物語のはじまり 0
季節は晩秋、色付いた木々の葉達が落葉し初めた頃。
相棒とともに癒しを求め、やまあいの長閑な渓谷に来ている。
朝靄のかかる峠道を抜け、いつもの駐車場へ相棒を停める。
「ふぅ……」
小さくため息をつき、先ほど自販機で買ったコーヒーを飲みながら水面に目をやる。
気分が晴れない日は良くここに訪れ、こうやって意味も無く水辺で佇む。
こんな景色が見れることだけが、高齢化率30%超のクソ田舎に住んでいてありがたいと感じる瞬間だ。
水鏡に映る生い茂る木々と枯れ初めた葉、そして自分の姿。
身長174センチ、体重48キロ、筋肉の全く無い体脂肪率8%の身体。
「まるで枯れ木だな……」
足元に転がる石を手に取り、水鏡に映る自分自身に投げつけた。
広がる波紋が消えるのを見届けてから、相棒の待つ駐車場へと引き返す。
8年落ち、走行距離2万キロ足らずで俺の元に来て10年、総走行距離25万キロを超えた相棒。
アラサー彼女無し、親しい知人も無しな俺の唯一、休日を共に過ごす相手がコイツだ。
「お待たせ、そろそろ行こうか」
艶やかに光る黒いボディを撫でると、無機質な冷たい感触が手から伝わる。
いつからだろうか、こうして車に向かって話しかけるようになったのは。
我ながら末期だと思う。
シートに座りクラッチを踏みながらキーを回す。
<キュ……、キュ……、キ、キュ……、キュ……>
弱々しい音と共に相棒は沈黙した。
そろそろセルモーターが怪しいか……。
つい先日、足回りのオーバーホールが終わったばっかりで資金難だというのに。
もう一度、クラッチを踏み直しゆっくりとキーを回す。
<キュ……キュ……キュッ、キュルキュル、キュル、グオォォォォンッ>
再び弱々しくセルモーターが回った後、2ZZ-GEが鼓動を始めた。
「よし、良い子だ」
ダッシュボードを撫でてから、ローギアに入れ静かにクラッチを繋ぎ走り始める。
ゴッと音を立て駐車場と公道の境目に設けられた段差を越えていく。
程良く堅くセッティングされた足回りのおかげで、段差を超える時の突き上げ感すら心地良く感じる。
復路につきしばらく走っていると急に、強い光を照射されたかのように視界が真っ白になった。
ほんの一瞬の出来事、一秒程度の出来事。
と、次の瞬間。
視界に現れたのは一匹の猫。
それも道路の真ん中で両手を揃え、座ってこちらを見ている。
猫と目が合った。
反射的にハンドルを右に思いっきり切りながらブレーキを踏んだ。
道幅は細く、車二台がギリギリ離合出来るような道である。
左はガードレールも柵も無く、落ちれば渓谷にそのままダイブだ。
事故の瞬間はスローモーションに見える。
そんな話を良く聞く。
自分が実際に体験すると考えた事は無かったが。
実際にはスローモーションというよりは、コマ送りで映像を見る状態に近かった。
微動だにしない猫。
アスファルトの継ぎ目。
ボンネットに映り込む空。
車体が横を向く瞬間。
――――左に向かって滑っていく風景。
何故だ、ハンドルは右に切れている!
アスファルトの無い、接地感も何も無い空間をただ進んでいく。
いや、正確に言えば滑空しているのだろうか。
流れる風景がふいに途切れる、そしてまた唐突に真っ白になる視界。
先程とは違い今度は永遠に、この白い闇が続くように感じた。
これが死ぬという事か、と妙に納得した。
遠のく意識の中、耳元で囁くような声が聞こえる。
「――――貴方は私が守ります、他の全てを犠牲にしてでも」
次に眼が開いた時には、見知らぬ天井があった。