物語のはじまり 1
見知らぬ天井。
いつも目覚めと共に見る、むき出しの蛍光灯はそこには無かった。
石造りの天井は高く、仄かに窓から光が射している。
霞む視界の中、少しずつ辺りの様子がぼんやりと網膜に届く。
すぐ隣に人の気配……。
頭の重さと強い倦怠感。
上が90という超低血圧なので、普段から目覚めは良くないが、この日の目覚めの瞬間は常日頃より一層に気だるさを感じるものであった。
「おはようございます、ご気分はいかがですか?」
――気分?
髪の毛一本一本にジェット天秤を結わえ着けられた気分だ。
しかしこの声の主が誰であるのか、皆目見当がつかない。
ベッド脇に腰掛けていたであろう気配の正体が、こちらに歩み寄り顔を覗き込んできた。
金色に輝く二つの瞳に見つめられる。
長い睫毛に少し釣り目な大きな瞳。
腰まで届く長い黒髪を耳にかけながら、安堵の笑みを浮かべるその人物に見覚えは無かった。
陽の光を浴び照らされる艶やかな黒と、透き通るような肌の白さのコントラストは幻想的で神々しく見えた。
そもそも、俺のクソったれな日常生活でこんな美人に目覚めの挨拶をしてもらうシチュエーションなんて存在し得ないのだ。
「良くは無いな……」
俺は何故こんなところで寝ている?
眠りにつく前の出来事を思い出そうとすると激しく頭が痛む。
呻くように呟いた後、未だはっきりしない思考能力で考えてみる。
此処は病院か何かだろうか?
しかし眼前に佇む人物はどう見ても看護師には見えない。
丈の短い黒と紫のタイトワンピースのような服から覗く肢体に目がいく。
華奢だが程よい肉付きの脚だ。
特に自己主張の激しい太もも部分なんて俗を捨てた僧侶でも凝視するレベルだと思う。
「どこをご覧になっているのでしょうか、ご主人さま?」
……ご主人様? イメクラだったのか此処?
そうであれば、ガーターベルトなんてエロ方面しか連想できないような装備をしている合点がいく。
おいおい、事の最中で眠ってしまってたらどえらい金額を請求されるんじゃ……。
「三日ぶりに目を覚まされたと思ったら、そんな猥らな視線で私を見つめるなんて……」
端整な顔の頬を膨らませながら、一瞬こちらから視線を離した後、真っ直ぐ向き直り満面の笑みでこう言った。
「ようやくこうして言葉を交わすことが出来る日が来たのですね……、夢のようですっ!」
ここ五、六年程は仕事以外で女性と話す機会などない上に、こんな美少女の知り合いなんて居た覚えはない。
これは夢の中か?
夢と言えばつい最近、雪山でババアと鬼ごっこをする悪夢を見た。
夢以外で、こんな美人と係わり合いになる場面なんて、壷を売りつけられるか美人局ぐらいしか連想出来ない。
鈍痛の響く頭の中で、状況を把握出来ないままの俺に少女はこう続ける。
「十年間ずっと、こんな日が来ることを夢見てきました」
笑みを浮かべそう言った少女の頬に、今度は一筋の涙が流れた。
心配そうな顔、ふくれっ面、満面の笑顔、そして泣き顔。
短時間の内に喜怒哀楽めまぐるしく変化する表情、そしてその全ての感情は俺に向けられたもの。
……最近のイメクラ嬢は演技派なのか?
徐々に覚醒してきた意識の中で思案を巡らせるが、疑問は増すばかりだった。
「君は誰だ?そして俺は一体……」
俺は目下の疑問を口にした。
枕に預けていた頭を持ち上げ、痺れるような感覚の残った上半身を起こす。
少女は涙を拭うこともせず、両手をそっと伸ばすと俺の頬に触れた。
柔らかで暖かい感触が伝わり、まるで全身の痺れを癒すかのように感じた。
「私はセリカ、ご主人さまの所有物です」