、角谷君すき・・・・・」
沙都子は、まるで最期の言葉を残すように言い続けながら、隆行の腕に抱かれたまま眠ってしまいました。
沙都子が目を閉じて、繰り返し言い続けていた言葉が途切れた時、沙都子の体から沙都子そのものが何処かへ行ってしまったような気がしました。
丁度その時、天井の方から、というか天の彼方から、
「ありがとう、とても幸せな一生でした」
と言う声が、確かに沙都子の声が、はっきりと耳に聞こえました。
十四
二月一日、サトコの魂離脱の日、ユウキがサトコの病室に現れると、サトコの夫がいた。
サトコは上体を起こし、夫が抱くように背中を支えて、見つめ合い、サトコが何か囁いていた。面会時間終了の午後八時を過ぎており、これまでこんなことはなかった。ユウキの全身に直感的に危険信号が駆けめぐった。
『サトコが未練を持ってしまい、魂の離脱を拒否するかもしれない』
そうなれば、サトコは普通に死ぬだけだが、サトコの魂が宿ることになっている胎児がまずいことになる。
既にユウキは霊界本部に手配して、移転先となった胎児への魂の降下を止めている。魂が注入されないまま生まれた新生児は、数日内に死んでしまうのだ。
ユウキは意を決し、
「サトコさん」
と呼びかけた。
サトコがちらとユウキの方へ目線を向け、また夫の方を見た。
ユウキは右手でサトコの右手を強く握り、渾身の力を込めて引いた。
サトコの魂が引き抜かれて、ユウキと、ベッドに向いて背を見せている夫との間にサトコが立った。サトコの目は、猛烈な抗議の色を一瞬浮かべたが、すぐに振り返り、夫の背に向けて、
「角谷君、ありがとう。とても幸せな一生でした」
と言った。
「サトコさん、私を抱えるように両手でしっかりと掴まって下さい」
ユウキは、サトコの体をしっかりと抱き抱えると、宮城県に住む夫婦の元へ飛んだ。
一瞬後、ユウキは母親の子宮内で眠る胎児にサトコの魂を注入した。
十五
厩橋に大雪が降った夜から、沙都子は眠り続けていました。
雪は翌朝には止み、晴天となりました。病室の窓の外は、低い家々やスーパーや消防署やパチンコ屋の屋根までも全て白一色に雪化粧して、沙都子がどんなに喜ぶだろうかと思いました。
時々、小声で「沙都子」と呼びかけても、顔を背けるように頭を動かし、布団の中で手を軽く握っても、手を引くように動くのです。よほど眠りたいのだと思い、そっとしておきました。
沙都子が眠り続けて三日目の夜、沙都子の心拍数や血圧が急に下がり始めました。急いで義父母に連絡して来てもらいました。
沙都子は夜遅くなって、隆行と両親に見守られながら、静かに、本当に静かに、命の脈動を停止させました。
十六
ユウキは、霊界本部内の自席にある端末に届いたメールで、サトコが二月四日、死亡したことを知った。
また、サトコの魂を注入した胎児は、二月七日に無事誕生したこともメールで知った。
ユウキが魂コーディネーターとして初めて担当した案件は無事成功したことになる。
ユウキはサトコの葬儀の様子を見に行った。自分が手掛けた初めてのクライアントであり、気になったのだ。
サトコは現職の厩橋市職員だったこともあり、参列者は多かった。厩橋市長も参列し、弔辞を読んだ。
ユウキは自分がオートバイ事故で死んだ時の葬儀を思い出した。ユウキの魂は、葬儀会場を俯瞰するような場所から、自分の棺や参列者を見下ろしていた。妻が大きくなったお腹を左手で擦りながら、右手で持ったハンカチで鼻を押さえていた姿を思い出す。
サトコの葬儀会場には、当然のことながらサトコの魂はいない。
火葬場に移動し、棺を取り囲む親族らが遺体に最後の別れをした後、棺は火葬炉に入った。
ヒロユキの姿があった。ヒロユキはユウキに気付き、軽く会釈した。参列者が控え室に移動した後、ヒロユキは火葬炉の前に残って、ユウキに話し掛けた。
「ユウキさん、あなたは姉さんの何なのですか?」
「私は霊界のスタッフで、サトコさんの魂を案内する任務を持った者です」
嘘を言っている訳ではない。ヒロユキに魂の生前エクスチェンジの話を詳細に説明する必要はない。ヒロユキが、この場にサトコの魂がいないことを感じて、残念に思っているかもしれない。
「ユウキさん、僕は厩橋で就職することにしました。と言っても、まだ就職先が決まった訳ではないですけど。厩橋市役所の採用試験を受けてみるつもりです。受かるかどうかは分かりませんが、もしだめでも、今の世の中は人手不足だというし、どんな仕事でもいいから汗水たらして働いてやるつもりです。
ジャズは趣味として、仲間と集まってジャムセッションしたり、何かの時に人前で弾けたらそれでいいです」
とヒロユキは言った。
「そうですか、頑張って下さい。ヒロユキさんなら、どんな仕事に就いても必ず上手く行くと思いますよ。地元で、ご両親の側にいてあげて下さい」
「ユウキさんのお陰で、生きているうちに姉さんに会って話すことができました。ありがとうございました」
ヒロユキはお辞儀をして、控え室の方へ去って行った。
(了)




